生きるように編み、生きるようにつくる【塩田千春】

B!

『公研』2026年4月号 第675回 「私の生き方」


アーティスト
塩田千春


しおた ちはる:1972年大阪府生まれ。京都精華大学洋画科卒。ベルリン在住。糸を用いた大規模インスタレーションで国際的に高い評価を受け、生と死、記憶、不在と存在をテーマに作品を制作。2008年芸術選奨文部科学大臣新人賞、25年同大臣賞受賞。15年第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館代表作家。主な個展に森美術館、グラン・パレ、K21、グロピウス・バウ、大阪中之島美術館など。


 

精神世界を求めた子ども時代

──1972年大阪府岸和田市のお生まれです。塩田さんの中でいちばん古い記憶を教えてください。

塩田 小学校の初日の出来事です。それが夢なのか現実なのか今もよくわからないのですが、初日なのに転校生が来ていて、同じクラスに私にそっくりな子がいるとみんなが話していたことがありました。私もその子のことがすごく気になって見てみたら、確かに私に似ていて、それが今でも続く大親友になりました。ベルリンでの私の結婚式にも来てくれて、今も連絡を取り合っています。なぜかその時の教室の様子だけがすごく鮮明に残っています。記憶の中の記憶のような感じですね。

──小さい頃はどこで過ごすことが多かったですか?

塩田 実家の私の部屋の窓を開けると、目の前には大きな池が広がっていて、まるで湖のような水平線が見えるんです。その池を見ながら育ちました。池の周りでは、若い人からお年寄りまで、いつもみんなジョギングなどをしている。それを横目で見ながら、詩を書いたりしていました。小学生の頃です。

 実家は魚や果物の木箱を作る工場を経営していました。工場が家のすぐそばにあったので、その音を聞きながら育ちました。高度経済成長期のど真ん中でしたから、両親は本当に忙しくて、朝から晩まで働きっぱなし。なので、二人の兄に育ててもらったような感覚があります。

 夏休みの間は、私もよく工場を手伝わされました。朝8時に従業員の人たちが来て、夕方6時まで働いて、機械みたいに帰っていく。その姿を見ているうちに、だんだんとそういう世界が嫌になってくるんですよね。物質的な世界よりも、もっと精神世界のほうへ行きたいと考えるようになりました。死とか、自分とは何だろうとか、そういうことに興味を持ち始めていました。

──子ども時代から死に関心を持たれていた。何か原体験があったのでしょうか。

塩田 両親は高知の出身で、夏休みのお盆の時期になると、毎年みんなで高知に帰っていました。忙しい家族の唯一の楽しみです。両親の実家が土佐清水市の足摺岬のほうなので、車を大阪南港からフェリーにのせて行きます。一晩船に乗って朝になったら高知に着く。毎回、まるで異国に来たような気持ちになるんです。父親も急に土佐弁になったりして、すごく嬉しそうでした。

 高知に帰ったらまずお墓参りに行きます。土葬文化がまだ残っている地域でした。土葬ってどうしても怖いじゃないですか。土の中から祖母の吐息が聞こえてくるような気がして。祖母が眠っている上に草が生えていると、まるで祖母の栄養を吸って草が生きているように感じる。その草を抜くことが、すごく怖かったのを覚えています。未だにこの時の手の感触は忘れることができません。

しかも、記憶なのか夢なのか曖昧ですが、お墓参りのときに兄と一緒に火の玉が飛ぶところを見たんです。死への興味は、今後の制作にも繋がってくるような、ぼんやりながらも強い記憶です。

 

幼少期の塩田さん

 

美術で生きていくと決めた12歳

──学校の授業にはおもしろさを感じていましたか?

