人間も国も生かされて生きている 国会を知り尽くした政治家が語る
民主主義の原点【大島理森】

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『公研』2023年8月号「私の生き方」

 

第76・77代衆議院議長 大島 理森

 

八戸の5月

──1946年青森県八戸市尻内町のお生まれです。八戸の四季で真っ先に思い浮かぶ季節はいつでしょうか?

大島 夏ですね。ただし暑い夏ではなくて、寒い夏です。夏にオホーツクに高気圧が張り出すと、そこから三陸海岸に向かって「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹き付くんです。やませが吹き続けると、稲穂が実らなくなり、冷害がもたらされることになる。八戸の歴史は、やませと戦ってきた歴史でもあるんです。江戸時代には何度も飢饉が起きているし、大正、昭和の時代になっても5、6年にいっぺんは、農家はこの偏東風に悩まされることになりました。1993年に全国的にお米の生産が激減したことがあったけど、あの時もやませが強く吹いたんです。だから季節のことを聞かれると、やませを思い浮かべます。

 八戸で一番良い季節だと思うのは、5月の連休を過ぎた頃です。田植えが終わって苗が活着して、早苗が元気になってきたあたり。ふるさとの大地がいよいよ「生きているぞ」っていう感じになる。この時期に田んぼの畦にね、どっかりと座ると目線がちょうど早苗と同じぐらいになる。そうしていると、「ああ我々も大自然の一部なんだな」「自然に生かされているのだな」と感動するぐらいに爽やかな気持ちになれる。衆議院議員に当選してからも、よくこの季節になると畦に腰を下ろしました。何を考えるわけでもなくただボーっとするだけですが、自分のDNAのなかには「農」というものが組み込まれていることを実感するのです。

 小さい時は、冬の夜空も好きでした。星が綺麗なんですよ。何かがっくりきた時や、失敗したり恥をかいたりした時に星を眺めると、「この宇宙のなかで人間は小さいものだ」「オレは何をくよくよしているのだ」と思えました。そうして自分に言い聞かせることがよくありましたね。

 

実家の庭で「えんぶり」が開かれた

──お父様も叔父様も議員を務められていましたが、どのような環境で育ったのですか?

大島 地域では大きな農家でした。父(大島勇太郎)は農業も好きで農業団体の長もやったりしているんですが、自ら先頭に立って家の農業の実務に毎日当たっていたわけではありません。父は戦前から政治の場に立っていて、戦後も県会議員をずっとやっていました。青森県議会の議長も務めています。叔父の夏堀源三郎は、戦後に衆議院議員を6期やっています。

 私の記憶では、父は家にいたことはあまりなかった。議会のある青森市へは当時は車で3時間以上かかったでしょう。今のように、新幹線で30分で行くわけじゃないので、議会のある時はもう泊まりっぱなしで帰ってこない。今は県議会議員の皆さんも自宅とは別に事務所を構えている方が多いと思います。我が家は事務所を兼ねているようなものです。ですから、いろいろな人がいつも出入りしていました。

 私が生まれ育った実家は甥が跡を取っています。広いのです。農業のお手伝いをしてくれる人が多い時には6人くらい寝泊まりしていました。昔は、我が家の敷地では青年団の相撲大会や演芸会などが開催されていたんです。豊年を祈願する八戸の郷土芸能「えんぶり」となると、多くの人がえんぶり組を観にやってきます。

 それから周囲の家に緊急の電話があったりすると、我が家が取り次いでいました。私たちがそこの家まで走っていって連絡があったことを伝えていました。電話がある家はまだ少なかったんです。我が家は、いわば小さいコミュニティの広場だったんです。そういう環境で育ちましたから、いつも人が出入りしていて寂しさを感じることは少なかったな。

──にぎやかな環境で育ったのですね。

大島 小さい時は、逆にそれが嫌でね。家族だけで旅行に行ったり、何かをしたりした記憶が一つもないんですよ。私は小さい頃は、鉄道員になりたかったんです。

 

親父はなんでお袋をここまで働かせるのだ

──なぜですか?

