佐渡島の連絡船から見たイルカの飛翔【宮田亮平】

B!

『公研』2024年7月号「私の生き方

 

金属工芸家 第9代東京藝術大学学長 第22代文化庁長官
宮田亮平

 


みやた りょうへい:1945年新潟県佐渡市出身。70年東京藝術大学美術学部工芸科卒業、72年同大学大学院美術研究科(工芸・鍛金専攻)修士課程修了。大学院修了後は同大非常勤講師に就任。以後、同大助教授、教授、美術学部長などを経て2005年第9代東京藝術大学学長に就任、16年まで3期務める。16年2月から21年3月まで文化庁長官を務める。現在は公益社団法人「日展」の理事長を務めている。東京藝大工芸科で鍛金技法研究の指導に当たる一方、金属工芸家としても世界的に活動。代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen)」シリーズがある。また東京駅に設置されている4代目「銀の鈴」など多数のパブリックアート作品がある。受賞歴に第46回「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞、2012年日本芸術院賞、 第18回「日本現代工芸美術展」文部大臣賞など。著書に『イルカのごとく』などがある。


 

佐渡の紅葉は抜群に美しい

──1945年佐渡島のお生まれです。佐渡には四季折々の魅力があると思いますが、宮田さんが特に好きな時期はいつでしょうか?

宮田 晩秋だね。佐渡の紅葉は抜群なんだよね。紅葉のなかに、ところどころに針葉樹の緑が入っているのが綺麗なんだ。赤や黄色がいっそう映えるのは、緑があるからなんだよ。色彩のバランスがとれていて本当に見事だった。

 その美しさを最後にして、自然は雪に身を隠してしまいます。それからは、長い冬の寒さに耐えなければならない。今と違って当時の佐渡の冬は本当に寒かったから、冬のあいだは春が来るのをずっと待っていました。けれどもツラいことばかりじゃない。寒くなると魚に脂が乗って美味くなるんだ。海が荒れているからなかなか獲れないのだけど、そんな貴重な魚をみんなでいただいたことはよく覚えています。佐渡には四季折々の違いがあって、それを自分のなかで咀嚼することを積み重ねながら育っていった感じですね。

──印象に残っている佐渡のお魚は?

宮田 好きだったのは、カサゴやメバルなんかの根魚ですね。サヨリも綺麗でおいしかった。いろいろな魚がいたけど赤身の魚はいなくて、東京に来て初めてマグロを食べたんです。おふくろは、最後まで赤身の魚には箸を付けようとしなかったな。

 僕自身もたらい舟に乗って、釣りをしていました。たらい舟は底が平らだから、浅いところでも下を気にせずに岩と岩のあいだをクルクルと動くことができる。普通の舟と違って、小回りが利くんです。藝大に受かって最初の夏休みに帰省したときに、夜中に大きなスズキを釣ったときは気分が良かったね。夜釣りだからスズキが飛び跳ねたときに、糸がシュシュっと光って吊り橋のように綺麗に見えました。まるで、ディズニー映画の『アナと雪の女王』で雪の結晶が輝いているような場面でした。光の正体は、夜光虫が光っていたわけです。スズキを釣り上げて持って帰ると、父が魚拓をとって、即興で詠んだ句を魚拓の横に添えてくれました。

 「生と死を見極めながら魚拓すり 流転する海のわびしさを知る」

 印象的な出来事があると、単なる頭脳的記憶ではなくて、視覚と触覚に訴えるかたちで思い出を刻んでくれるのは我が家のおもしろさですね。あれは嬉しかったな。

 

実家は蝋型鋳金を生業としていた

──ご実家は、佐渡の伝統的な金工の技法である蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)を生業とされていたそうですね。

宮田 江戸時代までは染物をやっていましたが、明治になって蝋型鋳金を始めたのが初代・宮田藍堂です。僕の祖父ですね。「藍」の字は藍染めに由来しているのですが、祖父の時代には藍染は完全に廃業していました。

 蝋型鋳金は、最初に松ヤニと蜜蝋を混ぜてつくった素材でかたちづくった原型を土で包んで焼きます。熱を加えると中の蝋は完全に消失して空間ができるから、そこへ金属を流し込むわけです。古来からの方法だけど扱うのはたいへんです。鯛焼きの鋳物の型などとは違って、複雑なかたちや繊細な模様や細工を高い精度で施すことができるところがおもしろい。

 中国や朝鮮半島から日本に入ってきた技術なのだけど、佐渡に持ち込んだのは金工家の初代・本間琢斎とされます。祖父も本間に師事して、蝋型鋳金の技術を身に付けるんですね。盛んな時期には、佐渡の小さな町に7軒も蝋型師の家があったそうです。

 祖父はその後、東京へ修行に出ました。そこで東京美術学校(現在の東京藝術大学)に鋳金の講師として招かれます。東京美術学校は国の殖産興業として活動していたようです。彫刻家の高村光雲の指導のもと、皇居外苑に立つ楠木正成公の銅像制作にも携わっています。明治35年からは佐渡に戻って活動しますが、父が中学校3年生のときに祖父は亡くなっています。父も祖父から指導を受けたわけではないし、僕たちきょうだいは誰も会ったことはありません。祖父の作品を見ると、会って話をしてみたかったですね。すごい人だったと思います。

シュプリンゲン「群遊」

 

金属を叩く音を聞けばその人の技量がわかる

──ご実家には松ヤニや蝋蜜の香りがいつも漂っていたのでしょうか?

