『公研』2023年11月号「私の生き方」
ダンサー、ダンスクリエイター
今や日本のエンタメで当たり前のものとなった、ダンス&ボーカルグループ。
しかし、世間に認知されるまでの道のりは簡単なものではなかった。
「かっこいいものを日本に広めたい」という一心で歩んできた、
TRFメンバー・SAMさんの半生を伺った。
濃すぎる30年間
──今回、お話を聞かせていただくにあたって、改めてTRFのパフォーマンスを見させていただき、ステージから溢れるポジティブなエネルギーに圧倒されました。今年は結成31年、デビュー30周年の年です。振り返るといかがでしたか?
SAM とてつもなく色々なことがあった30年間でした。思い出しても濃すぎる日々です。1993年にデビューしてから2000年頃までは、めまぐるしい毎日でした。一番忙しい時は休みも寝る時間も取れませんでした。ただ、踊ることが楽しかったので、まったく苦痛ではなかったです。2000年から2006年ごろの期間は、TRFとしては活動をほとんど休止していた時期もありましたが、20周年、25周年、30周年と節目ごとに振り返っても濃い時間でしたね。
──ご家族は埼玉の開業医の一族で、SAMさん以外の男兄弟は皆さん医者になっています。幼少期にプレッシャーはありましたか?
SAM 小学生の時から「将来、お前は医者になる」と言われてきましたが、正直自分が医者になるということにピンと来ていませんでした。医学部への進学率が高い獨協中学・高等学校に入学しましたが、勉強が本当に好きではなかったので「僕はムリだろう」ってどこか心の中で思っていたんですよ。身体を動かすことは当時から大好きでした。
僕は5人兄弟で、四つ下の弟がすごく頭が良かったから、あいつがなればいいやと考えていました。「絶対医者にならなくてはいけない」というプレッシャーはまったく感じていなかったんです。不思議な感覚でしたね。
──窮屈には感じていなかったのでしょうか?
SAM 窮屈でしたね。中学校3年生ごろになると自分の将来に疑問が浮かんできて、「本当に俺は医者になりたいのか」と真剣に考えるようになりました。もちろん、医者は人命を助ける素晴らしい職業です。でも、父は実家から100メートル先にある病院に毎日毎日通っていて、当時の私からすると、この決まりきった生活に魅力を感じなかった。
また、埼玉の実家から目白の学校に通っていたのですが、当時は埼京線がなかったので都心へのアクセスがものすごく悪く、満員電車を4回も乗り換えて通学していました。そういう窮屈な毎日と決められた将来に嫌気がさしていた。医者とは違った自由な仕事はないのかなと考えていたんです。そこで、出会ったのがダンスでした。
──日々の生活で自由が欲しかったのですね。お父様はどんな方でした?
SAM めちゃくちゃ厳しかったです。兄弟の中でもいつも僕だけ父から怒られていました。だから、僕も父のことはずっと嫌いでした。それこそまともに会話をした覚えがないくらい。
日本レコード大賞の受賞やNHK紅白歌合戦出場などのTRFの活躍を、僕がいないところですごく喜んでくれているとは家族から聞いていましたが、成人しても面と向かって褒められたことはなかったです。子どものころからどこかギクシャクした親子関係でした。父は70歳で亡くなりましたが、初めてまともに会話をしたのが亡くなる1、2カ月前。実家に帰った時に、父とたまたま2人になる時間があって、父が自分の若いころの話を急にし始めたんですよ。山登りが好きで、どこの山に登ったとか。その時に初めて父はこういう会話もする人なのだと知りました。そのぐらい父との間には確執があったと思います。
自由になりたかった少年時代
──SAMさんは、結構やんちゃだったのでしょうか……?
