5カ国の生活者を対象に昨年末に行ったアンケート調査によれば、自分の実質賃金がこの先上がるだろうという回答は、例えば英国では13%だった。自分の実質賃金は今と変わらないという回答が36%なので、合わせると49%だ。これに対して、自分の実質賃金はこの先下がるとの回答は51%だった。つまり、約半数は楽観的、残りの半分が悲観的ということだ。この半々という結果は、米国、カナダ、ドイツも共通している。
では日本はどうか。日本の生活者で自分の実質賃金がこの先上がるとの回答は僅かに4%、変わらないとの回答が17%なので、合わせて21%に過ぎない。一方、自分の実質賃金がこの先下がるとの回答は78%に達し、米欧と著しく異なっている。
自分の実質賃金がこの先下がると予想する生活者は、住宅や教育投資などまとまった金額の支出を躊躇する。個人消費等が振るわない最大の理由はここにある。
ではどうすればよいのか。大学の授業で実質賃金について最初に教えるのは、「実質賃金=労働の限界生産性(労働者を余分に1人投入したときに生産量がどれだけ増えるか)」という等式だ。何らかの理由で生産性が上昇したとする。労働者の生産への貢献が高まったということだから、その分、高い実質賃金をもらって然るべきとなる。これを応用すると、実質賃金が低い、あるいは今後も低いと見込まれている日本の現状を打開するには生産性の引き上げが必須となる。
これは、疑問をさしはさむ余地のない理屈に見える。しかし本当にそうだろうか。
「実質賃金=労働生産性」は経済の均衡では必ず成立する関係式だ。もう少し正確に言うと、この式に象徴される多くの等式が成立している状況が均衡だ。
しかしだからと言って、この等式が現実に成立している保証はない。成立しない理由としてマクロ経済学者が強調するのが価格と賃金の粘着性だ。実質賃金の分母である価格と、分子である(名目)賃金は瞬時には調整されないというのが粘着性の意味だ。両者がきちんと調整されなければ均衡に至らず、この等式も成立しない。
では今の日本で懸念されている実質賃金の停滞は、労働生産性に原因があるのか、それとも(名目)賃金と価格の粘着性に起因するのか。
実質賃金のデータをみると、2014年から21年まで安定的に(というか低位安定で)推移した後、22年から下落が始まり、現状は当時の水準を6%程度下回っている。政労使のそれぞれが問題視しているのは、この下落である。また冒頭に紹介したアンケート調査でも、日本人の悲観が目立ち始めたのは22年調査からである。
では、22年以降の実質賃金の下落は生産性の下落によるものだろうか。日本の生産性が振るわないのは疑問の余地がないが、それでも22年以降、不振が加速したという痕跡はない。足元の実質賃金低下の責めを生産性に負わせるのは酷だ。
日本のインフレは22年春に始まり、それを追いかけるかたちで23年春闘において高い賃上げが実現した。それ以降も、インフレを追いかける賃上げが続いている。しかし物価と賃金を比べると、物価がこの時期、急速に粘着性を低下させたのに対して、賃金は粘着性が依然強く、そのために、実質賃金が低下した。これが22年以降の下落の真相だ。
そうであれば処方箋は明らかであり、賃金の粘着性の是正だ。春闘での賃上げ目標は、過去のインフレ率を参照して決められてきた(「過年度CPI」方式)。しかしこれでは、物価が加速する局面で賃金が追いつかない。過去ではなくインフレの先を見越してそれを織り込むかたちで賃上げを要求するという、春闘の新しいスタイルを確立すべきだ。
ナウキャスト創業者・取締役、東京大学名誉教授