宮田 蝋蜜は、香りはほとんどありません。松ヤニは独特な香りがします。それよりも金気の匂いがしていましたね。それに金槌やたがねで金属をカンカン叩く音が一日中聞こえました。小さい頃から、制作中の父の姿を見るのが好きでしたね。工房に入り浸っては飽きることなく眺めていました。僕は金属を叩く音を聞けば、その人の技量がわかるんですよ。上手な人の音はどんなに大きくても心地よく響くんです。

──松ヤニに蜜蝋を混ぜたもので原型をつくるという発想はすごいですね。

宮田 自然の中から、素材を見つけ出して利用してきたことには感心しますね。蝋型鋳金は、型のなかに銅に亜鉛やスズ、鉛を合金にしたものを流し入れる「吹き」という作業がポイントになるんです。ここで失敗すると、それまでの苦労がすべておじゃんになってしまう。一発勝負ですから、「吹き」が行われる日は朝から家中に緊張した空気が張り詰めるんです。暗いうちから鞴(ふいご)の「スーパタン」という音が聞こえてくると、「きょうは吹きだ」と布団のなかで緊張しました。

 夜になって冷めた型を壊して、作品を取り出します。金属が均一に流れていなければ、最初からやり直すことになる。うまくいけばいいのだけど、失敗だったときは家中が重苦しい雰囲気でしたね。

──宮田さんも蝋型鋳金で制作されるのですか?

宮田 僕はやりませんでした。父が2代目の宮田藍堂で、一番上の兄(宮田宏平氏)が3代目を継ぎました。今は兄の息子(宮田洋平氏)が福岡教育大学で教授として教えていますから、技術は伝承されていくでしょう。

 ただ、いい材料が入手できなくなっています。松ヤニは精製されたものではなくて、樹木から直接噴き出しているものを採取するのがいいのだけど、入手するのは結構むずかしくなっている。蜜蝋も温暖化の影響なのか、良質なものが採れないそうです。材料が悪いと腰が弱くなってしまって、細い線を型取ろうとしても崩れてしまう。兄の作品なんかは、とても細い線で表現するものがあるけど、今の材料でそれをやるのは限界が出てきているんです。

 

7人きょうだい全員が芸術の道に

──一番上のお兄様は3代目、宮田藍堂としてお父様の跡を継がれましたが、他のごきょうだいも芸術の道に進まれたそうですね。

宮田 長女の悦子は「書」を続けました。2番目の兄、修平は藝大を出てから愛知機械工業にデザイナーとして勤めました。デザインセンスが良くて絵も上手かった。次女(睦子)も藝大に進学して、工芸科で彫金を学び、舞台美術の世界で活躍していました。三女のやす子は女子美術大学で染織、四女の友子は武蔵野美術大学で油絵をそれぞれ学びました。

芸術家などめざすものか

──きょうだい全員が芸術関係に秀でているというのもすごい話です。

宮田 5歳になったときに、親父とおふくろの前に正座させられたことがありました。目の前に白い扇子とそろばんが置かれて、「お前はどちらをとるか」と聞いてくるんですよ。僕は迷わずに扇子を取りました。それから、扇子と足袋を入れた布袋を下げてお袋や姉たちと一緒にお能のお師匠さんのところへ行って、仕舞を習うことになりました。

──7人きょうだいのなかで「そろばん」を選んだ人はいたのですか?

宮田 誰もいない(笑)。

──5歳の儀式は佐渡に伝統的に伝わってきたものなのですか?

宮田 たぶん他の家でもやっていたと思う。佐渡には能舞台が30以上もあるからね。能の舞台に立つ人も多くて、芸術を見る目が肥えているんですよ。どの家にも掛け軸や色紙が当たり前のように掛けてあります。僕の初舞台は、小学校1年生の時でした。能を習ったおかげか、僕は小さい頃から担任の先生などから「所作が良い」と褒められていたんですよ。藝大に入学してからも、飲み会のときなんかにずいぶん役に立ちました。今の人たちはどうかわからないけど、大学に入ると飲みますよね。藝大ではバカ飲みするだけではなくて、芸をするんです。しょうもない芸なんだけど、僕はそれがうまいらしい。動きのキメなんかが「他の人とは違って決まっている」と言われたりして皆に喜んでもらえました(笑)。小さい時に能をしていたのが生きているわけです。まぁ、お調子者ですね。

──才能溢れるお兄さん、お姉さんたちに影響されて、宮田さんご自身も若い頃からアーティストを志望されていたのでしょうか?