大島 実家が八戸駅(昔は尻内駅)から近かったので、国鉄の官舎がありました。そこには鉄道員の家庭があるわけです。小学校高学年になってそこの同級生の家に遊びに行くと、夕方になるとお父さんが帰ってきて、家族だけで夕飯を食べる。私が知らない家庭があるわけです。家族というのは、こういうものだと初めて知りました。同級生の家庭に憧れたんですね。それで「鉄道員になりたい」とよく言っていたと姉たちが言います。

──お母様はどんな方でしたか?

大島 とにかく忙しくしていました。農業は実質的には母がやっていました。お手伝いしてくれる人に指示を出し、自分でも農作業をしていました。私は小さい時から、雨が降ると嬉しくてね。農業をやらなくて済むので母が家にいるからですね。

 母は周囲の冠婚葬祭などを取り仕切る役割も担っていて、いつも準備に追われていた印象があります。父のお客さんがやってくれば、そのお相手もしなければならない。そういう状況にあって子どもたちの面倒も見なきゃならんのだから、それはたいへんだったと思います。我慢強い母だったと思いますね。

 農作業を自らやっていたために、リウマチに悩まされるようになったので、湯治に行くのを楽しみにしていました。親父はなんでお袋をここまで働かせるのだ、と反発する気持ちもあったことを覚えている。

 

「何を! 政治家の息子だべ!」

──やはり小さい頃から大将という感じだったのですか?

大島 いや、そうじゃなかったですね。小学校、中学校の同級生のなかには「(八戸弁で)ただもりさんは昔っから、リーダーでした」という人もいるが、私はそうは思わない。子どもたちが集まって三角ベースをやるにしても、その場を仕切ったガキ大将は、年上のいとこでした。だから、自分ではリーダーという意識を持ったことはなかったね。

──同級生に比べて、恵まれている家庭に育ったという気持ちはありましたか?

大島 1950年代のことだけど、当時私たちの小学校は給食がなかったんです。お弁当持参で学校に行くのだけど、持ってこられない子もいました。こそっと裾分けをしたこともありました。うちは農の家ですから食べ物には困らなかったからね。

 親父や親戚が政治家であることを知っているから、学校の先生方はそういう目で見ていたと思います。自分では意識することはなくても、周囲の親たちや先生たちも気にしておられる雰囲気がわかることもありました。恵まれていたことも実感していましたが、同時に「何を! 政治家の息子だべ!」と悪意を向けられたこともあって、小さいながらに「ああそういうものなのか」と感じたことは何度かありました。

──少年時代に、社会に関心を持つきっかけになるような出来事はありましたか?

大島 いろいろな人が我が家に来てはああでもない、こうでもないと話をしている環境で育ったものですから、世の中にはいろいろな人がいて、それで社会というものが動いていることを子どもながらに感じていたと思います。意識しようがしまいが、自分が生きていくためにはその社会のなかでうまくやっていかなければならないことは、身に付いていたのかもしれない。

 ただ自分が身の回りの社会以外に関心を持ったきっかけは、60年安保ですね。岸内閣に抗議する学生デモが国会に突入した際に、樺美智子さんが亡くなりました。中学2年生でしたから、実態はわかるわけがない。ただ地方紙の一面にこの事件が大きく載っているのを見て、何が起こっているのか、なぜ起きたのか、といったことを思いながら強烈な印象が残ったのです。格別、政治への志が生まれてきたわけではないけれども、政治や社会の動きに強烈に関心を持った最初の出来事でしたね。

──夢中になったことは?

応援団の副団長

大島 野球が大好きでした。近所に子どもがたくさんいたから、みんなが集まってくるとすぐに野球が始まるんです。テレビがない時代ですから、NHKラジオで野球中継をよく聞いていました。小西得郎さんという独特の調子で話す解説者がいて、よく真似をしたものです。読売ジャイアンツと西鉄ライオンズの日本シリーズなんかはわくわくして聞いていたね。

 ずっと野球が好きだったんだけど、中学時代はテニス部に入れられてね。上皇陛下がご成婚された時だからその影響があったのか、学校の先生から「お前はテニスやれ」と勧められて、テニスをやっていました。

 それから恩師でもあるおっかない先生から、「弁論大会に出ろ」って。「先生、そんなの嫌だ」と最初は断ったのだけど、「何言ってるんだお前! お前の姉もやったんだ」と無理やり参加させられたんです(笑)。三条中学校の裏にある田んぼに連れられて、声を張り上げさせられることになった。「政治家の息子だから」という理由で引っ張り出されたわけだけど、やはり政治のことを意識する機会の一つだったのは間違いないと思います。