SAM 高校生の時はほんとにやんちゃでしたね(笑)。高校1年生の時に一度家出を計画したことがありました。当時、ディスコに通っていたのですが、家族には内緒にしていたので、漫画みたいに2階の部屋の窓から毎晩抜け出していました。壁をつたって下に降りて、先輩からもらったバイクで大宮のディスコに行く。そして朝の5時までディスコで踊って、こっそりと帰ってくる。そんな生活をしていました。
それは長いこと家族にバレていなかったのですが、ある時近所のおばあちゃんが良心で家族にチクってしまいまして(笑)。当然、親から「夜中にどこに行っているんだ」と詰められるわけです。僕は「別に悪いことはしていない」とかごまかしましたが、両親の目は厳しくなります。
そんなことが重なり、どうしても家を出て自由になりたかった当時の僕は、本格的に家出を計画し始めます。母親の部屋から小さなトランクを取ってきて、荷物と10万円ぐらいのお小遣いを詰めて、いつでも出られるように準備をしていました。
そしてクリスマスの時期、その日もディスコに行っていたのですが、家に戻り2階の部屋に入ると、なんだか下の階がやけに騒がしく、「あいつはどこに行ったんだ!」という父の声が聞こえてきました。「バレた!」と思いましたね。トランクの存在もバレて没収されていたので、着の身着のまま家を飛び出しました。そして、よく行っていた大宮の小さなスナックディスコに行き、「家出してきたから今日から働かせてくれ」とお願いしました。店長は「わかった」と承諾してくださり、お店の従業員の寮で寝泊まりすることになります。
──理解のある店長さんですね。
SAM 結局2週間ぐらいで家族に見つかってしまうんですけどね。当時、実はラグビー部に所属していて、働かせてもらっていたディスコには部活の先輩や同級生が頻繁に遊びに来ていたんです。なので、結局先輩に見つかり、「やっぱりここにいたのか、家に帰れ」と説得されました。僕は嫌だったので「帰らない」と突っぱねましたが、「せめて俺のうちで暮らせ」と。先輩の家で暮らすことになります。ただ、17歳の僕は一人で生きて行こうと強く決心していたんですが、しまいには先輩のお母さんとか色々な人から説得されることになり、しょうがないから一度帰るだけ家に帰ってみようと考えます。
そこで、初めて親と腹を割って将来について話をしました。父親から「お前は何がやりたいんだ」と詰められて、僕は「自由になりたい」って答えたんです。すると父は、「自由になるのはいいけど、お前はまだ高校生だし、何か問題を起こせば親の管轄だから、それはムリだ。ただ、学校にちゃんと行って、居場所を伝えれば好きにしていい」と。それを聞いてラッキーと思いましたね(笑)。学校に行く約束を守れば自由にしていいわけですから。そこから、学校にだけはちゃんと行って、毎晩ディスコに通うディスコ漬けの日々でした。
──やはりディスコには踊りに行っていたのでしょうか?
SAM そうですね。ダンスとの出会いはディスコです。中学3年生の時に同級生ですごくませている子がいて、彼のいとこが六本木のディスコで働いていたので、その同級生はディスコに詳しかった。
そんな彼が、ある時突然休み時間に教室で踊り始めたんです。こんな踊りがあるんだよって感じで。「黒人は挨拶の時にこういうハンドシェイクをするんだ」とか、「仲間のことをブラザーと呼ぶんだよ」とか、今まで聞いたこともないような世界の話を彼がしてくるんです。中学生の僕は彼の話す世界がすごくかっこよく見えたんですね。
自由なダンス
──その友人の影響は大きいですね。
SAM 彼の家に遊びに行くと、ソウルやR&Bとかブラックコンテンポラリーのレコードが流れていて、中学生なりに部屋にブラックライトをつけて雰囲気をつくるなど、大人びたことをしているやつでしたね。彼の影響でそういうジャンルの音楽が好きになりました。
その彼に「俺たちもディスコに行きたい」とお願いして、初めて行ったのが高校1年生の時。いざ行ってみても自分たちはまったく踊れないので、フロアではどうしたらいいのかわからなかった。そんな中で、常連の人がバーッと出てきてサークルをつくり、真ん中で人が踊るんですよ。それがものすごくかっこよかった。当時の僕からすると完全にスターです。「なにあれ」って目が釘付けでした。
──見ているだけではなく、SAMさん自身もこうなりたいと思ったのでしょうか?
SAM 何かがピンときましたね。その時に見たダンスも、いま思えば全然大したことないんですよ。でも、当時は本当にかっこよく見えて。ディスコダンスっていうものに一瞬で魅了されてしまった。ジャズダンスでもクラシックバレエでもタップでもない、いわゆるディスコミュージックで踊るダンスっていうものがすごく自由なダンスに感じたんです。自分もああなりたいと強く思いました。
──ダンスの技術はディスコで磨いていったのですか?