宮田 僕は6人の兄や姉たちにずっとコンプレックスを持っていました。実家には彼らが描いたデッサンもありましたから、兄たちや姉たちとの実力の差を嫌がうえでも思い知らされていました。あぜんとするほど上手いわけですよ。学校の先生や近所の人からも、「お兄さんやお姉さんたちはあんなに絵や字が上手なのに……」と言われてきましたからね。ツラいですよ。次第に絵を描くことが楽しくなくなっていきました。だから、芸術家などめざすものか、と思っていたんです。

 それでもとても不思議なことに、高校2年生を終える頃には自分もやはり藝大に進みたいと考えるようになりました。工業デザイナーをしていた2番目の兄の影響もあって、自動車のデザイナーに憧れるようになりました。あの頃の日本車のデザインは、本当にカッコ良かった。アメリカ車の良いところを抽出して、日本に合ったコンパクトにまとめて独自のデザインとして昇華させていました。僕もその第一線でやってみたいと思っていました。

 僕はブルーカラーとホワイトカラーの両方の仕事をやれる人間になりたかったんです。例えば、自分がデザインしたものを現場の人たちにつくってもらうにしても、「いや違うんだ。そうじゃなくて、こうするんだよ」という具合に自分で修正できたらいいなと。設計図ばかりでは3次元ができないじゃないですか。僕はその両方できる人になりたかった。それが藝大に入ってからの夢でした。

 

 

おしゃれで色彩感覚に優れた母

──7人の芸術家を育てられたお母様はどんな方だったのでしょうか?

宮田 とにかく手先が器用で、それに色彩感覚が抜群に良かった。母や姉は春になるとセーターをほどいて大釜で糸を染め直して、また編んでいました。そうすると、毎年違う色やデザインのセーターを楽しむことができる。厚紙を縮緬の風呂敷で包んで帯代わりにして利用してみたり。限られた着物や帯を上手に組み合わせて着たりしていました。とても、おしゃれでしたね。

 母の器用さと色彩感覚は、一番上の兄に完璧に伝授されていましたね。そのあたりに関しては、父よりもおふくろのほうが優れていたと思うね。だからと言って、お袋は父に「こうやったら」とか「こうやるともっといいのになるよ」といったことは絶対に言わなかった。そこはすごいなと思います。僕なんかカミさんに「何やってんの」といつも言われていますから(笑)。

──ご著作のなかに、日展の締め切りが迫るとお父様とお兄様の間で火花が散るような緊張感があったとありました。親子でありながらライバルでもあったのだとすれば、理想的な師弟関係のようにも思えます。

宮田 理想を超えてましたね。後ろ姿を見てると、もうほとんど一触即発のような感じでした。小さかったから、そういうときは怖くて工房には入れなかった。作風は全然違うし、お互いが高みに到達することを競い合ってめざしているような感じがしました。

──お兄様が父上を超えていく局面はあったのですか?

宮田 我が家の家風なのかもしれませんが、同じような作品を一子相伝ではやらなかった。だから、そういう判断はできません。芸事でも一子相伝の場合、よく「何代目は良かったね」というふうになりますよね。でも、父と兄の場合は、母体は同じ金属だったけど、表現する目的や方向性がお互いに違っていました。お客様も二人の違いをそれぞれに楽しんでくれていました。そこはありがたいことだとも思いました。

 父は「蝋型鋳金はこうやるんだ!」というスタイルで、兄は「蝋型はここまでやれるんだ!」という感じでした。同じような言葉だけど全然違います。二人ともその違いをよくわかっていましたね。

シュプリンゲン「綾」

 

佐渡から東京へ

──高校卒業後は、藝大進学に向けて東京の美術予備校に通われます。故郷の佐渡島を離れるときはいかがでしたか。

宮田 昔は佐渡から新潟に渡るのもたいへんでした。「船待ち」と言って、荒れた海が収まるのを待たなければならないことがよくありました。小さな連絡船でしたから、信濃川の河口で高波が立つとそれを越えられなくなります。すぐ目の前に新潟が見えているのに、佐渡へ引き返すことがありました。その逆もありました。そのときは港のそばにある船待ち専門の宿をとって、船出を待つことになるんです。物理的にも心理的にもとても遠いところへ行く感じでしたね。

 東京ではすでに金工作家として独立していた一番上の兄貴の目白にあったアトリエに住まわせてもらいました。屋根裏の部屋を用意してくれていたんです。

──東京にはすぐに馴染めましたか?