──八戸高校に進学されます。将来のことを考え始める時期です。

大島 我々は、いわゆる団塊世代の最初ですから、ものすごく子どもの数が多くて受験戦争の最初の世代でもあるんでしょう。学校でも「良い大学に入るんだ。そうすれば可能性が広がる」と盛んに叫ばれていて、朝の授業や課外授業が行われていました。高校時代の生活は、受験勉強が第一でした。しかし、そういうなかでもいろいろなスポーツに打ち込む多彩な人間がいました。例えば、レスリングの伊調千春・馨姉妹(オリンピックで金メダル・銀メダルを獲得)を育てた沢内和興くんは、八戸高校の同級生なんです。僕はそういう仲間が試合に出る時の応援団の副団長をしていました。だから勉強に打ち込むという感じではなかったし、とても優秀とは言えない成績でした。

 それでも、高校3年生ともなると漠然と将来の進路を考えるようになります。最もお世話になっていた一番上の姉が東京に嫁いでいたこともあって、東京六大学、できれば早稲田、慶應に行ってみたいという考えを持ち始めたんです。政治を志すとか、司法の道をめざすといった明確な目標があったわけではなかったが、特に3年生の夏以降は、初めて勉強らしい勉強を猛烈にしました。

 

アメリカとはなんぞや

──努力が実って慶應義塾大学法学部法律学科に合格されます

大島 衆議院議員になって、何期目の時か忘れましたが慶應義塾大学塾長の石川忠雄先生に会う機会があった時、「大島くん、昔の君の成績では入れないよ」と言われたことがありました(笑)。

 実は僕は法学部政治学科を志願したつもりでいたのだけれど、入学してみたら法律学科だったわけ。願書は間違えて法律学科に◯を付けていたんですね。やっぱり潜在的な意識としては、政治を学びたいという思いがあったのだろうと思います。

 当時は学園闘争が盛んでしたから、大学内では全共闘や様々なセクトが活発に活動していました。我々の世代のみならず、日本人全体が戦後の日本にとってアメリカとはなんぞやということを核に、戦後の立ち位置を考え始めた時代だったと思います。太平洋戦争で敗戦して生きる意味を失った日本は、それぞれの内閣によって方向性にいくらかの違いはあったにせよ、基本的には復興、すなわち物を豊かにすることを求めてきました。経済成長を最優先にしていたわけです。

 戦後の日本はアメリカの文化に様々なかたちで刺激を受けて、アメリカに憧れを持っていました。特に戦後生まれの我々の世代は、強い影響を受けて育ってきた。ところが、そのアメリカがベトナム戦争に突き進んでいる。若い世代は、徐々にアメリカの行方に対して反発を覚える者が増えていきました。私自身も「なぜベトナム戦争なんだ」と強い関心がありました。それで、慶應の「アメリカ文化研究会」に入ったんです。ところがそこは、いかにも慶應ボーイらしい諸君たちの集まりの場だったんです(笑)。

──想像が付きますね(笑)。

大島 130人くらいいるんだよ。僕は政治パートに入ったのだけど、八戸でそれなりに必死に努力して入学した小生から見るとね、このメンバーとの肌合いの違い、言っている言葉、感覚はずいぶん違うのだなと思いましたね。ただ、これまた大きな刺激になりました。彼らは最も親しい学生時代の仲間として今でも私の財産として残っています。遊びや人との付き合い方も含めて、ここで様々なことを教えてもらったような気がします。

 

現実の政治をやることこそが大事

──やはり社交的ですね。政治家に向いた資質を感じます。

大島 もちろん人間ですから「こいつとは合わないな」という奴もいましたよ。ただ、小さい頃からいろいろな人が出入りするなかで育ちましたからね。世の中はいろいろな人間がいる。そのあたりは、柔軟だったのかもしれませんね。

──ベトナム戦争については?

