『公研』2024年12月号「対話」※肩書き等は掲載時のものです。
「高齢者が得をして、現役世代ばかりが損をする」──。
年々深まる世代間対立。
解決のカギはどこにあるのか?真の制度改革とは?
しまさわまなぶ:1970年富山県生まれ。94年東京大学経済学部卒業後、経済企画庁(現内閣府)入庁。秋田大学教育文化学部准教授などを経て、2022年より現職。専門は経済政策論、財政学、マクロ経済学。著書に『教養としての財政問題』『シルバー民主主義の政治経済学─世代間対立克服への戦略』『年金「最終警告」』など。
まちどり さとし:1971年福岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授などを経て、2007年より現職。専門は比較政治論。著書に『政治改革再考:変貌を遂げた国家の軌跡』『代議制民主主義』『首相政治の制度分析』『政党システムと政党組織』『政治改革再考―変貌を遂げた国家の軌跡―』など。
今の年金制度だと現役世代が損をする?
待鳥 今年は自民党総裁選から衆議院総選挙まで、日本政治の転換期となり得る選挙が行われました。中でも衆議院選では「現役世代の手取り増」を前面に押し出した国民民主党が若い世代から支持を集めるなど、世代間格差やシルバー民主主義への注目が高まっています。本日は、私の専門である政治制度と、島澤先生ご専門の経済という二つの視点から、シルバー民主主義について現状を整理するような議論ができればと思います。
シルバー民主主義とは、少子化、高齢化の進行によって有権者の中で高齢者が多数派となり、これらの層の政治的影響力が増すとされる現象を指します。早速ですが、島澤先生がシルバー民主主義を研究されるきっかけはどこにあったのでしょうか。
島澤 私は大学で研究する前、1994年に経済企画庁に入庁していたのですが、その頃からすでに少子高齢化による日本経済の衰退の懸念は問題視されていたため、私は少子高齢化について研究をしていました。なかでも世代会計という手法で社会保障や財政を分析していたのですが、そこで付随的に出てくるのが「世代間格差」という問題です。それがなぜ生まれて、なぜ訂正されないのかに興味を持ち、一つの仮説である「シルバー民主主義」に注目しました。
待鳥 世代間格差は今の日本を象徴するような論点ですよね。ただ、日本にはジェンダー格差や地域格差など様々な格差が存在します。そのなかで、島澤先生が世代間格差に注目する理由はどこにあるのでしょうか。
島澤 やはり経済学が専門なので、経済に最も大きな影響を与えているのは何なのかと考えたところ、世代間格差に行き着きました。世代格差は、言うならば世代間再分配の結果です。現役世代から取り、それを高齢者世代に渡すシステムが世代間再分配です。これが本来予定していたよりも現役世代にとって大きな負担になっているのではないかという問題意識が一つあります。と言うのも、現役世代から取りすぎた結果、「手取りが少ないので結婚できない」「子どもを持てない」など、日本経済の先行きにものすごい悪影響を与えているのが世代間格差なのです。
待鳥 島澤先生が執筆された記事をいくつか拝読したところ、世代間格差が起こる背景には、制度設立時の社会事情を踏まえてつくられた制度を、時代の変化とともに変えてこなかったことに大きな要因があると認識しました。現在のかたちの年金制度が成立した戦後直後の1961年は、高齢者は戦争の影響を受けて貧しく、人口に占める割合もわずかでした。そのような人たちを、現役世代が支えていたとしても負担はそこまで大きくありません。
しかし、今の高齢者は昔のように貧しくないですし、何よりも昔と比べて人数が圧倒的に多くなっています。そのような高齢者を少数の現役世代で支援するのは、どうも納得がいかないという考えは確かに成り立ちます。
他方で、いくつか気になるところもあります。まず、世代間格差論についての基本的な疑問として、マクロの視点で見ると現役世代が損をしているように見えますが、ミクロの視点で見た場合、はたして本当に損をしているのかという点です。例えば、親世代に十分な年金が支給されているから、子から親へ仕送りが不要になるという家庭もあるはずです。そう考えると、現役世代はそこまで損をしていないのではとも思います。