宮田 佐渡弁がなかなか抜けなくて半年ぐらい無口でした(笑)。予備校の画塾は浪人生や高校時代からやっている連中がいっぱいいて、みんなうまい。僕は高校3年生になってからやっと始めたから、それに対抗するのはとてもキツかったですね。

 浪人生活2年目から予備校通いはやめました。授業料がもったいないのもあるけど、もっといい勉強の仕方がある気がしていました。池袋に「池袋モンパルナス」というアトリエ付きの貸家群があって、そこに兄の教え子である藝大生の榑松次郎さんが部屋を借りていました。有り難いことに、昼間はアトリエを使わせてもらえることになったんです。次郎さんのお父さんは、藝大を出た洋画家の榑松正利先生なのだけど、たまにアトリエを通りかかることがあると、デッサンのちょっとしたアドバイスをいただけることもありました。夕方になると、次郎さんや同級生が集まって、一杯やりながら芸術談義が始まりました。彼らの話を聞いているだけでも得るものが多かった。藝大に入学したいというモチベーションも高まったしね。

 浪人時代はおもしろかったですね。60年代半ばの東京は、「自分のかたちはこうだ!」と自分の生き方をきちんと認識していなければ、あっという間に時代に流されてしまうような激しさがありました。それを「おもしろい」と言うのは適切ではないのだろうけど、それでもやはりおもしろかったですね。

──2浪の末、東京藝術大学美術学部工芸科に合格されます。大学生活は楽しかったですか? よく藝大生は入学すると、周囲に圧倒されて自信を失ってしまうとも聞きます。

宮田 僕は楽しくてしょうがなかったです。昼も夜も楽しくて家にはあまり帰らないで、よく学校に潜り込んで寝泊まりしていました。同級生たちと作品で勝負して、お互いに感じたことを語り合えたことですね。

 毎日スケッチして、お互いにそれについて意見を言い合う。毎日が真剣勝負なんです。そういう会話ができたことは至福でした。だから、いい思い出しかない。それに悪いことは、すぐ忘れるようにしているからね。悪い思い出は痕跡だけは覚えていますが、生々しく記憶に残すようなことはしないんです。

 僕は教員として藝大に残って学長までやりましたから、ちょうど半世紀、藝大にいることになりました。いろいろな学生に接しましたが、やっぱりキワキワで生きていることが多かった。何かできることがあれば、「寄り添う」ことは意識しました。寄り添い過ぎるとおかしくなることもあるのだけどね。

 芸術表現というのは、数値に表れない世界だから「これでいいのだろうか」という疑念に常につきまとわれることになる。「これが最高だ!」と思っている作品を完全に否定されたりすることもある。だから本当にむずかしいのだけど、講評会が終わった後には一杯やりながらじっくり語り合ったものでした。

シュプリンゲン「生と静」

 

鉄のカマキリに衝撃を受ける

──宮田さんは鍛金を専攻されましたが、ご専門はどのように決まっていったのでしょうか?

宮田 工芸科は入学から2年間は専門を決めずに、彫金、鍛金、鋳金、漆芸、陶芸、染織などの領域を自由にめぐって勉強します。これを「どさ周り」なんて呼んでいましたが、どんな研究室があるのか見極めたうえで専門を決めるわけです。金工を彫金、鍛金、鋳金というように専攻を細分化して教えるのは、美術大学の中でも藝大くらいでしょうね。

 僕は2年の秋になっても進路を決めかねていたのだけど、東京都美術館で開かれていた日展で驚くべき金工作品に出会ったことで迷いが消えることになります。それは針金のような細い4本足で立つ、鉄のカマキリでした。藝大で鍛金を教える山下恒雄先生の「草原の舞踏会」という作品です。長さ50センチほどの細い足は、鋳金の技術でつくったらポキッと折れてしまったと思います。山下先生は鉄の板を熱して叩き、薄くのばしてカーブさせ、中が空洞のパイプに溶接していました。パイプにしたことで鉄の強度が増したわけです。鍛金ならではの繊細な技に感動しました。

 私は迷うことなくカマキリ先生こと山下先生の研究室の門を叩きました。先生は若い頃に自動車会社に就職していましたから、工業デザインにも詳しかった。鍛金の技術があれば、机上で設計図を引くだけでなく現場に下りていって自分で溶接して模型をつくり、職人と対等に話ができます。先ほども言いましたが、ホワイトカラー、ブルーカラーの両方の仕事ができる人間になりたい私にとって、山下先生はお手本のような存在とも言えました。

 鍛金の研究室棟の作業場には巨大ガス炉や大型高速カッター、1000度近い高温の金属を押しつぶす鍛造機、旋盤・フライス盤などの工作機械が設置されていて、町工場のようでした。研究室は危険物を扱い、制作中は鼓膜が破れるほどの騒音がするので、構内の隅っこに押しやられていました。

 大学院を修了した後に、「大学に残らないか」と声を掛けてくれたのも山下先生でした。こうして藝大で助手、講師をしながら、金工作家としても活動する日々が始まります。藝大では学長も務めることになりましたから、結局、半世紀通い続けることになりました。

