『公研』2025年2月号「めいん・すとりいと」
春先は入試シーズンである。年明けの1月、シーズンのいわば開幕を告げるのが、大学入学共通テストである。多くの方にとって馴染みのない名称だろうが、かつての共通一次試験、大学入試センター試験がその前身だと言えば、おわかりいただけるに違いない。共通一次試験が1979年1月に初めて実施されてからすでに45年以上が経ち、初期の受験者は還暦を過ぎている。もはや松の内を過ぎた時期の風物詩になったのかもしれない。
高校までの教育内容や大学をめぐる変革の動きを反映して、英語のリスニング問題や新科目「情報」が追加されるなど、45年の間に試験そのものいろいろと変わった。リスニング問題を入れて日本人大学生の英語を聴く能力が大きく上がったというデータは見たことがなく、変更にいかほどの効果があるのか、十分に根拠はあったのか、疑問は残る。だが、試験を取り巻く環境変化に応答しようという意思は感じられる。
その一方で、十年一日どころか開始以降変わらないことがある。それは、受験者が自己採点を行って自分の得点を予測し、出願先の大学を決めるという仕組みである。厳密には、1987年度のみ共通一次試験前に出願する仕組みを採用したが、正確な得点がわからないまま決めさせることには違いがない。大学入試センター試験の時代から私立大学の参加も増えたが、受験者が自己採点せねばならないところは国公立大学と同じである。
試験はすべて客観方式、すなわち正答が一つだけ決まっており、その選択肢をマークシート上で塗りつぶして記入する方式がずっと続いている。当然ながら採点はコンピュータを使って行われている。
採点結果を通知してからの出願は時間的に無理だというのが、実施側の立場なのであろう。45年前のコンピュータの性能であれば、数十万人に及ぶ受験者が記入したマークシートの処理に日数を要した可能性はある。しかし、現在の性能をもってしても処理日程を変えられないとは、私には到底思われない。どうしても能力面での制約があるのなら、試験実施時期や大学入学時期を変えるという対応もできるはずだ。
自己採点は、マークシートへの記入に加えて手元にある問題用紙に解答を転記しておく必要があるため、そもそも受験者に負担を強いる仕組みである。当日の試験時間の費消にとどまらず、解答の転記ミスは自己採点と実際の成績の食い違いを生み出す要因となり、心理的負担は大きい。
両者の食い違いで、そもそも合格可能性の低いところに出願してしまうケースも、体系的な調査が行われていないだけで起きているに違いない。自己採点ミスの人数は少ないとしても、転記能力は大学入試において求める能力ではないはずで、それが合否に影響するのは合理性や妥当性を欠く。技術的に可能なのに、受験生が出願前に実際の得点を知る機会を得られないのはフェアではない、という共通認識が広がってほしいと強く願う。
かつての共通一次試験の時代のように、関係するのがほぼ国公立大学だけであれば、大学ごとの二次試験とあわせて入試であり、一次試験の結果で出願先を決めること自体がおかしいのだから、自己採点の機会があるだけでも厚意だという主張が可能であった。しかし、その主張は実情に反するだけではなく、自己採点後に私立大学に出願する入試方式が認められた時点で破綻している。
このような不合理な方式が続く理由は何だろうか。文部科学省や大学入試センターの怠慢だろうか。政治家や教育に一家言持つ経済人の関心を惹かないテーマだったからだろうか。自己採点ミスをするような人物は不利な扱いを受けてもやむを得ないという、悪しきエリート的な冷酷さからだろうか。
どれもありそうだが、そういうミスを含めて青春の貴重な経験、といった中高年の身勝手な若者像が現実の若者を苦しめる、現代日本社会の「よくある構図」が見え隠れする気もしないではない。京都大学教授