日本は家庭内に世代間扶養が存在します。そのため、現行の年金制度を廃止して年金支給水準が下がると、子ども世代が何かしらの支援を始めるでしょう。そうなると年金制度の改革は実質的にどれほど現役世代の負担を軽減できるのか、と少し疑問にも思うのです。
島澤 公的な世代間の仕送り、つまりは年金制度を私的な親子間の家庭内扶養に当てはめて考えると、実はそこまで現役世代は損をしていないのではないか、という議論ですね。年金制度の問題点は「損をする人と得をする人」のように、個々人で差が生まれるところにあります。私的な仕送りだと現役世代、つまり子ども世代の経済状況によって仕送り額を決められます。一方、年金は公的に決まったものなので、年金制度があることで仕送りの分が浮くから助かる家庭と、むしろそれが負担になる家庭など、負担に感じる程度は様々です。ここの差が問題なのです。
さらに、現行の年金制度では、現役世代の所得によって負担する社会保険料が異なるのですが、最も負担が大きいのが中間層の少し上の層であるというデータが出ています。要するに、この一番損をしている層が世代間格差をどう捉えるかによって、日本社会におけるこの問題の大きさが決まります。
加えて現行制度の問題点は、まったく持続性がない賦課方式を採用しているところにあります。今年の出生数は70万人を下回り、現役世代と高齢世代の数の対比が今後も拡がることは明白です。それではいま高齢者に支給されている年金を負担する現役世代が、自分が支給年齢になった時、本当に年金をもらえるのかどうか不安に思うはずです。そんな不安を抱きながらも強制的に再分配をさせられていたら、不満が出てくるのは当然ですね。
現役世代に目が向けられた総選挙
待鳥 現役世代が抱える不満は10月の衆議院選挙でも論点となり、国民民主党が大幅に議席数を増やす一因になったと指摘されています。SNS戦略の成功も一因としてあると思いますが、それ以上に「現役世代の手取りを増やす」という公約が多くの人に支持されたことが大きかったのだろうと思います。現役世代の経済的利益に特化して、それを重視する政党はここ10年あまり目立ちませんでした。今回の国民民主党のように、現役世代と高齢世代という世代間の線引きをはっきりと言葉にして優先順位を付けようとするのは、日本の政党政治ではややタブー視されてきた感もあります。
その背景には、そもそも有権者がそういった線引きを受け入れてこなかったこともあります。元首相の安倍さんや菅さんも、「現役世代の手取りをどう増やしていくのか」を実はそれなりに考えていたとは思うのですが、「手取り増のために高齢者負担を増やす」という話は、あまりにも政治的コストが高すぎて、表に出せなかったのだと思います。
島澤 そうですね。高齢者の票を失いかねないです。
待鳥 ここはなかなか言及しにくいところですし、今の政治が「シルバー民主主義」と言われる所以でもあるのでしょう。
今回の選挙でも国民民主党党首の玉木氏が討論会で、高齢者医療や終末期医療における尊厳死の法制化について言及というか、口を滑らせてしまい非難を呼びました。いくら社会保険料の低下を目的としたものだとしても、明らかにそこまで踏み込んだ発言をすると、今の日本では高齢者層の支持を失いかねません。尊厳死の位置づけとしても適切さを欠きます。
有権者数の多い高齢者の反感を買わないようにすることは、政治家にとって当然の行動です。しかし、尊厳死の話はともかくも、それではいつまでたっても現役世代向けの政策は生まれません。解決策はどこにあるのかと考えた時、経済学の専門家からは、有権者の人口構成比率に応じて世代ごとの議員議席数を分配する「世代間選挙区」などというお話も出ますが、それらはどうも現実離れした印象を受けます。
では、どうすれば現実的かつ有権者に一番説得力のある方法で世代間格差解消の議論を提示できるのか。ここに私は関心を持っているのですが、島澤先生のお考えはいかがでしょうか。
年齢ではなく困窮度での線引きを
島澤 おっしゃる通り、経済学者は白地のカンバスに絵を描くようなとこがありますね。世代間格差解消の手段として未成年者にも投票権を与えるとか、平均余命に応じて世代ごとに議席数を分配する余命投票制など、投票制度の改革を提案しますが、政治的にはなかなか通らないところがあります。
