おふくろのような戦争未亡人を再びこの国では絶対に出さない【古賀誠】

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『公研』20246月号「私の生き方

 

元自由民主党幹事長
古賀誠


こが まこと:1940年福岡県山門郡瀬高町(現:みやま市)出身。65年日本大学商学部卒業。大学在学中より鬼丸勝之参議院議員の秘書を勤める。80年第36回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。以後、連続10回当選。96年運輸大臣、98年自民党国会対策委員長、2000年自民党幹事長、02年日本遺族会会長、07年自由民主党選挙対策委員長などを歴任。著書に『憲法九条は世界遺産』など。


 

合同慰霊祭と喪服の母

──1940年生まれ。福岡県瀬高町(現みやま市)のご出身です。瀬高町はどんなところですか。

古賀 私の出身は瀬高町ということになっていて本籍もそこにありますが、出生したのは田川郡金田町(現在の福智町)です。父は7人のきょうだいの末っ子で、上は女性ばかりなんです。6人女の子が続いて、7番目に父が生まれたんですね。

 3番目のお姉さん夫婦は、金田町で漬物屋を経営していました。田川は炭鉱の町ですから、塩分は炭鉱労働者にとって欠かすことのできない栄養素です。父と母は姉夫婦と一緒に働いていて、そこで私が誕生したわけです。瀬高にある本家は長女と次女が守っていました。

 金田町にいたのは2歳までなので、記憶はまったくありません。昭和17年の秋に父が出征したときに、母は5歳の姉と2歳の私を連れて瀬高の実家に戻ります。瀬高町は筑後平野のど真ん中にあって、町の中心には矢部川という清流が流れています。絵に描いたような農村地帯ですよ。物心ついてからはここで育ちましたから、ここが私の故郷の風景ですね。

──お父様の出征のことは覚えていますか。

古賀 父が出征したときは2歳でしたので、記憶は一切ありません。父に関して私の記憶に残っているのは、戦後の1946年に町で合同慰霊祭が行われた後の場面です。私が6歳くらいの頃です。式に出席した母を迎えに小学校の校庭に行ったんですね。母が白い布に包まれた棺を持って、貸切バスから降りて来ます。棺には「陸軍兵長 古賀辰一。昭和19年9月30日フィリピンレイテ島にて没す。」と広報が記されていました。

 この場面はなぜか鮮明に覚えています。母は黒い喪服に包まれていましたが、とっても綺麗だなと思った印象があるんです。その後は、行商に出て苦労している母の姿しか覚えておりません。

──行商ではどのような商品を扱っていたのですか。

古賀 乾物類や干物ですね。野菜や魚などの生ものはとても扱えませんから、鰹節、塩鯨、いりこ、それから缶詰などが中心でした。母は朝に家を出ると、その日の売り上げが目標に達するまで頑張るのみです。帰宅時間が決まっているわけではなく、ほとんどは陽が落ちて暗くなって帰ってくるのです。

 郷里の有明海に沈んでいく夕陽が一番嫌いなんですよ。風景としてはすごく綺麗で、その夕陽を見るために観光客がわざわざ訪れるほどです。しかし、その夕陽は子供の頃の母の帰りを待つ寂しい記憶を今でも思い出すんです。友だちと一緒に遊んでいても、夕飯の時間になると家族が待つ家に帰っちゃう。私の場合は、家に帰っても母がいないわけです。だから夕陽が沈んでだんだん暗くなっていく光景は、寂しい気持ちになりまして、一日のなかで一番嫌なんです。

──少年時代に社会を意識するきっかけとなるような出来事はございましたか。

古賀 小学校の5年生のときだったと思いますが、ある晩母が裸電球の下で1枚の葉書に一生懸命ペンを走らせていたことがありました。今まで書き物をしているところなど見たことがなかったので、不思議でした。

 「何を書いているのか」と聞くと、母は「お父さんは戦争で亡くなったでしょう。うちと同じような家庭は全国にいっぱいあるのよ。戦没者遺族に対して国に支援をお願いするハガキよ」と言いました。