SAM そうですね。ディスコに行けばダンス仲間もいますし、常連の人も色々教えてくれます。ディスコ内でダンスチームをつくったりもしましたよ。昔はディスコがそれぞれダンスチームを抱えていて、僕たちも「自分たちのチームをつくりたいね」と思い、まずはどこかの常連になることを計画しました。新宿の「ニューヨーク・ニューヨーク」というディスコが新しくオープンすると聞いたので、初日から毎日通い詰めて、お店の人とも仲良くなって計画通り常連になりました。そして、常連同士でも仲良くなり、ダンスチームを結成します。「ミッキーマウス」というチームです。色々なディスコのコンテストで優勝しているような連中ばっかり集まったチームで、結構上手かったですね。
「ニューヨーク・ニューヨーク」は夜中の1時に閉まるので、その後に朝まで踊れる場所をメンバーとその取り巻きの30人ぐらいの大所帯で、歌舞伎町をぞろぞろ移動しながら探すんです。そうやって色々なディスコに顔を出していくうちに、「ミッキーマウス」が歌舞伎町で有名になっていきました。当時、レコード会社が新譜を出すとディスコでかけてもらうというプロモーション活動が流行っていて、その一環として僕らのチームも「今度新曲出るから、この曲をひっさげてディスコを7、8軒回って踊ってくれないか」と声をかけられ、そういう仕事をもらったりしていました。これが高校3年生の時期でした。
──この時期にもうダンサーとして生きていくと決めていたのですか?
SAM そうですね。はっきりとダンサーになりたいと考えていて、親にもそれは伝えていました。ただ、夢はありましたが成績が卒業できるかどうかギリギリのラインでした。高校3年生の時はほとんど学校には行っていませんでした。行っても週に2、3回ぐらいで、一晩中踊っていたので授業が眠くて眠くて。もちろん通知表は赤点だらけ。体育のような技能の授業は参加すらしていないので評価無用でした。それでも熱い担任の先生がムキになって、「3学期の補習を全部受けたら卒業させてやる」と情けをかけてくれて、なんとかギリギリ卒業することができました。
──お母様はダンサーという職業に対してどう感じていたのでしょうか?
SAM 母親は父親にバレないように陰でフォローしてくれていましたね。高校卒業後は父に家を出ていくよう言われたので一人暮らしをしていましたが、その家賃を母親が最初のころは出してくれたりしていました。
貧乏旅行で全国のディスコを回る日々
──ダンサーとして食べていけるようになったのはいつごろでしたか?
SAM いつからですかね……。高校卒業して少し経ってからでしょうか。新宿のディスコで踊っているときにスカウトされたんですよ。ガマガエルみたいに大きな体をした、すごい怪しいおじさんに、「明日の朝10時に原宿ダンスアカデミーに来い」と言われたんです。なんだかよくわからなかったのですが、その人は「いや、来ればわかる」と。そして次の日その場所に行ってみると「今日からお前ら俺のチーム入れ」ということになった。
そこでやっとわかったんですが、そのおじさんはドン勝本さんという全国ディスコ協会の重鎮だったんです。その協会はDJを30人ぐらい抱えていて、全国各地にあるディスコにDJを派遣するということをしていました。月に1度はDJ会議なんかもあったりして、派遣されたDJが東京に戻ってみんなで店の状況を報告し合ったりしていました。
──ダンサーとしてスカウトされたのでしょうか?
SAM そうですね。全国ディスコ協会がスペースクラフトというダンスチームを持っていて、原宿のダンスアカデミーでディスコダンスを教えていました。当時はディスコダンス教室なんてなかったので、それ以前は仲間内で色々な情報を合わせて我流でダンスを学んでいました。そこでようやくディスコダンスの基礎を学びました。
そのチームは夏になると提携している全国のディスコを回りショーツアーをします。機材は自分たちで持っていく貧乏旅行です。お盆の時期に4時間満員電車に揺られて東北地方に行ったり、日本全国すべてのディスコを回ったと言ってもいいほど辺鄙なディスコにも行きました。お客さんが一人しかいない時もあった。それでも、ダンスが好きだったのでそういうことも楽しかったですね。ただ、ドン勝本会長が全然お金を払ってくれなかったんですよ、彼はケチだったので(笑)。それが理由でゆくゆくは離れることになるのですが……。
ディスコダンスを広めたい一心
──20歳の時にアイドルでデビューされていたことに驚きました。勝本さんとの繋がりからでしょうか?
SAM 乃木坂にある勝本さんの事務所に毎日通っていたのですが、勝本さんが突然「お前らの中に歌えるやついるか?」と言いだしたんです。僕らはダンサーだったので歌は皆得意じゃない。ただ、「ミッキーマウス」の取り巻きの中に、ダンスは下手だけど歌が上手なやつがいました。そこに目を付けた勝本さんが、後にビクターエンタテインメントの社長になる飯田久彦さんのプロデュースのもと、アイドル・ダンス・ユニット「チャンプ」として4人組でデビューさせました。そのうちの一人が僕だったんです。
──SAMさんは歌も得意だったのでしょうか?
SAM 得意じゃないですね(笑)。ボイストレーニングもしていましたけど、やっぱりダンスがメインだったので。
──チャンプとしての活動は?
