『公研』2019年12月「めいん・すとりいと」※肩書き等は当時のものです。
兼原 信克
久しぶりにインドネシアのジャカルタを訪れ、前から関心のあった前田精海軍少将の邸宅を訪れた。太平洋戦争末期、日本軍降伏の報に接して、インドネシア独立を指導してきたスカルノとハッタが、この瀟洒な洋風の建物に駆け込んできた。オランダ軍が帰って来る前に、インドネシア独立宣言を起草するためである。すでに敗軍の将であった前田少将は、「一階の応接間を使いなさい」と言って、自分は静かに二階に上がったという。スカルノがそこで起草した独立宣言には、皇紀(26)05年8月17日と日付が打ってある。スカルノは、初代インドネシア大統領となり、ハッタは副大統領となった。
インドネシアの各地は、古来、貿易中継地点として栄えてきたが、かつては人口が小さく、また、胡椒を産出することから、すでに大航海時代にオランダに征服され、植民地となっていた。1939年9月、第二次世界大戦が始まり、半年後、オランダはナチス・ドイツに屈服した。1941年12月、対米開戦に踏み切った日本軍は、直ちにインドネシアになだれ込んだ。
日本の軍政が、聖将今村均の仁政から始まったのは幸運だった。しかし、泰緬鉄道建設への現地住民の大量動員等から、次第に日本への反発も増し、占領軍である日本軍に対して暴動が起きるようになった。
当時、無数の島と無数の言語からなるこの国の人々を組織化し、自由と独立のために戦うことを教えたのは日本軍だった。日本軍の東南アジア進出は、総力戦のための資源収奪という要請とアジアの解放という理想が、無造作に絡んでいたのである。インドネシア独立軍兵士の中には、足袋を履いて、ゲートルを巻き、日本陸軍兵士と同じ格好をした者もいた。インドネシア人は、自由と独立を「ムルデカ」と呼んだ。
日本が敗けた後、約一千名の日本軍人が、様々な理由から、家族の待つ祖国へ戻ることを拒み、インドネシアに残留して、帰ってきたオランダ軍と独立戦争を戦うことを選んだ。彼らの多くは、インドネシアの土となり、祖国では忘れ去られた。
スディルマンという名の若者が、インドネシア独立軍の最高司令官であった。肺結核を病み、瀕死のスディルマンは、ジャワ島の山中を粗末な籠に乗って駆け巡り、ゲリラ戦を続行して、インドネシアに独立をもたらした。彼の籠は、今もジャカルタの軍事博物館に残されている。スディルマンは、30歳になる前に死んだ。まるで奇兵隊の高杉晋作を見るようである。インドネシアから寄贈された彼の銅像は、市ヶ谷の防衛省の中に、今も静かに立っている。インドネシア国外では、これが彼の唯一の胸像である。
インドネシアは広い。スマトラ島から、パプアまで、北米大陸ほどの幅がある。独立を果たしたばかりのインドネシアは、まさに「想像の共同体」であった。日本のように自然に国民国家となった国と違い、インドネシアはイギリスとオランダに勝手に引かれた国境線の中で、アメリカ合衆国のように、国民と国家をゼロから作り出したのである。スカルノ大統領は、建国の理念を「パンチャシラ」という名の独立原則にまとめ上げた。パンチャシラは、ヒンドゥー教、キリスト教に配慮して、イスラム教を国教とせず、唯一神への信仰、国家統一、民主主義、人道主義、社会的公正を掲げて、寛容な国づくりをめざしている。
独立後、インドネシアは見事に発展を遂げた。多民族国家でありながら、輝くような民主主義国家になった。今では高層ビルが立ち並び、車とオートバイが道を埋め尽くす街の様子を見ながら、祖国を捨てて密林の中で戦い、ムルデカの原点に埋められた幾多の残留日本軍人の魂に思いを馳せた。前国家安全保障局次長