大島 僕はね、反発するより「なぜなのか?」を学びたいと思っていました。ジョージ・ケナンの本などもよく読みましたよ。何回読んでもわからない。だから今でも引っ張り出して苦闘しています。世界が今どう動いているのかを知りたかったんですね。そうして、米ソの冷戦構造やそこでの日本の立ち位置についても、少しずつなるほどというところが出てきました。

 それで自分自身がヘルメットを被ってバリケードに立て篭もるような行動に走っていくのかと言えば、それは違うと考えました。そこまでの反発心を持つほどの信念は、なかったのだと思います。結局、彼らと議論していても、「現実問題としてアメリカを変えられるのか?」ということをいつも感じていました。騒ぎ立てたところで現実の政治は変わらない、この運動には限界があるという思考でしたね。こうした態度に対して「ズルい」という向きもありましたが、現実の政治をやることこそが大事だと考えていました。そこは一貫していたところがありました。

 東京オリンピック、大阪万博が終わり三島由紀夫さんが市ヶ谷で割腹したのは1970年でした。高度経済成長も終わりに近づいたことで、日本のアイデンティティが問われ始めた時代だったと思います。全共闘運動の根底にも、そういう問いかけがあったのかも知れません。保守の側にも同じように強烈な問いが出始めていました。僕自身は八戸の尻内という土地に長く根付く強い絆、わずらわしさもある地域社会に生まれ育って、父も叔父も自民党の代議士だったわけです。そのことをあらためて意識するようになった時期でもありました。

 

 

毎日新聞社に就職

──毎日新聞社時代は広告局の配属で記者ではなかったということですが、これは最初の志望の段階からそうだったんですか?

大島 記者になるには、出来が悪かったからですよ。僕は慶應も卒業するのに5年かかりましたからね(笑)。メディアも広告業界も変化の兆しが出ていた時期だから、刺激的でしたよ。当時は新聞の部数がまだまだ伸びていた時代だったから、求人広告なんかは単価の高い広告収入だったんです。新聞に意見広告として全面広告を打つようになったのもこの頃だったと思います。

 それで毎日新聞でも新しい媒体をつくって収入を得ようということで、コミュニティペーパーづくりを始めることになった。編集局からと、広告局から数名がやってきてチームをつくらされた。僕もそこに入れられたんですね。大型の郊外型百貨店と組んで、その地域の人たちがほっとするニュースや話題を集めてきて掲載する。そこに百貨店を軸にして地域のお店や企業に広告も出してもらうわけです。大きいところだと10万部くらい発行していた地域もありました。毎日新聞には4年半いたんですが、3年半ぐらいはこの仕事をやっていました。つらいけれども楽しい勉強になりました。

 広告を獲得するためには、日々動いている社会の状況を知らなければなりませんから、他の新聞も広告も含めて目を通していたんです。世論はどのように形成されるのか、その実態を勉強させてもらいました。この時の経験は、その後もたいへん参考になりましたね。

 

父の落選

──1975年4月に青森県議会議員選挙に出馬されます。どういった経緯があったのでしょうか?

大島 政治への道を具体的に意識し始めたのは、大学2年生の時でした。毎日新聞社に入る前のことでした。それまでは勉強もせずに東京での暮らしを謳歌していたんです。謳歌していたと言えば聞こえはいいけど、要は遊び呆けていたんでしょうな。ただ2年生の時に、父の選挙を初めて手伝ったんですよ。もう20歳も過ぎているのに何もしないで親のすねをかじって、好きなことをさせてもらってきたんですからね。当時は、自分たちで看板をつくって選挙活動をやっていたので、とにかく人手が要るんです。

 その選挙で父は負けたんです。67歳でした。その時に初めて父の負けた姿を見ました。悔しかった。政治の場に立っている父の存在を強く感じた時です。オレは「勇太郎」という政治家の息子であることを初めて実感したと思います。悔しさへの情念が存在し始めたと思います。

 政治の道に進むためには司法の世界を知るのもよいだろうと思って勉強もしましたが、小生の頭ではいかんともしがたい。それで社会を知りたいと思って新聞社に入ったんです。

 新聞社に勤めてから4年目の正月休みに帰省した際に、父に「今度の地方選挙に出馬したい」と申しました。「政治はそんなに甘いものじゃない」と一喝されました。けれども、父はおそらく嬉しかったのだと思います。その時は「4月に結論を出そう」ということで、先送りされました。ところが、その4月に父がぽっくりと亡くなってしまうんです。

 