SAM 鳴かず飛ばずの状況でした。チャンプのデビュー曲には「ディスコ」という単語が出てくるのですが、ちょうどその頃に家出をした女子中学生が歌舞伎町のディスコでナンパをされて、千葉の山奥で殺されてしまうというおぞましい事件が起きたんです。それが発端となり、ディスコの営業を夜中の12時までとする風営法ができるなど、世の中から注目された事件でした。その影響でデビュー曲も「歌詞にディスコって入っているのは良くないよね」となりA面とB面を交換することになります。そんなこともありチャンプはあまり売れなかったです。
──そもそもダンサーではなくアイドルとしてのデビューに納得されていたんでしょうか?
SAM 納得はしていませんが、ディスコダンスを広めたい一心でした。自分たちがやっているディスコダンスやストリートダンスが何よりもかっこいいと思っていましたから。
このジャンルのダンスは少しブームが来ても終わって、またブームが来て終わってを繰り返して、なかなか日の目を見ることがなかったんです。じゃあどうやったらこのかっこよさを世間に広げられるかと考えたら、やっぱりテレビしかないと。それがアイドルとしてデビューした動機です。別にアイドルになりたかったわけじゃないんですね。むしろ不本意でした。
「 どうしてわざわざバックダンサーになるんだ?」
──活動していく中でもフラストレーションが溜まりそうですね。
SAM チャンプが上手くいかなかったのでメンバー全員でその事務所を辞めて、別の事務所からRiffRaff(リフラフ)という名前で再デビューしました。このデビューもまた勝本さんに元ザ・タイガースのギタリストである森本太郎さんというプロデューサーに紹介してもらいできたグループです。ただ、RiffRaffはそこそこ人気も出ましたが、それは爆発的ではありませんでした。めざしていたテレビ出演もあまりなかった。あと、あくまでアイドルグループだったのでメンバーはダンスにそこまでの熱量を持っていなかったんです。でも僕はダンスにはストイックであり続けたかったので、その温度差が段々ストレスになってしまい自分から辞めることを決めました。
辞めることを伝えると、プロデューサーの森本さんがこう言いました。「お前辞めてどうするんだ」と。「プロのダンサーになる」と僕が言うと、「お前はバカか。今はアイドルとして自分が前に出てメインでパフォーマンスができている。それなのにどうしてわざわざバックダンサーになるんだ──」。当時のダンサーは、歌手の後ろで踊るバックダンサーとしか思われていなかったということですね。でも、自分の中にはバックダンサーではなくダンサーとして輝いている姿がはっきりとイメージできていた。自分はダンサーとして成功すると疑わなかったんです。結局、僕が抜けることでグループは解散になり、RiffRaff時代から掛け持ちで活動していたブレイクダンスのチームに戻りました。
──ダンス&ボーカルよりダンス一筋の表現をめざしていたのですね。
SAM そこはずっとブレずにありました。その覚悟の表れとして、23歳の時に渡米してニューヨークにダンス留学にも行きました。それまでやってきたジャンル以外にもニューヨークではクラシックバレエとかジャズダンスにも挑戦しました。
──表現の幅を広げたかったのでしょうか?
SAM 嫌なことをしないと一人前になれないと勝手に思っていたんです(笑)。自分の一番やりたくないことって何だろうと考えた時に、タイツを着て踊らないといけないクラシックバレエが当時の僕には恥ずかしくて、できればやりたくなかった。
──下積みの時代ですね。
SAM 留学から帰ってきてからはどうやってダンサーとして表に出るか模索していた時期でした。映画に出たりテレビ番組の夏祭りで踊ったり色々なことをしましたが、なかなかチャンスが来ない時期が長く続きました。そして、28歳の時にようやくフジテレビのプロデューサーに声をかけてもらい「DANCEDANCEDANCE」というダンス番組のレギュラーダンサーになります。
──今もダンスをメインにした番組ってあまりないです。