 

電話越しに2時間続いた兄の説教

──金工作家として活動を開始してからも、一番上のお兄様は宮田さんの作品に対してずいぶん厳しい意見やアイドバイスを述べられていたそうですね。

宮田 そんなにカッコいいもんじゃない。ただ怒鳴られていたんですよ。電話越しに2時間以上も説教されたこともありました。それを我慢して聞いていました。有り難い助言だとは思っていませんでした。でも不思議なんだけど、僕は抵抗しなかった。兄には、「オレのほうが正しい」という何か原点になるようなポイントがありました。僕は兄が考えている原点については納得できていたから、喧嘩にはならずに聞くことができたのでしょう。

 結局、作品というのは、今現在までの自分の生きざまの証明だよね。だから、作品はそれ以上にもそれ以下にもならないわけです。でも、自分が求める理想像とあまりにかけ離れていたりすると、そこに言い訳や妥協が生じます。「時間に間に合わないから仕方がない」とか「金がないからこの材料でいいや」とかね。兄からすれば、それが気に入らない。僕が油断しているところを必ず見抜いて、そこを突いてくる。「お前はここで終わるのか」と言いたかったのでしょう。今にしてみれば、「お前はもっとできるはずだ」と伝えるために怒っていたのだと思うけどね。

──期待しているからこそ、叱っていたわけですね。

宮田 あの頃はそんなふうに受け止めることはできなかったね(笑)。兄のことを知っている先輩諸氏は、今の僕の仕事について「兄が見たら喜んでくれたんじゃないか」と言ってくれました。けれども、彼らは兄がどれだけ怒鳴っていたのかを知らないわけです(笑)。ただ、あの時に兄に怒られていたのが効いていたのかなとは思う。そういう意味では、兄は僕に対して正直でした。期待してくれていたのだと思います。

──その後は1979年に現代工芸美術展の文部大臣賞、81年には日展で特選を受賞されるなど金工作家として順調に歩まれていますが、1990年から1年間在外研究員としてでドイツのハンブルグに行かれています。何を求めて行かれたのですか?

宮田 いわゆるマイスター(ドイツ語圏の高等職業能力資格認定制度)の勉強をしたかったんです。最初は鉄の町デュッセルドルフが良いかなと思ったんだけど、当時は日本人だらけでしたから、それを嫌ったんですね。それでハンブルグを選びました。ハンブルグの駅前にはハンブルク美術工芸博物館(Museum für Kunst und Gewerbe)があって、そこへ行きたかったんです。

シュプリンゲン「23-2」

 

ハンブルグの人たちを驚かせた大根おろし、梅酢、米ぬか、なたね油

宮田 ここには、日本の美術品や工芸品がいっぱいあるんですよ。ヨーロッパの人たちは、政変が起きて政権が代わったりすると、物の価値が大きく変動することをよく知っていますよね。日本で言えば、江戸から明治になったときに、それまでは武士の命だった刀がただの鉄棒になってしまったようにね。鍔や馬具、漆器の陶器などに狙いを付けて、ごっそりと買って帰るわけです。それらがハンブルグの港に着くとまずはそこで展覧会を開いて、その後はパリに移動して展覧会を開きます。だから、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリで流行したアールヌーボー発祥のきっかけの一つをつくっているのは日本なんです。ドイツ版アールヌーボーをユーゲントシュティール(Jugendstil)と言うのだけど、その作品群は美術館にたくさん収蔵されています。

 僕は、ハンブルク美術工芸博物館でそれらの美術品の補修をやらせてもらいました。ドイツ人たちの保存する方法は日本人のやり方とはまったく違っていて、はっきり言えば全然ダメでした。だから、日本のやり方を彼らに教えたんです。日本独特の工法だけど、金属の最終処理は梅酢だとか大根おろしだとか、米ぬか、なたね油なんかの食材でやるんです。おもしろいよね。そのやり方自体にもびっくりしていたけど、きれいに復元された作品を見て、彼らはとても驚いていました。

 ハンブルグの人たちは背がとにかく高くて、身体がとにかく大きいんです。日本人の僕は、トイレも届かないくらいでした(笑)。彼らは身体も大きいのだけど、自分たちの文化へのプライドも高いので、最初は「日本人が何しに来たんだ」という感じでした。ドイツ語をそんなに喋れないから、きちんと理解していたわけではないけど、そういう感じだったんです。けれども、日本の伝統的な修復法を教えたあとは、彼らの態度が急に変わってすごく尊敬してくれました。「日本人の金属に対する理解はすごい。もっといろいろなことを教えてほしい」と言ってもらえたんです。

 そもそも在外研究で日本を出たときは、日本を見切っていたような気持ちがあって、新しい刺激を海外に求めていたところがありました。けれども、逆に日本人であることの誇らしさを知ることになったんです。日本人というDNAを自分で発見することができた。「かわいい子には旅をさせろ」と言うけれど、本当にそう思いましたね。