汽車に飛び乗って八戸に帰る

──それは急でしたね。

大島 たいへんショックでした。最も頼りにする父が死んじゃったわけだからね。「自分が出馬する」と偉そうなことを言いましたが、そう簡単な話ではありません。9年半も生まれ故郷を離れていて、地域に何の貢献もないんですからね。

 ただし元青森県議会議長、大島勇太郎の逝去が久しぶりに新聞に載ったこともあって、新盆には父の古い支援者たちが実家に集まってきました。「このままでは悔しい」「出馬してほしい」という声もあったんですね。それで自分も決意しました。東京に帰ると、9月に毎日新聞社に辞表を出しました。

 姉の家に置いてもらっていた荷物をリュックサックにぶち込んで、そのまま汽車に飛び乗って八戸に帰りましたよ。情熱と熱望、情念、それだけで行動にできるわけですから、若さって怖いですね。また、若いからこそできたのかもしれません。28歳でした。

 ところが、母は「毎日新聞社にお勤めするのも公に尽くすことだろう。我が家は何十年も政治の世界に尽くしてきた。東京に戻りなさい」と言うんです。母がそう言うのは、当然だと思います。選挙を戦うというとてもつらいことを、陰で支えてきた実感からです。「いや、もう辞めてきたんです」と伝えると、最初に僕の考えに理解を示してくれたのは、昨年亡くなった兄でした。最後はようやく母も納得してくれたんです。

 こうして県会議員の選挙戦が始まりました。最初は無所属で出馬させていただきました。まだ28歳だし、青森県が抱えている問題を具体的にわかっているわけではないので、立会演説会などでは「創造する自治」「広がりのある政治」「愛する郷土」、この三つだけを繰り返し訴えました。今でも良いキャッチフレーズだと思っています。

──広告局で磨かれたセンスが活きましたね。

大島 演説会が終わると「昔あんたの親父さんにお世話になった」とか「夏堀さんのことはよく知っている」という人たちが寄ってきました。灰のなかに残り火は残っているんですよ。日本の政治文化だと感じましたし、先人と皆様に手を合わせました。結果として、全体の2番目で当選することができたのです。TV局を始め報道の皆様が少し遅れて取材に来たと思います。

 県議会議員は2期務めることになりましたが、この時に北村正哉知事のご決断のもと、青森県六ヶ所村において核燃料再処理事業を進めることを決定しています。県議として議論に加わり、賛成をしました。ですから一人の政治家として、この事業については自分にも責任があると思い続けて、現役時には原子力エネルギー問題にずっと関係して参りましたし、今も見守っています。

 『公研』の読者は電力に従事されている人が多いとのことですから、エネルギー問題は安全性の絶対確保、説明責任、サイクルの確立をしっかりしてもらわないかんと見守っていきます。

 

「あなたが決断し選ぶのならその道を行くしかないじゃないか」

──衆議院に初挑戦された1980年は、現職がいる選挙区での出馬ですから厳しい状況ですね。

大島 この時は、田中角栄先生のロッキード事件が明るみに出たことで国民から厳しいお叱りを受け、自民党内は分裂含みのたいへん困難な状況にありました。内閣不信任案が出された最中、青森県ではちょうど参議院の補欠選挙をやっていました。私は松尾官平さんを応援するために八戸市役所前でマイクを持って演説していました。

 自民党は、最後には必ずまとまることができますから否決されるだろうと思っていましたが、夜に松尾さんの事務所に帰ったら「解散になった」と聞きました。いわゆる「ハプニング解散」です。

 応援演説を終えて八戸の家に帰ると、さっそく家内は「出馬するのか」と聞いてきました。家にもたくさん問い合わせがあったようです。ちょうど二人目の子どもがお腹にいましたから、ともかく家内の意見を聞かなければならない。すると、「あなたが決断し選ぶのならその道を行くしかないじゃないか」と言ってくれた。もちろん政治の道に進んだ以上は、国政の舞台をめざしたいという思いはずっと持っていましたが、覚悟が決まったのはこの時ですね。衆議院議員選挙への出馬を決めました。

 しかし、選挙までわずか1カ月ちょっとしかありません。当時は中選挙区制ですから、青森の半分以上が選挙区になる。八戸ではいくらか知名度がありましたが、津軽半島や下北半島では知名度はほとんどなかった。勝つか負けるかより、与えられた機会を精一杯やるしかない。もちろん現職の先生方は後援会組織も含めて地盤がありますから、そこに頭を突っ込むことの困難さはよくわかっていました。