 当時は、予算編成の前にそれぞれの地元の国会議員の先生方に、公務扶助料の増額をお願いしていました。要するに、陳情の一環ですね。今はこうした手順で有権者の皆さんと議員がつながる信頼関係は、ほとんどなくなりましたけどね。

 この時に母だけではなくて、同じように戦争未亡人になった人が日本にはたくさんいることを知りました。そして、この時にまだ漠然とはしていましたが、政治というものが人のためになるものだと関心を持ったことを覚えています。

 

番長として喧嘩で明け暮れた高校時代

──少年時代に夢中になったことは?

古賀 中学校時代はバスケットに熱中しました。生きがいみたいなものでした。今は日本人の平均身長は飛躍的に伸びましたから比較になりませんが、戦後当時は身長164センチあれば平均以上でしたから結構活躍できた。楽しかったし、頑張りましたね。

 私は小学校、中学校までは優等生だったんですよ。それが地元の山門高校に進学してから大変貌を遂げるのです。自分で言うのは恥ずかしいのだけど、要するにケンカで明け暮れた番長に変身したんです。高校時代のことにはあまり触れたくないです(笑)。

──喧嘩が強かったとか。

古賀 強かったかどうかは別ですが、どんなにぶん殴られても絶対に弱音は吐かなかった。相手がどんなに強そうで大きな相手でもひたすら向かっていった。高校1年生後半から2年生のときは本当によく暴れました。ところが、3年生になった頃にはもう暴れる必要がなくなっちゃったんです。なぜなら、私の名前を聞くだけで「あいつと喧嘩したらたいへんなことになる」と、あまりにも地元では悪名が知れ渡り、誰もが相手になるのを避けたんです。

──地域を征圧したわけですね(笑)。しかし、どんなことで揉めるものですか?

古賀 俗に言う「眼をつけたな!」というところから、喧嘩になるわけです。実感としてはわからないだろうけどね。要するに若者達のエネルギーの爆発だけで、そこには理屈はなかったんではないか。単純なことなんです。

 私が進学した山門高校は元々は女学校だったのが、戦後に共学になったことで女子生徒が多くて、男子生徒は少ないし大人しい校風でした。それでよその高校からよく虐められたものです。誰かが「やられた」という話を聞いたら、こちらとしてはしめたものです。報復として一気呵成に喧嘩ができますから(笑)。そういう日々を過ごしていたら、3年生になる頃には相手がいなくなってしまった。

 高校時代は、苦労する母に孝行どころか悲しい思いをさせた三年間、後悔することの多い時代だったなと思います。一方で子供を信じる母の姿、決して見捨てることのなかった先生方の温情、そうした魂のふれあいに感謝です。

 

大阪の金物問屋に丁稚奉公に出る

──将来についてはどのように思い描いていたのでしょうか。

古賀 高校時代はそんな崖っぷちの荒れた日々を過ごしていましたが、政治へ関わりたいという思いは持ち続けていました。そんななか、恩師であった先生が「あなたの境遇から、あなたが描いた政治家への道を可能にするためには、思い切って国会議員の書生として、お母さんに経済的な負担をかけずに政治の勉強をする道を選んだらどうだ」と助言してくれたんです。

 いつかは政治家をめざしたいという思いを母に伝えました。いつも我がままを聞いてくれた母がこの時だけは大反対。そう考えるのは無理もないことですよね。母の願いは学校の先生、市役所の職員、親子が安定して生活するのが一番の望みだったのです。苦労の連続だった母には無理のないことです。母は伯父さんや叔母さんたちからは、ことあるごとに「あんたの育て方が悪い。あんたがちゃんとしないから」と責められていましたから

 結局1年間は、知人の紹介で大阪にある金物の問屋に丁稚奉公として働き、最終的には母の説得に成功して書生の道を歩くことになります。

 

秘書時代に責任感と覚悟を身に付けた

──日本大学商学部に進学されます。政治家の書生としての行き先は、すぐに見つかったのでしょうか?