──日本人はモノづくりに誇りを持ってきましたが、製造業が衰退していることもあってかつての自信を失いかけている印象もあります。

宮田 そこは時代によって変わってくるから仕方ないところもありますよね。高度経済成長期には日本はモノづくりで豊かになっていった経験がありますから、元気がなくなっていると感じられてしまう。今は変革期だと思っているから、この先の時代は変わっていくのだと見ています。けれども、どんな時代になっても日本人の器用さやモノづくりを通じて蓄積してきたことは、我々のバックボーンになっていることは間違いないでしょう。新興国が豊かになっていけば、今度は必ずこだわりのあるモノを求めてくるようになる。そういうときに、再び日本のモノづくりの良さは、世界から見直されると思います。だから、僕はまったく悲観していません。

 

イルカの跳躍を見て勇気をもらう

──作品のモチーフにイルカを多く用いていますね。イルカを題材にした「シュプリンゲン」(飛翔)シリーズは宮田さんの代表作になりました。何かきっかけになるようなことはあったのですか?

宮田 ハンブルグから帰国してから、自分のふるさとである佐渡をモチーフに創作しようと思って佐渡に帰省しました。けれども佐渡の文化は完璧で、どこにも自分には付け入る隙がないように思えたんですね。それで打ちのめされるような気持ちで、佐渡をあとにすることになったんだけど、帰りのフェリーでイルカのことをふと思い出したんです。「そうだ! オレ、受験のときイルカに出会ってる!」って。

 初めての藝大受験のために佐渡から連絡船で上京するときに、甲板から寄り添って進む黒い背中が見えたんです。なんだかわからなくて、船員さんに聞くと「ああ、イルカだよ」って。驚いたね。イルカを見るのは初めてだし、夏のイメージがあったから。それがカッコいいんだよ。びゅんびゅん飛ぶみたいに海を蹴っていくように泳いでいく。

 あのときは藝大受験に受かる見通しもなかったし、将来どうなっていくのかまったく見通せなかったからものすごく不安に感じていましたが、イルカの跳躍を見て勇気をもらったね。僕を見送ってくれたみたいでね。この海でイルカの群れを見たのは、後にも先にもあれ一回キリでした。

 「シュプリンゲン」はこのときの記憶が元になっているんです。でも、それをどうやってかたちにするかずいぶん悩んで考えました。それで思いついたのが、目を入れないことでした。目は感情や思いを映す大事なポイントで、造形の最後の仕上げです。でも目を入れてしまうと、喜怒哀楽の一つしか伝えられないですよね。だから、目を入れなければ、見る人の思いを懐の深い母のように、すべて温かく受け止められると考えたんです。

 

溶けていく氷、蓮の葉のうえを転がる朝露

──「シュプリンゲン」はまさに飛翔するような躍動感があって軽やかな印象を持ちました。素材は何を使っているのですか?

宮田 屋外にあるものはステンレス、アルミニウム、チタンが多いです。イルカをつくる前の作品は、鉄を使っていました。その頃に表現したかったのは、溶けていく氷の流麗な様子とか、朝露が蓮の葉のうえを転がっていくところとか。ああいうのが綺麗だと感じていて、鉄を使って作品にしていました。

 それを4ミリぐらいある分厚い鉄の板でつくっていくんです。皆さんは鉄の板の厚みの感覚はわからないと思いますが、4ミリの鉄板はまず手では曲がりません。鉄を熱して叩いていくんです。鉄は熱いうちに叩けば自由にかたちをつくっていけます。銅もよく使いました。一番柔らかいのは銅なんです。熱すると柔らかくなるのだけど、叩くと硬くなる。その特性をうまく利用していきながら、自由なかたちをつくっていました。

 でも外に設置することを前提にしたモニュメントやパブリックアートに魅力を感じたこともあって、アルミやステンレスなどの耐候性のある素材に代わっていきました。

シュプリンゲン「23-4」

 

金属と会話している

──制作にはどのくらい時間がかかるものでしょうか? 北千住駅前にある「シュプリンゲン」シリーズの『乾杯』などは大作ですから、だいぶ時間がかかったのではないですか?

宮田 普段はどういうかたちにするのか、それが決まるまでの考える時間が長いんですよ。ただ、北千住の『乾杯』はすぐにかたちが決まって、作業に入ることができました。

 実は北千住駅前に「シュプリンゲン」シリーズのモニュメントをつくることになった経緯には、藝大の千住キャンパスの創設が大きく関わっているんですよ。上野キャンパスはとにかく狭かったので、新しいキャンパスをつくる場所をずっと探していました。それが北千住駅から5分の距離にある千住小学校が廃校になって、その跡地に千住キャンパスをつくることが決まります。北千住の人たちが仲良くなろうということで、記念のモニュメントをつくろうという話が持ち上がった。それで、美術学部の学部長をしていた僕が制作することになったんです。イメージはすぐに浮かびましたが、それでも制作には3年くらいかかっています。交流を深めて仲良くなっていくという意味を込めて、器のかたちにして『乾杯』という題名にしました。

──制作に没頭されているときは、どのくらい作業されているのですか。

宮田 若い頃は2、3日は寝ないでぶっ通しでやっても平気でした。今はもう80歳だからムリはできないけどね。

──本当ですか。身体に悪いのでは?