 あの時の青森2区は、前年に熊谷義雄先生(自民党)が落選されていて、田名部匡省さん(元農水相、自民党をのちに離党)が勝ち上がっていました。ちなみに田名部さんは同じ八戸市の出身ですが、その後何度も私と相見えることになります。地元では「八戸戦争」などと言われることになるんですね。

 結果として、最初の挑戦は落選に終わりました。ただ当選者とは5500票ぐらいしか違わなかった。支援してくれた人たちも落胆するというよりも、次に期待を持てるぞ、という雰囲気でした。

 

財産となった3年半の浪人時代

──そこから3年半の浪人時代をご経験されます。どういったことをするものですか?

大島 体力、資金力はつらかったですね。しかし志は鍛え、進むしかありません。今のような小選挙区制であれば、有権者は政党本位・政策本位で選択します。けれども、中選挙区制の時代は、自分の城をどうやってつくるかなんですよ。そのためにはまずは後援会組織を中心にして、地域の皆様に自分を知ってもらわなければならない。冠婚葬祭に顔を出すのはもちろん、毎晩のように時には飲食を共にしながら懇談をしました。あるいは、わずかな人数であっても若い人たちと語り合う場を設けて、今ある課題について議論を重ねました。あまりの忙しさに、自宅の玄関に入ってぶっ倒れたり顔面マヒにもなりました。

 河本敏夫先生(通商産業相、郵政相などを歴任。三木派)と支援者たちの物心両面でのご協力なしには、浪人時代を乗り越えることはできなかった。皆さんの支援と期待があって、政治家は成り立っている。そのことを学ぶことができました。それから、苦しい時に支えてくださった方々は、それ以降もいろいろな場面で基盤となってくださいました。私にとっては、この3年半は政治家としての財産、資本と言ってよいと思います。この時間がなく最初の総選挙で当選していれば、間違った天狗になっていたかもしれません。

 

「政治家は一本のロウソクたれ」

──国会議員時代を振り返っていきます。大島さんは、河本敏夫さんのことを「生涯の師匠である」とおっしゃっていますが、どういった経緯があったのでしょうか?

大島 前任者の熊谷義雄さんは明治大学同窓ということもあって三木派でした。また私の父が農業協同組合の会長をやっていたこともあり、三木武夫先生の謦咳に接したことがありました。そういうご縁から三木先生に連なる河本先生にご指導いただくことになりました。

 河本先生は、ご自身がご判断されたことに対しては「我弁明せず」という態度を徹底されていました。結論を明確に打ち出して、そのことに対する責任の一切を持つ。弁解はしません。1989年に海部俊樹総理が誕生する際にも、そこのところは見事な振る舞いだったと思います。「政治家は一本のロウソクたれ」という信念をお教えいただきました。いま風の言葉を使えば、パフォーマンスは得手ではありません、「少言実行」なのです。私はいろいろな先生に育てていただきましたが、やはり河本先生が政治家としての師匠であると思っております。

 

政治制度改革の舞台裏

──1990年に海部内閣が発足した際には、官房副長官として政権を支える立場にありました。新たに小選挙区制の導入を打ち出した政治改革法案は否決され、自民党は分裂に至ります。

大島 自民党内はとても複雑な状況にありました。その根底に何があったか。一つには政治改革の趣旨は、選挙制度改革だけではないはずだ。だから、小選挙区制の導入ばかりが主眼となっている改革は抜本的な改革ではない、という政策判断がありました。それから小選挙区制そのものに反対であるという人たちもいました。小選挙区制を政治運営に最も活用したと言われる小泉純一郎さんもそうでした。この時は反対だったんです。梶山静六さんもそうでしたね。小選挙区制にすれば党の執行部が強くなるという主張は、一面その通りなんだよね。そこに対する考え方も様々でした。

 二つ目の軸は、いわゆる田中派の支配体制に対抗する自民党内の新しい政治地図が動き出していたということです。ここの軸には、田中派対非田中派の戦いもあれば、田中派内の権力闘争もありました。田中派でも竹下登さんは「やらなあいかん」と言って賛成でしたし、小沢一郎先生は、この法案を通そうとリーダーでした。