古賀 同じ瀬高町ご出身の参議院議員の鬼丸勝之先生を訪ね、書生にしていただきました。住み込みではありませんが、先生のご自宅のすぐ近くに安いアパートを借りて住んでいました。

 朝、鬼丸家に伺うと、まずは車を磨き上げます。そしてドライバーとして先生の訪問先に随行します。運転手兼秘書ですね。今ではあまり聞かなくなりましたが、当時はまだ書生をしながら政治を志す人はけっこういました。それぞれの先生のもとで秘書をしながら政治を学び、そこから国政や地方議会などに進出していく機会を伺うわけです。

 鬼丸先生は高級官僚出身の議員さんだっただけに、夜の会合が2箇所、3箇所と顔を出すのが当たり前でした。夜10時ぐらいになって「これでやっと帰れるかな」と思っていたところで銀座や新橋に繰り出すことになったりすると、辛かったですね。先生を待つ時間が不規則だということは本当にたいへんです。会合を終えると同時に車を付けなければならないわけですが、居眠りをしていたりして失敗するとひどく叱られたものです。

 そんな時、別の仕事を選んだほうがいいのかなとすごく落ち込みました。大学に通いながら、運転手もしていたあの4年間は本当に修行でしたけど、自分でもよく頑張ったと思います。あの時代の経験を通じて、責任感と覚悟を身に付けることができました。39歳まで秘書として働きながら、政治を学ぶことになります。

 

大平正芳総理との面談

──1979年の衆議院議員選挙に初出馬されます。どういった経緯で出馬のチャンスを掴まれたのですか?

古賀 初出馬は、たいへんな幸運でした。1979年の総選挙は、大平正芳首相が初めて解散を断行された選挙でした。当時は中選挙区制で、福岡県には四つの選挙区がありました。4区は大平先生の番頭、田中六助先生(内閣官房長官、通商産業大臣、党幹事長を歴任)の議席ですが、この時、福岡県3区は、ちょうど宏池会の大先輩である荒木萬壽夫先生(文部大臣などを歴任)が逝去されて空席でした。さらには1区と2区でも宏池会の新人の議席なしの状況にありました。まさに派閥全盛期の当時、一人でも多くの宏池会所属議員が求められたわけです。

 宏池会の候補者として1区は太田誠一さん、2区は麻生太郎さんが名乗りを挙げましたが、3区だけは名乗りを上げる候補者はいませんでした。当時の宏池会の幹部でもあった田中六助先生が私に、3区の候補者に白羽の矢を当てていただいたのです

 「古賀というイキのいい奴がいる。若い時はえらい悪かったそうだけど、あいつならひょっとしたら『出る』と言うかもしれない」と。田中先生の要請に、私は好機到来、待ってましたの心境です。もちろん「ぜひやらせてください」と即決しました。私には地盤も看板も鞄もナシ、ゼロからの出発ですから、太田さんや麻生さんとは比べようもありません。彼らとは見劣りするどころの話ではないわけです。

 それでも田中先生は、「わかった。大平さんに会わせるから釣書(経歴書)を書いてこい」と。こうして大平先生に面談いただけることになりました。

 大平先生は「1区の太田も2区の麻生も貴方には悪いけど、家系も系譜も申し分ない。しかし政治は、あなたのように貧苦を知っている者がいることは大事なんだよ。恥ずかしいことじゃないぞ。君みたいな生き様も政治には必要なのだから。よし! 宏池会でオレが責任を持つ。自信を持ってやれ!」とおっしゃっていただいた。あのときは身震いしましたね。まさに私の政治家への夢が目標にできた大転換でした。

 私はよく「派閥の申し子」なんていう呼ばれ方をされますが、大平先生や田中先生から機会を与えていただいことで政治家になれたわけです。ですから私は、まさに派閥の申し子だと思っています。今振り返ると、最初の選挙は予想を超える厳しさと苦難の連続でしたね。太田さんも麻生さんも立派な自民党公認の新人候補者として出馬しましたが、最初の関所である自民党公認の選考で私は無所属候補として選挙を戦うことになるのです。