塩田 小学校の時は何も考えていなかったですね。中学校の授業はあまりおもしろくなかったです。とにかく絵を描くのが大好きな子どもでした。小さい頃って、人より上手くできることがあると嬉しいじゃないですか。先生にも褒められるし、授業で描いた絵が必ず廊下に貼り出されたりして。だから、どんどん描くのが好きになっていきました。

 近くに絵画教室ができて通い始めたら、もっともっと好きになって。12歳の時には、絵描きになりたい、美術で生きていくと決めていました。それ以外のものになりたいと思ったことはありませんでした。

──12歳でそこまで強く決めることが驚きです。

塩田 ただただ描いていて楽しかったんです。スケッチブックがどんどん溜まっていくのも好きでした。紙と鉛筆を渡したらずっと描いてるいる子ども時代でした。

──子どもの頃はどんな絵に惹かれていましたか?

塩田 私があまりにも絵ばかり描いているから、ある日母親が大阪でやっていたゴッホ展に連れて行ってくれたんです。母はすごく忙しい人だったので、とても珍しいことでした。ゴッホが特別好きというわけではなくて、たまたま連れて行ってもらえたのがゴッホ展でした。

そこで見た《疲れ果てて:永遠の門にて(At Eternity’s Gate)》という作品がすごく気にいったのを覚えています。タイトルの文章もすごく綺麗ですよね。椅子に腰かけて頭を抱えている老人の絵です。その心情と絵とタイトルに強く惹かれました。カタログも買ってもらって、後で見ながら、すごくいいな、いいな、なんて思ったりして。小さい頃から楽しく綺麗な絵よりも、どこか内面を表すような暗い絵に惹かれていたのかもしれません。

絵が描けない苦悩

──1991年、京都精華大学美術学部洋画科に進学されます。絵描きへの夢を着実に追われています。

塩田 そうですね。でも、大学1年生の時に絵が描けなくなってしまったんです。何を描いても人のものまねにしか思えなくなってしまって。描くこと自体は楽しかったのですが、もっと自分らしい絵が描けないのかとすごく苦しんでいました。

 そんな時に、交換留学をする機会がありました。サンフランシスコとキャンベラのどちらかを選べたのですが、大自然のほうがいいなと思って、キャンベラのオーストラリア国立大学スクール・オブ・アートを選びました。そこで何か見つかればいいなと思っていたんです。

 でも、結局留学先も絵画科だったので、みんなが絵を描いているのに、自分は描けなくて本当に苦しかった。こんなにも絵を描くのが好きなのに。自分とは何だろうとか、作品をつくることとは何だろうというところで、動けなくなってしまっていたんです。

 そんな時にある夢を見ます。自分がキャンバスの中に入って、どう動けばこの絵が良くなるのかを、ずっと考えている夢でした。絵の中に入るということは、平面の中に入るということです。なので、だんだん息が苦しくなって呼吸ができなくなってくる。そんな夢です。

 その何日か後に、エナメル塗料のペンキを買ってきて、それを頭から被るパフォーマンス作品をつくりました。《絵になること(Becoming Paint)》です。そうすることで、初めて自分の作品ができた気がした。自分と作品の繋がりがより強く感じられたのです。

──大胆な作品です。エナメル塗料が、その後も半年近く皮膚に残り続けたと聞きました。その残り方まで、どこか作品の延長のようにも感じます。その皮膚を見て何か感じたことはありましたか?

塩田 ただバカなことしたなぁって(笑)。後のことを本当に何も考えていなかったんです。そこまで毒性があるとも思っていなかった。ドロッとした強いエナメル塗料で、被った直後から皮膚が焼けていくような感覚がありました。塗料が付いた髪の毛も切らないといけなかったです。

 でも、もしかしたら何かが皮膚に残ったのかもしれないですね。泥水を浴び続ける《バスルーム》(1999年)という作品や、ドレスに泥をつけ、それをシャワーで洗い流す《皮膚からの記憶》(2001年)という作品にも、そうした感覚は繋がっている気がします。皮膚に刻まれた記憶というか、洗っても拭い去れない記憶のようなもの。

──今も絵からは距離を置いているのですか?