 こうした様々な思惑や要素が入り混じって、政治改革関連法案は一気に廃案になってしまった。私も海部内閣の末席の一員として、この流れを阻止できなかったことは非常に残念でした。あの時の海部さんは、自民党の緊急事態を救うために役割が回ってきたのだけど、自らの力を積み重ねて総理になったわけではなかったところがありました。

 廃案になった時には、私も確かにその場にいました。海部総理はあの時に解散するという重大な決意もあり得たのだけど、結果としてはそれができなかった。非常に悔しかったと思います。結果的に海部総理が自民党を出ていくことになる原因の一つになったのではと、残念に思っています。

──小沢一郎さんは20年以上にもわたり日本政治の中心にいました。同じ東北選出の議員としてどのように見ていらっしゃいましたか。

大島 海部内閣で官房副長官だった時に、幹事長は小沢先生でしたが、よく怒られましたね。逆に言うとたいへんご指導いただきました。平成の前半は、まさに小沢政局だったのだと思います。私が見ていた限りにおいては、やはり小沢先生の考えには政権交代可能な日本の政治をつくりたいという思いがずっとあったのでしょう。今もあると思いますよ。

 一方、権力の運営という意味においては、側近が離れていくところを見ると、何がそうさせるのだろうと疑問に感じることはよくありました。小沢先生は、周囲の人たちにもう少し自分の考え方を説明する術があればよかったのではないかと思ったりもします。良きにつけ悪しきにつけ、若かりし頃に学ばれた田中先生、金丸先生、竹下先生といった方々の政治運営の手法のようなものに影響を受けていたところがありますよね。

 多くの人がいろいろなことをおっしゃっていますが、本心は小沢先生に直接聞かれるのがよいのだと思いますよ。

 

国会対策委員長の役割とは

──大島さんは国会対策委員長の要職を長く務められました。国民からするとわかりにくい立場であるとも感じます。

大島 国会対策委員長は、国会法で定められた役割ではありません。政党のなかの一つの組織です。国会はパブリックな場における権力闘争の場です。選挙でお互い激しい戦いをして、国民の代表として各議員は国会に上がってきます。それはまた政党間の激しい戦いなのです。

 与党は自分たちの考え方を通そうとするし、野党が反対の意見を持っていたとするならば、それを阻止し、自分たちの意思を少しでも通そうとする。ここには様々な戦いがあって、その結果として議論が紛糾してしまい、国会全体の機能を果たし得ない状況も生まれるかもしれない。国会での審議が停滞してしまっては政策が動きませんから、そういう事態が延々と続くことはあってはならない。

──野党との協議はやはり必要なのでしょうか? 妥協が生じて骨抜きになったり審議に時間がかかりすぎたりするデメリットもあるように思います。

大島 国会に提出される法案はどれも重要なものですが、実際は素早く審議がなされて採決を取って終わっていくものもたくさんあるんです。ただし、それぞれの政党が、これは国の骨幹の重要な案件であると位置付けている法案については、総力を挙げた戦いになる時がある。この場合、与党が過半数を占めているからと言って一気呵成に採決を強行すると、野党は審議を拒否するなど国会運営全体に影響してしまう。

 ですから、場面場面で全体を見ながら一つの案件をこなし、一つの案件をこなしながら全体を見なければならない。時にはプライオリティをつけながら解決しなければならない問題もあるわけです。もちろん、その判断については総理や幹事長とも協議をしながら決めることになります。けれども、国会の状況は刻一刻と変化する時があります。その場面で政党を代表して国会のなかで判断と決断をする役回りの人が必要になってくる。その役割が国会対策委員長の仕事だと思います。

 かつて細川護熙さんが連立政権を組んでいた時は、国対政治はやめようということになったんです。ただ民主党が政権を奪っていた時期は、やっぱり必要だと判断された経緯もあるんですね。チャーチルは「民主主義は欠点が多い。しかしそれ以上の制度は今はない」と言われました。政治を効率と合理だけで判断することは危険だと思います。なぜか生身の人間関係の運用なのです。多様な意見をまとめあげていかねばならないのです。

 