SAM そうですね。その時期は「DANCE DANCE DANCE」の他に「DADA LMD」というダンス番組を放送していました。後々ZOOを輩出する番組で、実はその番組が始まった時、「ミッキーマウス」で同じチームだったダンサーのTACOに「一緒にやらないか」と誘いを受けていたんです。ただ、その番組は六本木とかでちゃらちゃらしているようなとっぽい兄ちゃんを集めてデビューさせるというコンセプトだったので、自分としては物足りない気がしたんです。流行に乗っかるだけの本物志向じゃない集まりに見えたので、入らなかった。だからもしあそこでTACOのチームに入っていたら、僕はTRFではなくZOOになっていました。
TRFの始まり
──大きなチャンスを蹴ったのですね。
SAM 「DANCE DANCE DANCE」では、MEGAMIXというダンスチームを結成して、僕はリーダーをしていました。CHIHARUとETSUもいて、TRFの前身となるチームです。番組は1年半放送されて、その間は毎日曙町にあったフジテレビの本社ビルに通い、昼の3時から夜中の12時まで番組で踊るショーをつくることに熱中していました。フジテレビ社員みたいな生活でしたね。
その番組を見た小室哲哉さんがプロデューサーづてに声をかけてきて、できたのがTRFです。小室さんはZOOとは違うダンスグループをつくりたいということで、ダンサーはプロフェッショナルを使いたいって言ってくれたんですよ。しかも、オリジナルの曲で踊らないかと言われたんです。元々、歌手のバックで踊らない、ダンサーメインで表舞台に出ていくことを掲げていたので、この提案には心が躍りました。
ただ、実際蓋をあけてみたらメンバーにはボーカルとDJもいて、結局はバックダンサーじゃんと思いました。そこで、ダンサーとして前に出ることへの想いを小室さんに伝えて、「TRFはボーカルを後ろにして前でダンサーが踊るというスタイルにしていいか」と聞いたんです。そしたらあっさり「それでいいよ。好きにして」と言ってくれたんです。
──小室さんはバックダンスではないダンスに理解があったんですね。
SAM どうなのでしょうか。小室さんもTRFのかたちが見えているようで見えていなくて、ずっと手探りだったんじゃないかな。はっきり方針が固まっていたわけではなくて、やっていけばわかるだろうって感じだったと思うんですよね。
振り返るとデビュー当時はボーカルのYU-KIに申し訳ないことをしたなと思います。ステージでの位置も、元々はDJが2人いたので、2人がブースにいて、小室さんのキーボードがあって、後ろのお立ち台みたいなところにYU-KIが立って歌うんです。そしてその前でダンサー3人が踊るという配置です。ここまですればバックダンサーではないだろうというムリやりの理論ですね。
──音楽の方向性はダンサーのSAMさんから見てどうでしたか?
SAM 正直、小室さんとは音楽性も違いました。小室さんが言うダンスミュージックは、テクノやユーロビートなどのいわゆるヨーロッパミュージックです。一方、自分たちはゴリゴリのニューヨークアンダーグラウンドミュージックが好きだったので、音楽的には真反対だったんです。それが嫌でTRFを辞めるメンバーも何人かいましたね。
ただ、僕はリーダーだったので、音楽性がいくら違ってもTRFは仕事としてやっていこうと割り切っていた部分があります。
──SAMさんがかっこいいと思っていたダンスは、当時メインストリームではなかったのですね。
SAM 当時、エイベックスはまだ小さい会社で町田に本社がありました。僕はそこに電車で通っていて、ある日「見せたいダンスビデオがあるから」と会社に招集されました。ダンサーからするとダンスビデオというぐらいだからどんなすごい人たちが踊っているんだろうと、期待していました。実際見てみると白人の方々がテクノミュージックに合わせて踊っている映像がずっと流れていたので、「いつダンサー出てくるんですか」って聞いたんですよ。そしたら「これがダンサーで、レイヴっていうヨーロッパで流行っているシーンなんだよ」と。驚きましたね。だって、自分たちにとってはディスコで昔から見ている絵と何も変わらなかったので。何をこんなもの今更見せるのだろうと。ただ、小室さんとか当時エイベックスの専務だった松浦勝人さんにとってはそれが最先端だった。小室さんたちがエイベックスでやりたかったものは、ダンスミュージック、いわゆるテクノを使った音楽シーンをつくりたかったんです。
──テクノの音楽にSAMさんのダンススタイルを合わせたのでしょうか?