塩田 それから10年くらいは絵が描けなくて、パフォーマンスやインスタレーション作品をつくっていましたが、今はもう絵も描いているんですよ。小さい作品ですけど、糸だけで編み込んだ絵などです。

──何かきっかけがあったのでしょうか?

塩田 私はこれまでに2回がんになっているんです。1回目は2015年で、卵巣がんでした。その出来事がすごくショックで、その時に10年ぶりにドローイングが描けるようになりました。それまでは、テクニックだけで描いていたというか、描けたら楽しいと思って描いていたんです。でも、その時に初めて目をつぶった心の中に描きたいものが出てくるんだってわかったんです。描くっていうのは、目で描くことじゃなくて心で描くことなんだって。そこからまた絵が描けるようになりました。

人の心にぶつかるように編み続ける

──絵から一度離れた後は、塩田さんの代表的な表現方法である糸を追求されます。京都精華大学で発表したインスタレーション作品《DNAからDNAへ》(1994年)は、初めて糸を使った作品です。

塩田 糸も最初は絵の延長でした。絵が描けなくなったので、糸を使って空間にドローイングの線を描くような気持ちで始めたんです。毛糸って簡単に手に入るマテリアルだし、安いので。

──糸を使ったインスタレーションは、どんどん大規模になっていきます。部屋全体に糸を張り巡らせた作品も多いです。

塩田 インスタレーションでは、糸を「糸」として捉えていない作品も多いです。空間中に糸を張り巡らせて、それをどんどん増やしていくと、糸が重なって、だんだん目で追えなくなってくる。それを繰り返していくうちに、線が見えなくなって霧状になった時に、ようやく作品が完成したという感覚になります。

 空間に張り巡らされた糸は、人が入った瞬間に「何これ?」と思えるようなものにしたい。糸って、少ないうちはただの素材なんですけど、何万本も集まると、もう何なのかわからない存在になっていくんです。その不思議な目の錯覚を求めているところはあります。

──塩田さんの作品に入った瞬間、良い悪いという感情とは別のところで透明な心の輪郭を縁取られるような、今まで味わったことのない感覚になります。説明が不要な直接心に訴えかけてくるものがあると個人的には感じています。

塩田 そう見てもらえると嬉しいですね。編んでいる時は、何日間も限界まで編み続けます。だけど作品をつくろうというより、とにかく編んで、編んで、もう目に見えなくなるまで編んでいく。そうすれば、見る人の心の奥底に何かぶつかるのではないかというのを求めながら編んでいます。だからこそ、糸は人と人がつながる見えない線のようにも見えてきたり、ニューロンのようにも見えてきたりする。糸に対する眼差しは、作品ごとにずっと変わり続けています。

──糸の赤い色も印象的です。

塩田 ヴェネツィア・ビエンナーレで鍵を使った作品をつくった時に、赤い糸を使いました。鍵って人のかたちに似ていますよね。頭が大きくて体が小さくて。その鍵同士を人と人をつなぐように編んでいく時に、赤い糸のほうがいいなと。赤は血液の色でもあるし、家族とか国籍とか文化とか、それに今も続いている戦争とか、いろんなものを含んだ色です。

混沌から生まれた自由な創造

──1997年からはベルリンでの留学生活がはじまります。

塩田 ベルリンの壁が崩壊してすでに8年ほど経っていましたが、まだ街の中は混沌としていました。ポツダム広場も建設中で、世界中からアーティストが集まり、あらゆる空き地で展覧会やコンサートが開かれていた。

ビエンナーレやトリエンナーレに参加するような作家たちの多くがベルリンに住んでいて、世界中からキュレーターが集まってきていました。後にニューヨーク近代美術館(MoMA)でも活躍するクラウス・ビーゼンバックも、当時のベルリンから出てきた存在です。街全体に、何か新しいものが次々と生まれていく熱気があった。当時はそこまで意識していませんでしたが、いま振り返ると私は特別な時代のベルリンにいたんだなと思います。