宮田 それ以上にイメージしているものを早くかたちにしたいと思うと、夢中になっちゃうんだよね。連続で徹夜していたのは最高のときの話で、しょっちゅうではないです。でも平気で7、8時間は叩き続けてました。

──没頭している時間はどんな時間なのか、凡人の我々に伝えることはできますか?

宮田 頭のなかに絵があるんですよ。金属のほうがその絵に近づいてくれるんだよね。作業している間は、金属と会話しているんです。最初は向こうもこちらの思い通りには反応してくれなくて「やだよ」なんて言っているのだけど、次第に「あんたが言っているのはこういうかたちか?」と確認してくるようになるんです。これがおもしろいんです。

 イルカの尻尾のあたりをつくっているとすると、僕の頭のなかにある絵よりも尻尾を反らそうとしてきたりする。僕はそこまで反らさなくてもいいのになと感じていても、向こうのほうから反ってくれたりするわけ。できた作品を見ると、そのほうが「カッコいいな」って思えたりする。こんなふうに金属と仲良くなれている、会話ができているときが最高ですね。

──金属に自分の言うことを聞いてもらうのではなくて、会話しながら仕上げていくわけですね。

宮田 気持ちいいよ。でもね、うまくいかずに悔しくなって「今日は止めよう」と金槌を置いた後に、シャワーを浴びてから飲むビールもまた苦いけど美味しいんだよね(笑)。

 

ヘラブナ釣り用の自作のウキ

──没頭できることがあるのは羨ましいですね。

宮田 私はやたら趣味人間なので、制作以外にもいろいろなことに夢中になってきました。最初にやったのは、少林寺拳法でした。まだ藝大には拳法部がなかったけど、黒帯の友人がいて彼に影響を受けて始めたんです。僕は人を集めるのが好きだから、大学の放送室の職員をうまく騙して、昼休みになると「ピンポンパンポーン! 今から少林寺拳法の練習を披露します」とアナウンスして宣伝していました(笑)。結果、毎日けっこうな人数が集まっていました。

 少林寺拳法には剛法(突き、蹴りなど)、柔法(抜き技、逆技、投げ技など)だけではなくて、整法(整骨など)と言って身体を整える法があるんです。人間には137のツボがあって、その場所を覚えればマッサージと同じようなことができるんですね。作品づくりに没頭したあとに、お互いにツボを押してもらうわけです。そうすると、本当に元気になれる。

 それから、スキーにもハマって、八方尾根のゲレンデにはよく行きました。妻と初めて出会ったのも、スキー場でした。妻は工業デザイナーの榮久庵憲司さんが創設したデザイン事務所の所員でした。夏はヨットにもハマりだしました。『太平洋ひとりぼっち』の堀江謙一さんが乗っていたキングフィッシャー型の中古艇を買って、みんなで外装を塗り替えて、新品同様に改修しました。そういう作業は大得意だからね(笑)。

──スポーツも好きなのですね。

宮田 その後はヘラブナ釣りに夢中になりました。これは徹底的にハマらなければおもしろさは理解できないかもしれない。ヘラブナは餌を食べたいという魚ではないんですね。それをいかに食わせるか工夫をするのがおもしろいんです。そのために道具に凝るようになるんですね。

 自分で言うのもヘンだけど、僕はウキをつくるのがすごくうまかったんです。普通は孔雀の羽根でつくるのだけど、ススキの穂を使っていました。しかも、朝露が降りる手前のススキの茎を切っておいて、それを1年間陰干ししてから制作に入る。かたちができるとそこに漆を塗っていました。藝大の漆芸科の連中に聞いて、漆の扱い方を学びました(笑)。最後は金箔を貼ったりもしていました。自分でつくった道具で勝負する。

──すごいですね。美術品ではなくあくまでも釣果を追い求めた結果ですか?