そもそも、民主主義において有権者が自分の利益を第一に考えた投票行動をすることは当然のことなので、私は投票制度を変えたとしても、世代間格差は解消しないと思っています。そこではなく、受益と負担の関係を変えるべきだと思います。つまり、受益される人と負担する人の区別は年齢を基準にするのではなく、持っているか持っていないか、困窮度に応じて線引きするように変える必要がある。これが世代間格差解消の第一歩につながると考えます。「高齢世代は悪で現役世代は善」のような善悪二元論で社会を見ていては政治が進みません。社会保障制度は時代に合った物差し、そして制度に改革していく必要があると思います。
ただ、現行制度を変える時に問題になるのが、すでに高齢になって収入を得る手段を失った方々をどう支えるのかです。突然街中に放り投げるということはあってはならないので、ある程度の高齢の方々は急に支給を打ち切るのではなく、今の仕組みで守っていく必要があると思います。
具体的には、現在約250兆円ある年金積立金の活用です。積立金を活用し、基礎年金で最低限の生活を保障しながら、新しい年金制度に舵を切っていきます。この基礎年金を一段階目として、これは税金で保証する。さらに、資産を形成できる人は、二段階目として自分で積み立てを始めていただきます。NISAやiDeCoを政府が勧めるのは、この二段階方式の方向性での制度改革が今後進んでいくからでしょう。この税金と資産の二段階に舵を切っていけば、現行制度を廃止しても、そこまで大きな混乱は起きずに社会が回っていくのであろうと考えます。
しかしながら、このような改革が行われると、「現役世代が今まで払った厚生年金はどうするのか」という議論が必ず出てくるでしょう。ただ、少子化、高齢化が進行するなかで社会保障や財政などの改革を進めようとする時、損をする人が生まれてしまうのは不可避で、仕方がないことでもあります。私としては、そこは現役世代が損を引き受けてこれからの日本を支える将来世代への「捨て石」になればいいのではないかと思っています。ただ、そこまで割り切れない人がいるのも現実ですし、そういう気持ちも十分理解もできます。
待鳥 このあたりは本当に難しいところですよね。やはり、高齢世代対現役世代という構図に陥りがちですが、結局は将来世代との関係で考えていくのが大事なポイントだと思います。
島澤先生のお話にもあった、「持っているか持っていないかでの線引き」に関して言うと、最近は潤沢な資産を持った高齢者が、特に都市部で多いように思います。むしろ、高齢世代が現役世代に支援をしている家庭が一定数いるようにも見受けられます。余裕のある暮らしをしている現役世代の中には、いわゆる「実家が太い」という方が多くいるということです。
これは、所得や消費に比べて資産への課税が弱いという日本の課税形態に一因があるように思います。ここは変化の余地がありますし、上手くやれば世代内再分配の原資として活用できる可能性があるのではないかと思います。
保険料の支払い開始を遅くして負担を軽減
待鳥 もう一点、島澤先生の記事を拝読して印象に残っているのが、「1961年時点で年金支給対象の高齢者に当たる65歳以上の人は人口の5・8%を占めていて、この5・8%を現代の人口に当てはめると今の85歳以上に該当する」とお書きになっていたことに、非常に驚きました。そうなると、高齢者の定義を85歳として、支給開始年齢を引き上げることも理論上はおかしくないというわけですよね。
この年金支給開始年齢の高年齢化は、世界的にも見られる動きです。例えば、2023年にはフランスで支給開始年齢が62歳から64歳へ引き上げる改革法案が出され、大きな反対デモが起こりました。このような世界の流れを見ていると、日本も支給開始年齢を遅らせるという案が必ず出てくると思うのですが、当然反発が起きることも予想されます。
仮に、現在の支給開始年齢である65歳を70歳まで後ろ倒しにするとなったら、「あと5年も働かすのか」と言った声は出るでしょう。ここには少し矛盾した感覚があって、「まだ働けるのなら働きたいけど、年金がない生活はキツイ」ということです。大卒の場合、22歳で社会に出て40年以上働いたのに、まだ一息付けないのかという感覚ですね。