──塩田さんもベルリンを象徴する伝説的アーティスト拠点のクンストハウス・タヘレスにアトリエを借りていました。非常に刺激の強い環境だったのですね。

塩田 タヘレスでは毎晩アーティストが集うパーティやイベントが開かれていました。特に東ベルリンは空き家がたくさん残っていて、そこから新しいアートやカルチャーがすごく発展していったんです。空き家で展覧会が開かれ、私自身もグループ展に呼ばれるようになりました。

 当時まだ日本では貸し画廊の文化が強くて、銀座などでは1週間展示するのに何十万円もの費用が必要でした。学生の私にとっては、とても簡単に発表できる環境ではなかった。でもベルリンでは空き家で展示を重ねていくうちに、だんだん美術館やビエンナーレにも呼ばれるようになっていったんです。あの時代のベルリンには、若いアーティストにも多くのチャンスが開かれていたのだと思います。

──そもそもですが、なぜドイツへ留学をされようと考えたのでしょうか?

塩田 19歳の時、滋賀県立美術館で開かれていたマグダレーナ・アバカノヴィッチの巡回展に行ったんです。アバカノヴィッチは、麻布やロープのような繊維素材を使った巨大な立体作品で知られるポーランドの現代美術家です。そこですごい衝撃を受けました。彼女の作品がものすごく力強かった。女性がつくったとは思えないと言ったらいいのでしょうか。展示空間全体にエネルギーがあって、圧倒されました。

 当時の私は女性としてすごく悩んでいた時期でもあったんです。やっぱり美術って男性社会なので。それでもこんなに力強い作品をつくる女性アーティストがいるんだということに本当に驚いた。

 その後、オーストラリアへ交換留学していた時の友人がアバカノヴィッチのもとで学んでいるという話を聞いたので、私も作品集を添えて、「ぜひ学ばせてほしい」と手紙を書いたんです。ところが、返信に記されていた名前は、別の女性アーティストであるマリーナ・アブラモヴィッチでした。名前の響きが似ているので、どこかで混ざってしまったのかもしれません。でも結果的に、その偶然がマリーナとの出会いにつながり、彼女のもとでパフォーマンスを学ぶことになります。

アブラモヴィッチの究極の断食授業

──マリーナ・アブラモヴィッチというと、自身の身体を極限状態に置くパフォーマンスで世界的に知られるアーティストです。かなり激しい印象があります。

塩田 そうですね。1週間の断食をするという強烈な授業もありました。ただ、いきなり断食が始まるわけではありません。まず半年前から肉を食べないように言われて、ベジタリアンになる。授業でもヨガをしたりして、だんだん精神を整えていく。それで最後に断食の授業が待っているんです。最初は食べ物のことばかり考えてしまっていました。

 断食中は、他にも修行僧のようなこともやって、精神をどんどん突き詰めていきました。例えば、池の周りを1日中歩いて、次の日には目隠しをして同じ池を一周させられる。前日にあれだけ歩いたはずの池も、目隠しすると全然わからなくなってしまうんですよね。あとは、その授業は12月だったのですが、雪が降る中外に出て、裸でジャンプをするんですよ。傍から見たらかなり頭のおかしい集団ですよね……(笑)。

 その1週間は喋ることも禁止でした。マリーナは喋れるけれど、生徒はダメ。スケッチブックに書くことだけは許されていました。

──本当に極限状態ですね。私なら脱落してしまいそうです。

塩田 授業にはいろいろな国から学生が来ていましたが、参加したくないという人も多かったです。でもマリーナは、「参加しないのなら、このクラスから除籍になります。この授業を受けないなら、私の下で勉強している意味がないから」と、はっきり言っていました。

居心地が悪くも恋しい日本

──この修行のような一連の授業を受けて、「これはアートなのか」とは感じませんでしたか?