 

戦没者の遺族の皆さんの平和への祈り

──党の公認がないとは言え、大平首相に認めてもらったのはすごいですね。

古賀 田中六助先生は、厳しい戦いを強いられる私に「1万5千や2万じゃダメだぞ。次に繋げるために命がけで3万票は取ってこい!」と命じられました。選挙運動は2カ月足らずの短い期間の中でしたが、終盤にもなると手応えを肌で感じることができました。選挙というのは、こんなに楽しいものかとさえ思えました。本当にそんな感じでしたね。

 結果は次点で落選しましたが、わずか4500票差でした。負けはしましたが、負けた気はまったくしなかった。次は絶対に勝てると手応えを深めた選挙でした。

──最初の選挙では有権者には何を訴えたのですか?

古賀 平和です。「おふくろのような戦争未亡人を再びこの国では絶対にださない。これがオレの政治だ」とそれだけを繰返し訴えました。最初の選挙では5万2535票を獲得できました。この数字は生涯忘れることができません。この票は戦没者の遺族の皆さん方の平和に対する祈りだと私は受け止めました。

「政党のなかに活躍の場を見つけ出せ」

──初当選となった次の選挙は、その7カ月後にやってきます。1980年のいわゆる「ハプニング解散」ですが、初出馬の時の勢いそのままに臨めたことは大きかったですね。   

古賀 早く選挙をやってもらいたいと思っていましたから、私にとってはものすごくラッキーでした。大平内閣への不信任案が成立し、それを受けて大平先生は衆参同日選挙を決断されました。おかげさまで前回の惜敗の余韻が残ったままの戦いができた。この時はトップで初当選を果たすことができましたが、大平先生の急死で当選の報告ができなかったことは返すがえすも残念でなりません。

──宏池会では新人議員をどのように教育されるのですか?

古賀 田中六助先生に直接教育を受けることができたのは有難いことでした。「宏池会という伝統ある派閥は、政策にめっぽう強い。大蔵省を始めとした官僚出身の議員も綺羅星のごとくいる。だから、政策を勉強しても君の能力ではとても追いつけない。君は党務で行け。政党のなかに活躍の場を見つけ出せ」と。それが田中先生の私への最初の指導でした。さらには「国対委員長が目標だ。それが生きている政治だ」と。政党にとって国会を動かすことは一番大事な役割です。それを担えるようになることが当面の私の目標でした。

──党務というのは、国民からすればわかりにくいとも感じています。

古賀 その通りだろうと思います。政党は国の機関ではありませんからね。それに党務に携わることで政治家として輝いたり、光ったりするものでもない。けれども、党務を担う人の存在は絶対に欠かすことはできません。また、総裁が決して独善に走ったりすることがないように、党内を調整することも党務の大事な役割です。

 この役割をまっとうするには、自民党内だけではなく野党にも幅広い人脈をつくる必要があります。人脈づくりは、信頼関係を構築することでもあります。そのためには政治に対する正直さ、誠実さを持つことに尽きます。そこには責任と覚悟が生まれます。党務をやる限り最も大切にしなければならないことは、生きている人たちの人間関係です。それこそがポイントだと私なりに考えました。

 

「加藤の乱」を振り返る

──古賀さんの政治人生を振り返ったときに一つのポイントに挙げられるのが、いわゆる2000年11月の「加藤の乱」ではないかと思います。森政権への不信任決議案に「宏池会のプリンス」とも呼ばれた加藤紘一さん(内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任)が賛同する動きを見せました。

古賀 長い政治活動のなかにはいくつかの節目があって、反省したり後悔したりすることがあるのも事実です。その一丁目一番地がやはり「加藤の乱」だと思っています。今日の日本の政治をここまで混迷させた要因の一つであるのは間違いありません。宏池会の目標は加藤政権の誕生にありました。