島澤 今の日本では依然として新卒一括採用の枠組みが残っていますし、新卒で入った職をずっと続けてきた人が一定数いるので、支給開始が遅くなることに抵抗感があるかもしれませんね。
待鳥 そこで素人案ですが、若者が社会に出て保険料を払い始める年齢を後ろ倒しすることで、支給開始年齢を遅くさせるというのも、一つ考えられるのではないでしょうか。要は、これまでは現役世代を22歳から65歳を一区切りとしていましたが、27歳から70歳という区切りに変えるのです。
今の日本では卒業してからすぐ就職しないのはおかしいという雰囲気がありますが、27歳ごろまで自由に過ごす期間とします。その間は年金的な発想が必要で、先ほど島澤先生からお話のあった年金の一階部分を税金で賄うように、最低限の生活費を公費によって賄う必要があるかもしれません。しかし、現在は若者人口が減っていることもあって、総費用は下がるのではないでしょうか。現役世代でいる年数は約40年間のまま、「27歳から70歳」という区切りに後ろ倒しにすることで、結果的に支給開始時期を遅らせるという考えです。
私だけが思っているのかもしれませんが、今の若者世代には「卒業したら早く社会に出て稼ぎたい」という姿勢が、そこまで強く感じられない印象はあります。だとすれば、20代には自由な時間を確保してもらい、遅いスタートでも問題ないのかもしれません。
と言うのも、今の20代は忙しすぎるんですよね。これは少子化問題にもつながってきますが、仕事をしながら家庭を築いたりするには、時間的にも体力的にもかなり難しい状態に置かれている20代の方が珍しくないように思います。そのため、20代では時間的に余裕を持って、30代になってからしっかり働く。その代わり70歳まで働き、年金支給時期を後ろにずらすというわけです。このような逆転の発想はできないでしょうか?
島澤 高齢者と定義する年齢をあげるという考えはすでにありますが、社会に参入する年齢を遅らせることはあまり考えたことがなかったので、すごく斬新で興味深いなと思いました。20代の人たちに最低限の生活費を支給するのは、要は若者向けベーシックインカムということですよね。そうなると、20代で支給された分は、定職に就いた後働いて自分で返せばいいわけですから、財政的にも帳尻が合い、中立が保たれるだろうと思いました。ただ、お金の面では上手く回っていくのかと思いますが、貴重な労働力がなくなる点に若干心配が残ります。
待鳥 難しい部分があることはよくわかります。労働力の話で言うと、私たちは20代の能力を高く評価しすぎている節もあるのではないでしょうか。企業は、体力と潜在能力を買って採用し、20代のうちに仕事を覚えてもらい、30代で戦力になってもらうことを期待して新卒一括採用をしています。その気持ちも理解はできますが、だからと言って絶対に20代であるべきというわけでもない。30代からでも十分間に合うはずです。実際、新卒一括採用した人の相当数は30代になる前に辞めていて、20代で仕事を覚えてもらうという感覚自体が現実に合致しなくなりつつあるのかもしれません。
世界に目を向けて見ると、ヨーロッパの国は20代の若者が日本よりのんびりしている印象を持ちます。大学の学費が無償の国もあるので、大学生や大学院生でも年齢の幅が広く、「何歳なんだ?」という人がゴロゴロいます。このような社会も、日本の在り方として一つ考えられるのではと思います。
島澤 そうですね。欧米のほとんどの大学院博士課程では授業料が免除されますし、給料が出るところがほとんどです。そういうシステムを日本でも構築するのも一つ有効ですね。
待鳥 年齢に対する社会的通念は変わっていくものです。かつては10歳から家庭の労働力としてカウントされていましたが、現代でそれをやったら児童労働になってしまうように、時代によって年齢への考え方は可変的です。それなら大胆に現役世代の定義を変えても、社会に受け入れられる可能性があるのかなとも思います。