塩田 あの時の私は、アートとは何かというより、自分とは何なのかということに行き詰まっていた。なのでむしろ自分の考えがどんどんクリアになっていく感覚でした。授業の最後には、マリーナが学生に何を伝えたかったのかが、すごくよくわかるようになりました。

 最終日は朝4時ごろにマリーナに起こされて、そっとメモと鉛筆を渡されます。そして、「何でもいいから書いてみなさい」と言われる。何も食べていないし、真っ暗だし、意識も朦朧としている。そんな極限状態の中で、私から出てきた言葉が《Japan》でした。マリーナは、「これはあなたの中から出てきた言葉なんだから、これがどういう意味なのか、これから自分の課題として考えていきなさい」と言いました。それが彼女の授業でした。
そこから生まれたのが、《Try and Go Home》(1997年)という映像作品です。全裸で泥だらけになりながら、斜面の洞窟を登っては転げ落ちるという行為を繰り返しています。日本に帰りたいと思いながらも、実際に帰ると居心地が悪く感じたり、でも離れるとまた恋しくなったりして。その複雑な感覚が、そのまま作品になっていきました。

 

 

──日本に対するその感覚は、今も続いているのですか?

塩田 今でもドイツにいると日本が恋しくなって、日本にいると今度はドイツが恋しくなる。どちらかを選んだほうがいいのかなと思ったこともありました。でも、やっぱり決められなかった。いつもどちらかを懐かしく感じる。

 でも今は、故郷が二つあってもいいんじゃないかと思っています。二つの国を自分の居場所として認めることで、他の国のことも認められる気がするんです。両方の国が自分には必要で、今の自分をかたちづくっている。その二つの国がなければ、今の作品は生まれていないと思う。

生きていてよかったと思った、その翌日に

──2019年に森美術館で開催された回顧展は、現代美術として異例の約66万人を動員し、その後も世界各地を巡回しています。日本でご自身の作品がここまで広く支持されていることを、どのように受け止めていらっしゃいますか。

塩田 やっぱりとても嬉しかったです。本当にとんでもない数の人が来てくださいました。私の作品は「インスタ映えする」と言われることも多いので、最初は写真を撮ることが目的の人が多いのかなとも思っていたんです。でも実際にはリピーターの方がものすごく多かったと聞きました。それもすごく嬉しかったですね。

 何よりこの展覧会は、自分にとっても特別な展覧会でもありました。始まりはキュレーターの片岡真実さんがベルリンに来て、「森美術館で、あなたの過去25年分の作品がわかるような展覧会をやりましょう」と言ってくださったことでした。それを聞いた時、最初に浮かんだのは、本当に生きていてよかった、今まで制作を続けてきてよかった、という言葉でした。本当に嬉しかった。

 しかしその翌日の検診で、自分の身体の中に悪性腫瘍があることを知りました。実は1回目にがんが発症したときに、お医者さんから「あなたの命も危なくなるかもしれないから卵巣は二つとも取ったほうがいい」と言われていたのですが、一つは残したんです。どうしても子どもが欲しかったから。その後、子どもはできたのですが、残した卵巣にがんが再発してしまったということです。

 なので展覧会が決まって嬉しかったのは、片岡さんが来てくれたその一夜だけ。次の日にはがんだと告げられて、そのまま手術して、入院して。抗がん剤治療が始まる前までに、頭の中では展覧会の構成を考えるしかなかった。

──そのような状況でも、展覧会の準備は止めなかったのですね。

塩田 展覧会の1年半前には、お医者さんに許可をもらって、打ち合わせのために一度だけ東京へ行ったんです。その時に、どの部屋で何をするかをどんどん決めようとしていた。すると片岡さんに、「まだ1年半もあるのに、どうしてそんなに急ぐの?」と不思議そうに聞かれたことがありました。でも、次いつ日本に来られるかわからなかった。がんはすでにステージ3で、かなり進行していました。

 この時期は、死についてものすごく考えた時期でした。亡くなったら自分の身体はどうなるんだろう。今の自分の考えや思想はどうなるんだろう。当時9歳だった娘は、母親がいなくなったらどうやって生きていくんだろうって。もう生きることに精いっぱいだったんです。

個人的な記憶から生まれる壮大な普遍性

──幼少期からずっと意識していた「死」と直面されることになる。制作中の作品にも影響しましたか?