宮田 途中から釣果よりも美しさを重視するようになりました。でもそれで釣れるんですよ。みんな欲しがるからあげていました。みんな喜んでいましたよ。

 いろいろな趣味に没頭しましたが、どれも10年もすると次第に飽きてしまうんです。ヘラブナ釣りは、釣具メーカーが主催する大会に出て、タイトルを獲得しました。それで満足してしまったところがありましたが、その後は家内と海釣りやダイビングにはまりました。

藝大映像研究科の創設に尽力

──2005年に東京藝術大学の大学院に設置された映像研究科の創設にも尽力されています。

宮田 映像研究科の創設にあたってよく思い出していたのは、佐渡にいたときに開かれていた映画上映会でした。私の住む町には映画館がなかったので、町のいくつかのお寺などを会場にして上映するんです。フィルムは時間をずらしながら、バイクで会場に運ぶんです。そうするとフィルムの到着を待たなきゃならない。フィルムの順番を間違えたりすることもあって、そうなるとストーリーがまったく理解できなくなったりする。でもね、あの待っている雰囲気は妙に良かったな。今でも覚えています。

 映画の良さは、美術と音楽の総合芸術であることですよね。藝大の場合は、その二つが交わることはあまりなかったんです。校舎も道を隔てていて、それぞれ違ったところにあったから両者には距離がありました。それが一体となったら、もっとおもしろい大学となるのではないかという構想がずっとあったんです。

 指導してもらう教授として最初にお呼びしたのが北野武さんでした。彼の凄さを存分に学生たちに伝えてもらいたくて、5年間ですがやってもらいました。すごく良い反響でしたね。大成功だったと思います。

 映像研には、CMプランナーだった佐藤雅彦さんにも来てもらいました。一緒に地下鉄に乗っていて桜田門駅を通ったときに、彼がポツンと「梅じゃないもん桜田門」とつぶやいたんですよ。

──(笑)。

宮田 佐藤さんのその幅の広さはたまらないなと思いました。自分にはないセンスですから悔しいと思いましたよ。畜生って(笑)。絶対に教授になって指導して欲しいと思いましたね。

 

「三の丸尚蔵館」のリニューアルは一世一代の大仕事

──2005年から2016年まで東京藝術大学の学長を務められ、その後2016年から2021年まで文化庁長官を務められます。長官時代のお仕事には、昨年リニューアルオープンした「三の丸尚蔵館」の改修がありました。

宮田 宮内庁は、歴史と伝統を重んじています。新しいことをやるのはたいへんでしたね。尚蔵館にはすばらしい作品がいっぱいあって、展覧会を開催する時に、ここから一つでも作品が展示されることがあると、それでもうその展覧会は大成功になるくらいです。けれども尚蔵館の展示室は、そもそも展示場所ではなくて収蔵庫だったわけですから。

 美術品の展示は「公開・修復・保存」の三つすべてに気を配らなければなりません。公開するのであれば、修復していない作品を出すわけにはいきません。そして公開した後には、それを適切に保存しておかなければ作品が傷んでしまいます。なので、この三つの連携がきちんとできていなければなりません。

 尚蔵館に収められている作品は日本の宝です。適切な管理で立派なかたちで展示することが望ましい。大きな予算他が必要になる事業ですが、構想の多くが実現しました。いろいろな方のお力で、人員もスペースも大幅に拡充していただくことができました。僕にとっては、一世一代の大仕事でした。

 三の丸尚蔵館はこれから一層充実させて、ルーブル美術館のように世界中の人たちが来てもらえる場所になって欲しいです。皇居内にあるわけですから、ロケーションも素晴らしいですからね。

 

人の笑顔は自分の心

──今日お話を伺ってきて感じたのですが、個性を重視する芸術家でありながら、長として組織の持ち味を引き出すことにも向いていらっしゃいますね。

宮田 それは意識したことがないなぁ。ただ小さい頃から、「人の笑顔は自分の心」という気持ちがありました。人が笑ってくれたら、僕の心がそういう笑顔の豊かな状態にあるのだと。自分が苦虫を潰していたら、相手は笑っていないと思うんだよね。人様の目は、まさしく自分そのものを表している鏡なのだなと自然に思うようになりました。

 仲間に嫌われたくないからやっていたという記憶はなくて、それ以上に仲間と一緒に何か楽しいことをやりたかったんです。一人でやるよりも、たくさんの人を巻き込んでやったほうがおもしろくなるからね。

 組織づくりに関して言えば、時間が経ったときに次の人たちが自分より先に行っている感じをつくるのが大好きなんです。僕よりもおもしろいことを考えているな、と感じたり、自分を抜いていく人たちを見るのが好きなんです。

カメ...足の裏には「亮平」と名前が刻まれている。

──今は何に夢中になっていますか?

宮田  もう少しいい作品をつくりたいね。「歴史に残す」なんて大それたことは言わないけど、後世の人が見たときに「いいね」と言われるようなものをつくりたい。今はカメをつくっているんですよ。ちっちゃいんだけどさ、これが本当におもしろい。なぜリクガメはウミガメより甲羅が高いのか、とかカメをじっくり見ながら作品をつくっていくとだんだんハマってくるんだよね。僕がつくるカメは生物学上の正確さを追求したものではないから、陸でも海でもないのだけどね。誰が見てもすぐにカメとわかって、それでいて自分が楽しくなるカメをつくることに今は夢中になっています。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:橋本淳一

 

 

最新の記事はこちらから