SAM 苦肉の策です。テクノはハウスよりビートが速いのですが、無理やりその速さにステップを合わせてコレオをつくっていました。『EZ DO DANCE』も『BOY MEETS GIRL』も、TRFの曲は割とBPMがすごく速いので、やはり自分たちとしてはダンスミュージックっていうよりもポップミュージックで踊っているという感覚が強かったです。
皆で踊ることができる曲
──DJ KOOさんがインタビューで、「TRFの音楽は踊るための音楽」とおっしゃっていました。
SAM わからないですけど、KOOちゃんは小室さんにも気を遣っていたんじゃないですかね(笑)。
TRFの曲は踊るためというより、カラオケで盛り上がってもらえる曲が多いんじゃないかな。例えば、『survival dAnce ~no no cry more~』も、制作時にエイベックスからは誰でも踊ることができるフリにして欲しいと要望がありました。ライブで一緒に踊って楽しめるようにです。でも、当時はそれがどういう動きなのか本当にもうわからなくて。ダンスを踊るっていうより、手を横に振ったりステージから動きを示唆することが正解だったんです。
でも今となってみるとこれはこれで正解だったと思います。自分たちはダンスのすごくコアなところにいたので、他のものは認めないというように少し考えがガチガチになってしまっていたと思います。
──ライブ映像を見ると一緒にフリを踊ることでメンバーとお客さんの間でコミュニケーションがとれていて、一体感ある空間が素敵だと感じました。ただ、そのスタイルになるまで葛藤があったのですね。
SAM やっぱりダンサーはコンサートでもダンスを見せたくてしょうがないわけですよ。だけど、初期の頃は、間奏でダンスを見せるパートはあったけど、なんだかやりたいこととはズレていました。そんな中でも人気が出てきて「TRFかっこいい」と世間は思ってくれるんです。葛藤がどうしても付きまとっていました。
転換期になったのが1996年のアリーナツアーです。結成当初はコンサートのつくり方なんて右も左もわからなかったので、小室さんに全部教えてもらっていたのですが、2回目のツアーからはやり方がわかってきたので、小室さんはコンセプトを提示するだけで、あとは僕とメンバーのCHIHARUとETSUでかたちにしていました。そこで初めて少しだけ見せたいことをできたような気がします。ただ、小室さんからのコンセプトもすごく抽象的だったので、何が正解かはわからないのですが……。
──SAMさんから見て、小室さんはどんな方でしたか?
SAM やっぱり自分たちと見ている視点が全然違いますね。すごい人だなと思います。プロデューサーでありアーティストでもあるけど、小室さんってビジネスマンなんですよ。しかもものすごいビジネスマン。頭の中で、常にこうするとこのぐらいのパイの人が動くからこのぐらいの売り上げになるとか、そういうところまで考えていたと思います。
すごく世の中の流れに敏感な人でした。TRFが駆け出しの時、僕たちもまだ毎晩のように六本木のディスコに通っていたのですが、「SAMたち最近どこのディスコ行っているの?」って小室さんが聞いてきて、一緒にディスコに行くことになったんです。そこは小室さんが行くようなディスコではないし、VIPルームもないです。当然、周りの人が小室さんに気付いてざわつきますが、そんなことはお構いなしでした。じゃあ、なんでそんなところにわざわざ行くのかっていうと、リサーチなんですよね。若者たちの生の感覚を見たり聞いたりすることに熱心で、そのために小室さんはディスコに足を運んでいたんです。
──小室さんは孤高のカリスマのようなイメージを持っていましたが、人の意見にも耳を傾ける人なのですね。
SAM 本当にその通りです。すごく柔らかくて優しい方です。
ある時、小室さんから「SAMたちは最近どんな音で踊っているの?」と聞かれたことがありました。当時は、ダンクラ(ダンスクラシック)という、昔のスタイルをリバイバルしたものが流行っていて、自分たちもそういうクラブイベントを開催したりしていました。それを小室さんに「今はこれがかっこいいですよ」って持っていったんです。そこからできた曲が『Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~』(1995年)です。この曲は小室さんからするとダンサーチームへのプレゼントですね。これまで本意じゃない曲で躍らせちゃってごめんねという思いがあったのかもしれないです。
──1993年に発表された『EZ DO DANCE』が記録的なロングヒットを打ち立てます。世の中の人に存在が一気に知れ渡るというのはどんな感覚でしょうか?