塩田 もちろんです。作品と私は一緒なので。5カ月にわたる抗がん剤治療の中で、髪が抜けていく過程を撮影して、作品にしようと思っていました。でも、それを片岡さんに提案したら、「それはやめましょう」と言われたんです。25年分の作品を見せる展覧会なのに、がん一色になってしまうのはもったいないと。

 ほかにも抗がん剤治療で使っていたバッグを集めてきて、そこにクリスマスのピカピカ光るイルミネーションを入れて点滴スタンドをベッドの脇に立てました。イルミネーションがまるで呼吸するみたいに明滅する作品をつくったんです。でも、それを見せた時も、「これもダメだ」と言われました。なんでダメなのか、その時はちょっとわからなかったです。当時は自分が精いっぱい過ぎて。

 でも、元気になったいま振り返ると、あの時はまだ作品になっていなかったんだと理解できます。作品が自分だけの問題になってしまっていて、見る人を拒否してしまうような強さが出ていたんだと思います。

──つまり塩田さんにとっては、作品で他者とつながることが表現であるということでしょうか。

塩田 どうなんだろう。私の作品って、すごく個人的なことしか作品になっていないんですね。例えば、《静けさの中で》(2008年)という作品です。これは、子どもの頃に近所の家が放火されて、燃えるピアノの音が聞こえてきたという記憶から生まれています。その焼け焦げたピアノを黒い糸で包んだ、私の記憶の中から出発した作品です。でも、見た人がどこかで共有できるものを感じてくれる。こんな感じに私から始まって「私たち」になった時に、ようやく作品になったと言えるんだと思っています。

 何か作品をつくるってそういうことなんですよね。音楽でも絵画でも、究極まで突き詰めていくと、周りからは「頭おかしい」って思われることもあるかもしれない。でも、その人が本当に極限まで行くと、どこかでその人だけの問題じゃなくなって、みんなと共有できるものになると思うのです。

不在から浮かび上がる物語

──その探求が、塩田さんの作品を貫く「不在の中の存在」というテーマにもつながっていますか?

塩田 人が亡くなった時に、思い出や記憶だけがそこに残る。いないけれど、たしかにあった存在っていうものに、ずっと惹かれているんだと思います。

 ベルリンは空き家がすごく多くて、誰かがそこに住んでいたのに急にいなくなったような部屋ばかりなんです。たまたまもらったアパートで制作していた時に、だんだんといろいろなことが気になってくるんです。ここには誰が住んでいたんだろうと。壁だと思ったら扉が隠してあったり、どこに寝室があったんだろうとか。その人はもういないけど、その存在がすごく強い。

──ベルリンの街自体が、そういう気配に満ちていたのですね。

塩田 ベルリンのフリーマーケットに行くと、「こんなもの売るの?」と思うようなものが並んでいる。パスポート、通帳、卒業証明書、アルバムなどです。その人が生きていた時にすごく大事にしていたものが、亡くなった途端に何の価値もなくなってしまう。でもそれを見ると、会ったこともないのにその人の人生が見えてくるのです。たくさんの記憶があって、その人の存在が浮き上がってくる。

 古いスーツケースを拾って、捨てようとしたのですが、気になって開けてみたら、旅行の荷物リストが入っていたことがあります。茶色く黄ばんだ紙に、靴下、ズボン、シャツと書いてありました。60年以上前のものなのに、今の私のリストと全然変わらないんですよ。全く知らない人なのに、なんかだか温かい気持ちになって。それからスーツケースを集め始めて、作品もつくりました。

──失ってから初めて、その存在を意識することも、不在の中の存在に重なる気がします。

塩田 そうですね。亡くなった人に対して後悔する気持ちって、みんなありますね。東日本大震災の後も、こんなことになるんだったらもっとそばにいればよかったとか、あんなこと言わなければよかったって。一瞬にして人の命が失われてしまうから。その後悔の感覚も、きっとどこかで繋がっているんだと思います。いない人の存在をこんなにも強く感じるっていうことが。

自分とは何かという永遠の問い

──死に対する答えは見つかりましたか?