 あの時の加藤さんの行動をどのように鎮めるのが一番だったのか、何が必要だったのだろうかとずいぶん考えます。その答えは未だ出ていませんが、あえて「その答えをいま出せ」と聞かれたら、加藤さんはあの局面で一人でも堂々と本会議に出て自らの信念を貫く胆力が求められたのではないでしょうか。

 結果として自民党からのいかなる処分も潔く受けて、その厳しさを打開していく覚悟を持つべきであったと思うのです。仮に自分が同じ立場に置かれたら、毅然と決断したと思います。加藤さんを責めるわけではないけど、「加藤の乱」が政治の貧困を招いたことは残念なことです。

 政治の世界では「もしも」は禁句ですが、仮に加藤政権が実現していたら日本社会の風景は違っていたように思います。「加藤の乱」は国家国民にとって大きな損失であったと思っています。

──尊敬する政治家として野中広務さんを挙げていらっしゃいます。好き嫌いの分かれるタイプの政治家だった印象がありますが、古賀さんはどういったところに惹かれていたのでしょうか?

古賀 野中先生の平和主義ですよ。戦争を知っている者として、どんなことがあっても平和だけは次世代に守り抜いていくという強い信念です。日本を平和の国として後世に残していくために政治をされていました。

 私が日本遺族会の会長になった時に、野中先生と一緒に父が亡くなったフィリピンのレイテ島の戦地を訪れたことがあります。それまで一度も訪れたことがなかった私でしたが、野中先生に背中を押され訪ねました。

 その日は雲一つない快晴でしたが、簡単な祭壇をつくって父が好きだった地元の地酒や亡くなった母の遺影を飾った途端、激しいスコールになりました。すると野中先生は私に、「ほら、来てよかったろうが。息子がやっと迎えに来てくれた。親父がこんなに喜んでくれた。涙雨だ。さぁ親父の魂を持って帰ろう」とおっしゃって慰めてくれました。

 政治というのは、ある意味では権力闘争の繰り返しです。仮に100人を対象とすれば、そのすべてを賛同させることができる政治は不可能です。私にとって野中さんとは、義理人情に厚く弱者に温かく、何よりも骨の髄まで平和主義者でした。一緒に政治をできたことは今でも私の誇りであり、有り難いことだったと感謝しているんです。

 

自由民主党幹事長に就任

──野中さんの後を継ぐかたちで、2000年12月、第39代自由民主党幹事長に就任されます。

古賀 青天の霹靂とはこのことで、私にはそんな能力なんてあろうはずがありませんが、混乱する森政権のなかで役割が回ってきました。ここで死んでも構わないという心境でしたね。森先生に総裁任期の前倒しをお願いするために、私は幹事長を引き受けるのだという覚悟でいました。自民党の政権を守るためには、それが必要だと考えたわけです。そして目前だった都議会議員選挙を勝ち抜いて、参議院選挙に勝ち抜く環境をつくるのが私に与えられた使命でした。

 森政権はえひめ丸の沈没事故や「神の国」発言でメディアからの批判が高まっていく中、支持率は大きく低迷していました。「えひめ丸の事故が起きたあともゴルフをしていた」とメディアは強く批難して、繰り返し森先生がゴルフ場にいる映像が放送されました。実はあの映像は、夏にゴルフに行ったときのものでした。えひめ丸事故とはまったく無関係でしたが、事故と結び付けるかたちで何度も放映されたんです。ああいう報道が許されていいものか、私は今でも大いに疑問に感じています。

 森先生は、前任の小渕恵三首相の急死を受けて首相に就いた経緯がありました。あの時の状況をメディアは「5人組の密談」で誕生した総理だと強く批難しました。実際は党のルールに従って決めたわけですから、何の瑕疵もありません。

 森先生には、総裁選の前倒しを自ら決断して承諾していただきました。長い政治経験がある先生だからこそできた判断だったと思います。このときに私は「古賀幹事長にお願いしたいのはただ一つ。オープンな選挙戦にすること」という下命を受けました。それを受けて、私は従来までの総裁選挙の方式を改めることとしました。地方票を重視することで、広く民意が総裁選に反映されるようになったわけです。