SAM 当時はまったく嬉しくなかったですね。20歳ごろにダンサー仲間と10年後の目標を語っていました。街を歩いていて誰もが振り返るようなダンサーになりたいよねとか、ダンサーとして億のお金を動かせるようになりたいよねとか。10年後、TRFとして一応夢は叶えましたが、売れて世の中に知られるっていうことに対して、『EZ DO DANCE』や『BOY MEETS GIRL』(94年)頃は、まったく嬉しくなかったですね。
『survival dAnce ~no no cry more~』(94年)で初めてオリコン1位を獲った時、事務所は大騒ぎでしたが、僕とCHIHARUとETSUはまったく嬉しくなかったんです。自分たちの力じゃなくて小室さんの手柄だから、全然ピンとこなかった。でも、温度は合わせないといけないから「やったね」とかムリして言っていた記憶があります。KOOちゃんとかボーカルのYU-KIは喜んでいたと思います。
音楽番組で椅子がない
──それもなかなか苦しいですね。
SAM そうですね。当時は、ダンサーがレギュラーメンバーとしているグループはなかったので、それ故の苦い思い出もあります。例えば、音楽番組に出てもダンサーチーム用の椅子が用意されていなくて、自分たちで「すいません、椅子がないんですけど」とか言わなくちゃいけなかった。当初はどういうグループか周りのスタッフさんもよくわかっていませんし、自分たちにも戸惑いがありました。
ただ、ダンスグループとしてのプライドはいつも強く持っていました。それ故に、音楽番組のディレクターさんからは煙たがられていたんじゃないでしょうか(笑)。ある番組では自分たちが踊っている時に煙をバーッと出す演出がされたのですが、そうすると踊りがまったく見えませんよね。「CO2をなしにしてください」とスタッフさんに言いに行くのですが、「演出としてどうしてもやりたいから」となかなか引いてくれなかったりしてぶつかっていました。当時は、ダンスを撮ることに番組も慣れていなかったので、そういう面でもだいぶ苦労しました。
──当時の芸能の世界では、ダンスシーンが発展していなかったのですね。
SAM ダンスって結局、アンダーグラウンドな世界です。一方で、テレビやコンサートはメジャーシーンです。当時のテレビの世界って、それこそ70年代80年代のアイドルたちを撮ってきた人たちがつくっていました。そういう人にとっては、歌っている人をいかに良くみせるかが基本なんですよね。ダンスが制作側にとって身近なものではなかったんです。
──今では多くの人にダンスが身近なものとなっています。
SAM 最初に世の中に認められたなと感じたのがファーストコンサートです。ツアーの初日に、僕らが登場して踊ると「SAMー!」とか「CHIHARUー!」って歓声が聞こえてきました。そこで初めて、あぁ、みんなわかってくれているんだなと。声援を聞いて俄然やる気が出ました。この気持ちになるまでが長かったですね。
小室プロデュースから セルフプロデュースへ
──98年には小室さんのプロデュースを終えて、セルフプロデュースというTRFの第二章が始まりました。これ以降はSAMさんが踊りたい音楽で踊れたのでしょうか?
SAM 小室さんのプロデュースを離れた時もそれはそれで大変で、セルフプロデュースとは言いつつ、エイベックスの人たちは色々言ってくるわけですよ。アーティストにはA&R(アーティスト・アンド・レパートリー)という方向性を決めるような人が必ず付くのですが、A&Rと意見が合わなくて。ジャケット写真一つとってもしっくりきませんでしたが、だからと言って自分たちも勉強不足で具体的なアイディアがあるわけではない。戦えない悔しさが強くありました。
曲に関しても小室プロデュースを離れてから全てが納得できる曲というわけではなかったです。当時のエイベックスはコンポーザーを10人ぐらいまとめたコンポーザーチームを持っていました。TRFもそのチームから曲をもらっていて、自分たちの意志ではなくコンポーザーチームから来る曲を新曲としてやらないといけなかった。正直、なかなか自分たちが納得のいく曲とは出会えませんでした。
ただ、小室プロデュースを離れて第1弾の『Unite! The Night!』(98年)は、僕たちのやりたいことを反映できた曲でした。当時、芝浦の芸能人が多く住むマンションに僕は住んでいたのですが、そのマンションの2階に住んでいたm.c.A・T(富樫明生)というミュージシャンに、僕から「曲を書いて欲しい」と依頼しました。彼は僕と同い年で仲がよく、どういう曲を書いて欲しいかちゃんとこっちの意見を反映できました。
──確かに『Unite! The Night!』は、それ以前の曲と比べるとテンポがゆっくりですね。
SAM そんなにテンポは速くないですよね、あの曲。あの時、富樫君にはTLCの曲を渡したので、ヒップホップのエッセンスが入っています。『Unite! The Night!』はしっかり踊れてグルーヴできる曲になりました。
──30年間、一つのグループで活動をされてきて、メンバー同士衝突することはありませんでしたか?
SAM 最初はよくありました。それこそ90年代はよくぶつかっていましたね。役割分担がちゃんとできていなくて。例えば、DJ KOOとボーカルのYU-KIが演出でこういうことをしたいと言ってきても、ダンサーの自分たちから見ると「ちょっとな……」と思うものがあったりしました。しかも、常に5人できちんと話し合いをして答えを出そうとしていたのですが、なんせみんな我が強いのでそりゃまとまらないですよね。
そのうちに、サウンドチームとダンサーチームで役割分担が確立されてきて、じゃあ音はKOOちゃんとYU-KIに任せるから、演出とか振り付けはダンサーチームで、という分担に落ち着きました。それができるようになったのが2000年代ごろで、色々なことがスムーズにいきましたし、お互いがお互いをよりリスペクトするようになりました。
──20周年のコンサートDVDを観させていただいたのですが、メンバー同士の尊重し合う関係性がステージからも感じられました。
SAM もう関係性ができ上がっていましたから。20周年のころは何の苦労もなく活動できていました。
ダンスが持つ本能的な衝動
──人類はずっとダンスとともに歩んできたと思います。どの文化にもどの時代にもあります。人間には踊りたい欲求が本能としてあるのでしょうか?