塩田 今も探し続けています。どうしても死がテーマになってしまうところはあります。たぶん、自分とは何かという問いがずっと大きなテーマで、そこから自然と死とは何だろうにつながっていく。だから結局いつもこのあたりをうろうろしながら探しているんです。

 最近は、人が亡くなって灰になって、その原子が宇宙に溶け込んでいくような感覚で死を捉えるようになってきています。私という存在はなくなるかもしれないけど、原子としてはずっと生き続けるんじゃないかなって。

 友人が腎臓移植手術を受けたのですが、手術の後から魚がすごく好きになったと言っていました。おそらくドナーの人が魚好きだったのではないかなと。でも、そんなことがおこるのなら、どこまでが自分で、どこからが自分ではないのかとも思う。心臓を変えたら何パーセント自分でいられるんだろうとか。そういうことを考えています。結局、自分とは何かという問いに、答えが出ないままつくり続けている。

──自分とは何かをずっと問い続けてきた塩田さんにとって、娘さんを育てることはその問いに影響しましたか。

塩田 2回目にがんになったとき、最初のがんを診てくれた先生が大学病院の産婦人科のトップになっていて、また診てもらったんです。私のことを覚えてくれていて、「あの時残した卵巣で子どもはできたか」と。「3回妊娠して2回はだめでしたが、一人娘がいます」と伝えたら、「では残してよかったですね」と言われました。2回目は子宮にまで転移していたので、結局すべて取ることになりましたが、娘がいる。それだけで、残してよかったと思えました。

 娘とは似ているところもあるんですよ、やっぱり自分の遺伝子ですから。でも全く違う人間なので、本当にいろいろ学ばされます。娘はドイツの学校に通っているのですが、クラスでほぼ一人のアジア人でした。最初はいじめられないかと心配していたのですが、そんな心配は必要なかった。「そういう教育をしているから」と娘は言うんです。自分と他者は違うということを徹底的に教えると。私が「日本人だからそうなのよね」と言ったら、「その言い方、先生に怒られる」って。日本人だからじゃなくて、その人だからと言わなければいけないと。逆に娘から教わることも多いです。人間を育てるって、失敗ばかりだけど、学びも多いですね。

 

 

つくらないほうが苦しい

──制作と離れた時間ではどんなことに安らぎを感じますか?

塩田 私はアーティストなので、24時間全部つながっていて。映画を観ても本を読んでも、何かと作品につながっていく。旅行中や移動中に新作のアイデアが浮かぶことが多いです。プライベートと仕事の境がないんですよね。展覧会をつくることが大好きで、それなしでは自分の存在が考えられないというか、どうやって生きていいかわからないぐらいです。

──つくることが苦しくなる瞬間はありますか?

塩田 もちろんあります。妊娠6カ月で死産を経験した時は苦しかった。爪もまつ毛も見えていたのに。そんな時でも展覧会は迫ってくるので、こんな状態でもつくらなきゃいけないのかって思った時は、本当に辛かった。でも今つくらないと間に合わないって思った瞬間に、やっぱりアイデアが浮かんできて。作品をつくり続けることが、生きていくために必要なものになっているんだと思います。絵が描けなくなった時も、半年間何もできなくて本当に苦しかったです。でもこんなに苦しいんだったら、何かつくって表現したほうが楽だって気づいた。つくらないほうが苦しいってわかったんです。

──ありがとうございました。

聞き手 本誌:薮 桃加

塩田千春《DNAからDNA(From DNA to DNA)》
(1994年)© VG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2026 G4274

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