 こうして行われた自民党総裁選挙では、地方票を圧倒的に獲得した小泉純一郎さんが勝利して、小泉政権が誕生しました。小泉さんをはじめとしてメディアを意識したワンフレーズ、ポリティックスの善悪の対立をあおる劇場型政治が大きく台頭したことを考えると、私の決断した総裁選の見直しによる小泉政権の誕生を疑問に思うのです。それから清和会の時代が30年近く続くことになったわけです。

 

 

「あんな誠につとまっちゃか」

──小泉改革は何だったのか、郵政民営化の成果は上がっているのかという検証はきちんとする必要はあるのかもしれません。

古賀 私もそう思います。政治の閉塞感は常に「改革」という言葉が吹き荒れてきます。改革によって政治が変わることを期待するのですよ。

 けれども、それだけで政治をやっていいのかどうかはきちんと考えなければなりません。改革を進めることで日本の大切な歴史と伝統等残すべき大事なものが忘れ去られてはならないと思います。だからこそ、残すべきことの見極めが必要なのです。

 改革を推し進めるよりも、残すべきことには数倍のエネルギーの結集を要するものです。政治が苦よりも楽を求めてはなりません。

──ひとたび改革の流れができると、立ち止まって考えることが難しくなってしまう。

古賀 細川護煕さんの連立内閣が誕生したときも「政治改革」一色になりました。政治改革に期待したわけですが、結果として選挙制度改革に終始し、小選挙区制、比例並立制の導入が実現しました。100%の制度は存在しません。時間をかけて中選挙区の良し悪しを議論することが必要だったのではないかと思っているんです。

 国鉄の分割民営化にしても同じことが言えると思います。今では在来線はほとんどが無人駅になってしまっています。その現実を目の当たりにすると、民営化の難しさが浮き彫りとなっています。東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州の六つの分割がよかったのかどうか反省です。

──運輸大臣(第72代)、自民党幹事長と出世されていきます。お母様はご活躍をどのように見ていらっしゃいましたか?

古賀 母は私が運輸大臣になる2年前に他界しました。ただ私が建設政務次官になったときに初めて新聞で名前を見つけた母は、「あんな誠につとまっちゃか」と隣近所のおじさん、おばさんに少しは自慢気に、一方では本気で心配していたという話を聞きました。正直、少しは母に孝行できたかなと嬉しかったことを覚えています。

 母は私が国会議員になっても、60歳過ぎまで自転車での行商を続けていました。私が「もう外に出るのはいいじゃないの」と言いましたが、戦争未亡人の根性でしょうね。「自分は自分で生活をする」と聞き入れてくれなかった。足腰が弱ったあとはさすがに行商はやめましたが、それでも自宅の前に小さなプレハブの乾物店を開いて仕事を続けて、82歳で亡くなるまで店番を生きがいにしていました。

──2009年には民主党に政権を奪われることになります。当時は麻生政権でしたが、自民党内の状況をお聞かせください。

古賀 麻生総理の早期解散での勝利を見据えたものだったと思います。麻生総裁のもとで総選挙を戦うという期待が党内にはありました。その期待が麻生政権を誕生させた背景だったように思います。

 そういう状況のなかで麻生政権が誕生したわけです。ところが当時を振り返るとリーマンショック後の我が国は金融経済危機の最中にある中、果たして政治の空白が許されるものなのか、麻生さんは悩みに悩んだ末、経済の立て直しを優先されました。その判断の良し悪しはべつとして、結果衆議院議員の任期満了選挙に追い込まれ、自民党は大敗し、下野することになります。

 

岸田首相は政治の王道を歩むべき

──今まさに宏池会の後輩、岸田首相が、解散総選挙を断行できるかどうかという局面にあります。先輩としてご助言はありますか?

