少数与党の政治史【清水唯一朗】

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『公研』2024年12月号「めいん・すとりいと」

 なんとも激しい一年となった。年明け早々の派閥解体、八月に首相の退陣表明、九月の自民党総裁選、一〇月の衆議院議員総選挙を経て、一一月には、羽田内閣以来実に三〇年ぶりとなる少数与党政権が発足した。半年前、「政党政治の試験時代」と題して寄稿したが、それはより現実のものとなった。あまりに大きな変化に不安がよぎる。

 無理もない。少数与党は三〇年ぶりだが、その前は自民党結成以前、第二次鳩山内閣にまでさかのぼる。国民だけでなく、政府にも少数与党を経験した者はほとんどいないのだから。

 他方で、日本が普通の国になった、いや、日本政治が普通になったとも感じる。多党制の国が多い欧州では過半数政党が現れないハングパーラメント(宙づり議会)が常態であるし、ベルギーのように連立政権の発足に一年以上かかる国もある。現在ではカナダも、より近くでは大統領制ではあるが韓国(今夜、変事があったが)、台湾も少数与党が政権を担う。「宙づり議会」と言われるとおどろおどろしくも感じられるが、部分的な断絶こそあれ、七〇年近く一党優位が続いてきた戦後日本政治のほうが特殊であるのだ。

 欧州各国の事情はすでに数多の専門家が論じている。ここでは日本政治のなかで少数与党がどう振舞ったのかを見ていく。

 戦前の政党内閣は、その過半が少数与党からスタートした。憲政の常道の考えに基づき、政権が倒れると第二党の党首に組閣の大命が降下するルールが採られていたためだ。とりわけいわゆる政党内閣期の加藤高明改造内閣から第一次若槻内閣、田中義一内閣、濱口内閣、犬養内閣はいずれも少数与党であった。

 彼らは組閣後、なんとか年明けまでしのぎ、通常議会序盤で解散に踏み切る。予算を人質に抱えた、なんとも大胆な解散だ。田中、濱口、犬養、続く岡田啓介内閣はいずれも二月二〇日に総選挙を行っている。ここで与党の力を発揮し、多数を得て最初の通常議会を乗り切ってきた。

 ちょうど一〇〇年前、護憲三派内閣が崩壊したのちの加藤改造・第一次若槻内閣は稀有な例外である。連立相手が野党に転じる危地に際し、党首会談を開くなど巧みに議会を運営して、閣法一四三のうち一三六を成立にこぎつけた。戦前の少数与党は、政策形成過程を高等政治のブラックボックスのなかで進めるのではなく、国民の、有権者の前に示し、その目の前で決定していくことで活路をひらいた。

 戦後はどうか。新憲法の施行にあたった第一次吉田内閣は少数与党であったが、GHQの支援もあって各党との協議に意を用い、三度の議会に出した閣法一三〇のうち一二九を成立させた。ワンマンのイメージが強い吉田内閣だが、混乱した第一五国会を除けば、少数与党下できわめて好成績を挙げている。つづく第一次鳩山内閣は戦前同様に通常国会中の解散に踏み切る剛腕を見せたが、議席数を伸ばした第二次内閣では少数与党ながら九割の閣法を成立させている。

 二大政党が存在するなかでの少数与党は多数争いでデッドロックとなる。他方、護憲三派や戦後初期のように三党以上が牽制しあう状況では、少数与党は戦略的に振るまい、実績を上げることができる。今日は多党化の状況にあり、対立のエネルギーを協調に転じ得る構造は現出している。

 七月には参議院議員通常選挙が控える。反対のための反対に固執すれば国民の支持を失うことはどの野党も理解している。同様に、政権運営が過度に剛腕によればこれまで以上の批判につながることを与党は承知している。日本の有権者が政権の、政治家の実績を評価して投票する業績投票志向が高いことが知られてきたことは大きい。

 戦後八〇年、昭和一〇〇年の節目は、多党化の時代に叶う政策形成への転機になるだろうか。日本政治の行方を左右する一年がやってくる。

慶應義塾大学総合政策学部教授

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