むしろ、ここまで根本的な変化を生み出さないと、明るい話として高齢化に対する財政政策をどうするのかの議論が進まないと思うのです。そして、こういった策を政治的に受け入れ可能なかたちでパッケージングできる政党や政治勢力がいると、もしかしたら多くの支持を集めるかもしれません。
国民の期待と自民党の方向性がマッチしなかった総裁選
待鳥 先ほど少しお話も出てきたように、今年の選挙では経済が明示的にも潜在的にも争点になりました。
まず、自民党総裁選から振り返ってみましょう。石破さんの総裁選出は、「地方票を固めたこと」が理由だと言われていて、これは自民党としては非常に理にかなった選択だと思います。他方で、総裁選の決選投票に残った石破さんと高市さんは、それぞれ異なった意味で伝統的な支持基盤を持つ方でした。石破さんは農村部、高市さんは保守系の高齢者です。裏を返せば、現役世代や若い層を積極的に総裁にするという機運は乏しかった。これは、自民党支持者にとっては非常に心地の良いものだったのでしょうが、日本の平均的な有権者が自民党に向けた期待とはマッチしていない感じがしました。この点に対する国民の答えがはっきりと表れたのが、衆院選の与党過半数割れだったように思います。
衆院選でも、争点としての経済の復活が印象に残りました。これは日本だけでなく世界的にも見られる潮流です。環境問題、ジェンダー格差など、比較的新しく出てきた問題の方向性がおおむね定まった今、最近のインフレなどもあり、多くの人が「もう一度経済争点を重視して欲しい」と考える雰囲気が世界的に高まっているように思います。日本の場合には、それが世代間の争点というかたちを取ったわけですが、自民党はそこの感度が弱かったと言わざるを得ません。ここをすくい上げたのが国民民主党なのでしょう。
高齢者に悪く言えない日本政治
島澤 似たようなところで言うと、選挙期間中には当時の公明党代表であった石井氏が、物価高対策として「低所得世帯の10万円給付案」を突然公約に盛り込みましたが、これは現役世代の支持を集めませんでした。
結局のところ資産の把握が弱い日本のシステムでは、「資産はあるけど年金収入が低い高齢者」のような方も住民税が非課税となる低所得世帯に含まれるので、低所得者の75%が高齢者となります。これでは現に生活が厳しい現役世帯から「またかよ」という感想が出るのは当然でしょう。このように高齢者世帯へのバラマキに対する拒否感が高まってきている中では、ピンポイントに現役世代への政策を掲げた国民民主党が支持されたのだと思います。
しかしながら、国民民主党の公約には、「はたしてこれは現役世代向けの政策と言えるのか」と思う節もあります。手取り増を掲げる一方で、富裕層の資産課税強化や、教育無償化のために財政法を改正して教育国債の設立を公約として掲げました。しかし、これが「現役世代向けの政策」なのかは、疑問が残ります。教育国債については将来世代に負担を押し付けているにすぎません。結局のところ、どこが負担をするのかという話はありますが、その歳出の財源をどうするのかという議論が抜け落ちているのです。
また、国民民主党は高齢者に手厚い社会保障給付の問題については一切触れませんでした。他方で、日本維新の会も同じような社会保障会改革を掲げていましたが、「高齢者の負担を増やして、現役世代の負担を軽くする」という打ち出し方をしました。ある意味、馬鹿正直に真正面から攻めすぎたので、高齢者からの支持を得られなかったのか、結果的に維新は議席数を減らしました。国民民主党はそこを上手くかわして、現役世代の手取り増加にだけフォーカスした戦略を打ち出したことが、勝因だったのだろうと考えます。
やはり今回の選挙で再認識したのが、日本の政治は高齢者に対して悪く言えないということです。しかし、現在の経済状況を鑑みると、世界的なインフレが金利の引き上げを招く中、これまでのように財政赤字で世代間の対立を取り繕うことが不可能になっていきます。現制度では限界があるため改革は必須です。今ある税収でどうにか再分配する必要があるため、本当の意味で政治の腕の見せ所と言えますが、それができる政党や政治家は見当たりません。本当は野党がここで出てきて票を獲得できるチャンスでもありますが、高齢者層に配慮しているのか上手くいっていないのが現状です。