SAM あると思います。ダンスと音楽は自然に生まれてきたものです。誰かが何となく木をカンカン叩いている時にリズムが生まれて、それに合わせて身体が動いてしまうというものがあるので、本能的な衝動が根本にはあると思います。ただ、そこに知性や感情が邪魔をして、かっこ悪いから踊りたくないという気持ちが出てきてしまう。だけど、本当はみんな踊れたらいいなっていう想いを持っているのではないでしょうか。
──SAMさんは踊っている時に、何を考えていますか?
SAM ステージで踊っている時はとにかく無になりたい。音楽の中に入ることだけを考えています。僕はソロで踊ることが多いのですが、毎回アドリブなんです。最後はステップで入ってここでフロアの技をやろうかなとか、何となく組み立ててはいますが、それ以外は何も考えていなくて全部出たとこ勝負です。だから調子が悪い時はめちゃくちゃかっこ悪いですよ(笑)。ただ、はまった時は頭で考えていないからこそのすごさがあります。特にブレイクダンスなんかの1on1のダンスバトルに出ている連中は、その偶発的な表現を楽しんでいますね。
──本能に突き動かされて身体が動いてしまうのでしょうか?
SAM いかに音楽に入り込めたやつが勝ちかという世界ですね。
──最近では高齢者向けや、幅広い世代向けのダンス、「ダレデモダンス」という活動もされています。表現のダンスから実用的なダンスにも目を向けるようになったのは、心境の変化があったのでしょうか?
SAM それまではエクササイズ系は避けてきたのですが、50歳近くになるにつれて、一般の人が誰でも楽しめるようなダンスができないかなと思うようになりました。その時期がTRFの結成20周年で、スタッフからTRFの曲を使ったエクササイズを考えませんかとちょうど声がかかったので、「そういうのを待っていました。是非やりましょう!」となったのです。これがきっかけでできたのが、「EZ DO DANCERCIZE」です。CHIHARUとETSUは大反対でしたが、僕はめちゃくちゃやりたくて。フィットネスに詳しい先生と一緒にフリをつくりました。
──累計販売350万枚の大ヒットになりました。
SAM すごく手ごたえがありましたね。世の中はこういうものを求めているんだと。
高齢化が進む世の中とダンスで向き合う
──それがダレデモダンスに繋がったのですね。
SAM そうですね。僕のいとこで古川俊治という、医者も弁護士も参議院議員もやっている人がいて、その彼から「将来、高齢の国会議員でもできるようなダンスをつくってくれ」とずっと前から言われていたんです。それが頭に残っていて、次は高齢者も楽しめるダンスプログラムをやろうと思って考案したものがダレデモダンスです。
──SAMさん自身の身体の老いに向き合おうと思ってできたわけではないのですね。
SAM 自分の体とはまったく関係ないです。だから、いざ高齢者向けのダンスをつくるとなっても何から始めたらいいのか全然わからなかった。そんな中、僕のダンスの生徒に救急ドクターをやっている方がいたのでその人に相談して試作品をつくりました。そしてまた別の医者のいとこの患者さん向けに週一回のワークショップを開催したりしました。参加していただいた方と会話を重ねて手探りでできたのがダレデモダンスです。
患者さんも最初は、何を自分たちはやらされるんだろうかと不安そうな表情でした。だけど、やっていくうちにダンスってこんなに楽しいものなんだねという声が聞こえるようになりました。ダレデモダンスを始めて1年経ったころに、30年間透析を続けていたおじいちゃんが、「ダンスを始めるまでは100メートル歩くだけで息が切れていたけど、今は10キロメートルも歩けるようになったよ」と言ってくれたんですよ。そういうお話を聞いて手ごたえをすごく感じましたし、もっとダレデモダンスを広げたいという原動力になっています。自分の身体のためというより、そんな人たちを元気にしたいという思いがモチベーションです。今後もダレデモダンスを使って、高齢化が進む世の中をダンスで少しでもよくしていければと考えています。
──ありがとうございました。
聞き手:本誌 薮 桃加
SAM/ダンサー、ダンスクリエイター
サム:1962年埼玉県生まれ。1993年、TRFのメンバーとしてメジャーデビュー。コンサートのステージ構成・演出をはじめ、多数のアーティストの振付、プロデュースを行い、ダンスクリエイターとしても活躍中。さらに、2016年には一般社団法人ダレデモダンスを設立、代表理事に就任。著書に『いつまでも動ける。年をとることを科学するジェロントロジー』など。