古賀 議員のバッジを外してもう12年目になります。引退した私が今の政局に意見を申し上げることなど僭越ですよ。

 それでも一言反省を込めて言わせてもらうと森総理のときは総裁任期を前倒しして、任期途中の表紙替えで小泉政権が誕生し、清和会の時代が続くわけです。私は岸田首相は任期をまっとうし、国民に堂々と信を問う政治の王道を歩むべきだと思うのです。

──宏池会の解散という秘策は、古賀さんが岸田首相に伝授したのではないかと勘繰る人もいましたが…。

古賀 それは絶対にありません。先ほども申し上げましたが、私は派閥の申し子です。宏池会に産み育てられたことが政治の原点であり、私の政治人生のすべてです。伝授など到底あり得ません。

──今回の「政治とカネ」の問題で清和会の議員には処分が課されました。総裁選での再選をめざすには、禍根が残るかたちです。

古賀 1980年に大平内閣への不信任案が可決されて、憲政史上初めての衆参同時選挙を大平総理が決断されるわけです。たいへんだったのは、自民党の公認の扱いをめぐって大激論が始まったことです。田中六助先生をはじめ多くの先生は「総理の命運を左右した内閣不信任案の採決をボイコットする議員を公認するなんてとんでもない」と怒り心頭でした。大平先生は総裁として全員を処分なしで公認候補としてお認めになるのですね。

 今回は「政治とカネ」の問題がありますから一概には言えませんが、自民党は我が国が持っている一つの大切な公的財産です。独善を避け広く党内外の意見を吸収できる国民政党であるべきです。

後援会と約束した「30年計画」

──2012年に政界を引退されたときは、まだ72歳でした。麻生さんを始めとして同年代の議員のなかには現役の方もいますから、古賀さんの決断は早かったようにも思います。

古賀 39歳の若さで皆さまのお力のおかげで国政に送ってもらいました。実はそのときに後援会に「30年計画」の考えをお約束致しました。最初の10年間にめざしたのは、当時の中選挙区制における激しい厳しい選挙戦を勝ち抜くことのできる強力な組織づくりです。私の後援会は日本一と自慢しております。

 次の10年間の目標は、中央政界での活躍です。1996年の運輸大臣就任を皮切りに、国会対策委員長、自民党幹事長等、先人、先輩、同僚のご支援で中枢で活動できたのは感謝です。

 そして最後の10年間の目標は、政治家としてゼロから生み育て支えていただいた皆さんへのご恩返しです。平和な国に生まれたことへの感謝、自然豊かな人情あふれる故郷への感謝です。2012年に72歳となり30年計画の終わりを迎えるにあたり、何の迷いもなく現役引退を決意し、後援会との約束を果たすことができました。

──世襲の是非についてはどうお考えですか。

古賀 決して世襲だからダメだとは言いません。しかし、世襲が当たり前になってしまうことや「良いことだよね」という風潮は少し違うのではないか、年々世襲化が進み政治家が家業の有様を呈しているのは人材の劣化を招く恐れがあるのではないかと心配です。

 来年は戦後80周年になりますが、国際社会が激変する時代です。政治家も多様な人材が求められています。若い世代の人たちに政治への関心を高めてもらい、政治への志を期待したいものです。そのためには国民の政治への信頼回復は急務で不可欠です。

 

平和の尊さを未来に継いで欲しい

──ウクライナやパレスチナでは今でも戦争が起きています。世界では未だに戦争未亡人や親を失う子どもたちが存在しています。

古賀 映像を見てると本当に心が痛みますね。戦後日本の政治と外交は、一つの円ではなく日本国憲法と日米安保、この二つの焦点を持った楕円形であり、その二つの焦点が引き寄せあって一つの円にならないのが選択肢であったわけです。

 平和に対する日本の国の考え方を国際社会に、世界に発信を続ける努力が大切です。日米同盟の強化だけに突き進むのは楽なことでありますが、危険なことではと心配です。日本のリーダーには戦前の国策の誤りを確認し、歴史認識を一層明確にして、戦争の愚かさ、平和の尊さを未来に継いで欲しいと心から願いたいものです。私も平和の語り部はこれからも続けてまいります。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:橋本淳一

 

 

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