責任の所在が曖昧になる連立政権
待鳥 改革を阻害する要因が非常に複雑に絡み合っていますよね。まさに、シルバー民主主義という表現がよく当てはまる局面なのかもしれません。人口が多い高齢者層に負担の話を受け入れてもらうことは簡単ではありませんが、負担の話は避けては通れません。
負担の話が避けられがちなのは、現在の日本の政治制度が生み出す連立政権にも原因があると考えます。一般的に言って、連立政権では各政党の合意が重なる範囲でしか政策は決まりません。与党の中で政策を固めていくとき、連立パートナーの政党が納得していないものを無理やり押し進めることは不可能です。なぜなら相手は連立からの離脱というカードを持っているからです。
自民党の場合も同様で、連立パートナーである公明党が受け入れてくれる範囲でしか政策を決められませんし、自民党自体の支持層の関係もあって、どうしても負担の話はしにくいわけです。今後は国民民主党との関係でも同じ状況になると考えられますが、国民民主党は連立パートナーですらないので、いっそう合意のコストは高まります。やはり、負担の話をするためには、与野党にまたがる超党派合意でなければ、単独政権で引き受けないと難しいと思います。
島澤 連立政権の弱さが出ていますね。
待鳥 今の国民民主党のスタンスは、「与党として責任のある立場にはならないが、自分たちの政策を取り入れてくれるのなら与党を助けても良い」との考えに基づいています。しかし、自民党からすると国民民主党の政策を受け入れないと多数派形成の見通しが立たないので、他に選択肢はありません。拒否した場合には「他の野党と組んで不信任決議案を出します」と言い出すこともあり得るので、与党側はますます要求を飲むしかなくなります。
なかには「少数与党政権になると与党単独過半数の時には出てこない熟議が起こり、国会が活性化するのではないか」という意見もありますが、すでにその兆しが見えていないように、実際には起こらないだろうと思います。国民民主党からすれば国会で議論して意向を反映させるメリットがないのです。内閣提出法案をつくる過程で与党協議に参加するという、自分たちが持っている優先的な決定権を手放すことになるわけで、そうする理由がありません。
また、内閣提出法案や予算案は、連立政党と協議を重ねて合意し、内閣法制局が緻密に審査した上で国会に提出されています。ここを変えずに、内閣提出法案を国会で修正して仕上げていくのだとしたら、あまりにも過程が増え、法制局や所轄官庁の官僚は何晩も徹夜しないといけないというような悲惨な状況になるでしょう。
「103万円の壁撤廃」のように、党として真にやる価値のある政策だと思うのなら、国民民主党はきちんと責任を負いながら与党になって実現させるべきです。現在のやり方だと、仮に何らかの政策を導入して失敗したとしても、「与党が悪かった」と言えてしまうため、やはりいささか無責任ですね。
参議院で過半数を得ないと意味がない
島澤 ここまで大きなデメリットがあるなかでも、連立政権が誕生してしまうような仕組みが現在の政治制度にあるのですね。
待鳥 連立政権になる一因は選挙制度です。衆議院は比例代表制が小選挙区制に並立されており、小政党が存続しやすくなっています。もう一つの、そしてより重要な要因は議会制度、具体的には参議院にあります。
憲法上、衆議院で可決されて参議院で否決された場合であっても、再度衆議院で3分の2の賛成を得れば、参議院の否決を覆すことが可能です。しかし、一つの政党が衆議院で3分の2を占めることはほぼ不可能ですので、結果的に参議院が非常に強い拒否権を持つことになるのです。つまり、参議院での少数与党を避けるために連立するわけですね。こうなると、衆議院で過半数に達しても、参議院で過半数を持たない限り、その多数派はかりそめでしかないということになります。
参議院の選挙制度は小選挙区・中選挙区からなる選挙区と比例代表区の並立制ですが、一人区と通称される小選挙区は約50人のみで、残りの約200人は中選挙区と比例代表によって選出されます。この仕組みだと小さな政党も議席を確保しやすいので、おのずと多党制になってしまいます。参議院での多数派形成には、連立を選択せざるを得ないわけですね。だから、自公はこれまで連立を組んできたのです。