寛而栗かんにしてりつ」な姿勢

──野党にも広く人脈がなければ務まらない役割ですね。

大島 そのためには公式の交渉と同時に、非公式の交渉もしなければなりません。ここはちょっと我慢するが、ここは我慢できないといったポイントを押さえていなければ、ネゴシエーションは成立しません。それは政治の世界、すなわち人間社会に必然なプロセスです。私はそういう仕事を結構任されてきましたから、野党とも話をする努力をしてきました。

 けれども、それは国対委員長や政治家だからではなくて、人間として信頼を得られるように努力することが大事だと思っています。議員は選挙がありますから、激しい戦いのなかに身を置いていますが、だからこそ国民からの信頼、議員同士の信頼を得られるよう努力しなければならない。どうすれば信頼を得られるようになるのか、それはそれぞれの政治家が考えるべきことですが、やはり最終的には言葉に責任を持つことだろうと私は思っています。そして「寛而栗(かんにしてりつ)」な姿勢だと思います。

 

党首討論は開催すべき

──大島さんはイギリスの議会のように党首討論を定期的に開催することを提案されました。最近の国会答弁は、重箱の隅をつつくような議論が多すぎる印象です。枝葉にこだわらない党首討論によって日本の論点を明確にすることは有意義だと思います。

大島 同感です。37年間国会にいた者としていま思うのは、やはり日本人はディベートが苦手だということです。そういう教育をしてこなかったのだから仕方がない。演説はするかもしれないが、人の意見をきちんと受け止めて聞くことが不得手ですよね。相手の言い分を理解したうえで反論するような、冷静かつ率直な議論は難しいのかなと思う時がありました。

 けれども国民は、国会の議論の象徴たる党首討論を望んでいるのではないでしょうか。今は情報にあふれていますから、逆に国民の皆様からすると、何を選択すべきなのか判断に迷ってしまうところがある。やはり政党のトップが、国のあり方や思いを正々堂々とぶつけ合う場は必要ではないか。春に行われた統一地方選挙にしても、投票率が非常に低かった。主権者が一票を投じる際の判断材料としても、党首討論は行われたほうがいいと私は考えています。

 

他を生かす責任を負っている

──安倍元総理が亡くなってから1年が経ちました。衆議院議長時代に異例とも言える所感を述べられたこともありました。安倍長期政権については、どう見ていらっしゃいましたか?

大島 私もささやかですが、官邸で仕事をさせていただいたことがあります。総理大臣は毎日、己の全責任でもって重大な決断をして、それに耐えていかなければなりません。7年8カ月という長期間にわたって、その重責を担われ続けたことに深く敬意を表します。国際社会においては、日本の存在感を高めることにも尽力されました。それから、安倍政治は実際にはリベラルな政策を行った政権だったと思います。そこは周囲の受け止め方はだいぶ違うのではないか。そして「日本とは」と問いました。すなわち憲法改正問題を提起し続けました。

 安倍先生には「民主主義とは何だろうか」「国会をどう考えたらいいのか」といったテーマについて一度ご意見を聞いてみたかったという思いがございます。その機会が失われたことは残念でなりません。心から哀悼の意を表したいと思います。

 

 

──最後に後輩の政治家や働く読者に一言頂戴できますでしょうか。

大島 私は、人間も国も生かされて生きているとあらためて思っています。ですから、他を生かす責任を負っている。そのことを忘れずに、それぞれの職分に、全力を尽くしてほしい。己だけですべてができているのではないということですね。今の若い議員の皆さんはみんな優秀ですから、しっかり頑張ってほしい。

 それから、戦後の日本は戦争をせずに平和であったことの大きな意味を考えてほしいと思いますね。私は今、なぜ日本は太平洋戦争に突入したのか、という歴史を一生懸命に勉強しているんです。ロシアがウクライナに侵攻するような戦争がいま現実に起きているわけです。戦後生まれだからこそ、日本がたどった歴史を学ぶことは大事だと考えています。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

 

おおしま ただもり:1946年青森県八戸市尻内町生まれ。70年慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、毎日新聞社に入社。75年青森県議会議員選挙に出馬し当選、県議を2期務める。83年衆議院議員総選挙で初当選し、以後11期連続で当選。農林水産大臣、科学技術庁長官、原子力委員会委員長、環境庁長官などを歴任し、第7677代衆議院議長。自由民主党の役職としては副総裁、幹事長、国会対策委員長などを務める。

 

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