島澤 そうですね。連立政権になると背後にいる利害関係団体が複数いるので、負担の話のような痛みを伴う改革は難しいと感じています。やはり、デメリットはもちろんありますが、果敢にスピーディーに物事を決定することにおいては、二大政党制がよいのではないでしょうか。さらに言うと比例代表制は廃止して小選挙区で民意を拡大して議席に反映させていく必要があります。当然、小政党からは反対があると思いますが、今のような連立政権しかり背後に多くの利害関係団体が存在すると、それらの利害調整をするだけで手いっぱいになってしまう。そうではなく大きいところだけですり合わせて、一丸となって政策を進めていかないと、政治であれ、社会保障であれ改革は進まないと思います。
根強く残る改革への失望感
島澤 改革がしにくい選挙制度であることは理解できましたが、政治家個人として改革を掲げる方は出てこないのでしょうか?
待鳥 個人として改革の必要性を感じている政治家が1人もいないとは思いませんが、結局のところ票にはつながらないので、わざわざ行動に移す方がいないのでしょう。「票になること」が政治家にとって最大の動機なので、たとえ改革のアイデアを持っている人がいても、コストを払ってまでそれを掲げることはないのです。
島澤 しかし、過去を振り返ると、1990年代から2000年代は日本には、改革を押し進めた時期がありましたね。
待鳥 そうですね。当時は改革という言葉への評価が高く、小泉純一郎氏やかつての民主党も改革をプラスのシンボルとして使っていました。しかし、今では維新が一応改革を旗印にしていますが、議席比率で見ると15%程度にしか伸びていないことからもわかるように、今の有権者の広く強い関心を集めているとは言い難いですね。
その背景には、過去の改革への失望感があるのかもしれません。結局は大して結果が出ず、改革を経てもより良い社会にはなっていないと感じている人が多い。また、改革とは名ばかりで、結局は自分たちにとって触れてほしくないところはそのままで、都合のいいところだけ変えてきたという印象が残っているのかもしれません。
特に、現在の50代以上の中高年層は、90年代から始まった改革のプロセスを有権者として見てきた世代ですが、結果的に「悪夢の民主党政権」という言葉が生まれるほど、良いイメージが乏しい。もともと、民主党政権を改革のシンボルと捉えて期待をしていた人は多くいました。ところが、結局何も生み出さないどころか、いろいろな混乱を引き起こした挙げ句に、自壊して消えて行ったと評価する人は今となっては少なくありません。この記憶が鮮明に残る40代以上の人々は改革シンボルを高く評価しにくい傾向にあるのだろうと思います。
加えて、ここにも社会が高齢化している悪影響が出ていると思うのが、歳を取ると現状を変化させることに億劫になる傾向があることです。高齢者が多い日本社会では、大規模改革はめんどうだから小改善でいいだろうというような、改革に消極的な空気が社会全体に広がっているように思います。
こういった事情も相まって、有権者が改革を望み、それに乗っかる政治勢力が大きくなることは、現状では想像しにくいと感じています。
島澤 最近だと裏金問題で世論が沸騰した時に改革という言葉を度々耳にしましたが、結局のところ小さい話で終わってしまって、抜本的な解決にはつながりませんでした。改革を求める機運が今の日本にはないのでしょう。
待鳥 政治資金に関する今回の「改革」は、有権者の目につくかたちで政治とカネの問題が出てきたから、皆が怒っているところだけ変えたまでという感が強いですね。対症療法もいいところで、これを「改革」と呼ぶのはさすがに無理があると思います。
財政赤字出し放題のツケが今まわって来た
島澤 政治制度の改革についてお話してきましたが、社会保障や経済でも、改革と呼べるものは長い間生まれてきませんでした。そう遠くない将来、出生数の減少によって社会保障費の財源の確保が困難になることは紛れもない事実にも関わらず、5年に1度の財政検証で何となく現行の制度が延長され、小手先の手直ししか行われていません。
待鳥 財政の面で改革が先送りにされてきた背景には何があるのでしょうか?
島澤 改革がなされなかったというよりも、「改革をしなくても済んだのはなぜか」と言ったほうがいいかもしれません。その最大の理由は財政赤字が出し放題だったことにあると考えます。社会保障制度を支える層が減少し赤字が増え続けても、国債を日銀に買ってもらえば財源は工面できたので、特に大きな改革がなくてもやってこれたというわけです。アベノミクスや日銀の国債の買い進めもなども、「いかに財政再建をしなくてもいいか」という仕組みづくりの一環でした。
しかし、近年は日銀の金融政策の変更によって「金利のある世界」へと変わりつつあり、財政赤字が出しにくい状況になっているので、財源への議論が厳しくなってきています。例えば、少子化対策や103万円の壁撤廃でも財源の問題が強く言われ出しています。財源を工面できないのなら改革が必要だという雰囲気に持っていくのも一つの策なのかなと思います。
日銀の金融政策正常化という市場の圧力によって、今は約1300兆円の国債があるため金利が上がっていくと予算が組めなくなります。そうなると何かしらの改革圧力が働くのではないかと思うのです。赤字国債をいかに発行できないようにしていくかが、一つ方法としてあるのではと考えます。
待鳥 経済学の素人ながら、「やはり原因はそこにあったのか」という感じがしますね。ただ、非常に難しい方法だとも思います。「これ以上国債を出さない」と市場からメッセージを出すのは、ハードランディング路線になりかねません。かなりの混乱があちこちに生じる可能性が高いと思います。できれば避けたいが、それくらいしか策が残っていないということなのでしょうか……。
島澤 イギリスのトラス元首相が大幅減税を掲げましたが、猛反対ゆえに市場の原理が働き、結果辞職に追い込まれました。しかし、日本ではそれができなくなっているのが現状です。待鳥先生のおっしゃる通りで、いま急激に金利が上がるとあっという間にあらゆる機能が停止してしまうとは思いますが、それを避けるためにまずはインフレ率を2%~3%に維持して税収を増やしていく。そこで財政が少し好転し始めたら金利を上げるという流れが理想的です。ただ、とてつもなく狭い道を通っていくことには変わりません。
一つ言えるのが、名目GDP比200%以上の債務を抱え、経済成長率が平均約1%の日本が、簡単な経済運営で済むわけがないのです。すべてアベノミクスだけに原因があるとは言いませんが、そのような経済運営を10年近く続けてきたことは事実で、そのツケが今です。ここを上手く切り抜けないと大変なことになるでしょう。
待鳥 当初、アベノミクス第三の矢は「構造改革」でしたが、そこは手つかずに終わった印象ですね。第三の矢を進めるには政治的コストが高いと判断があったのでしょうが、10年間もそれで進めたのが適切だったかどうか判断が難しいところです。
なぜ財政楽観論が生まれるのか?
待鳥 あわせて少し疑問に思うのが、今の財政状況であっても「日本はこのままでも大丈夫だ」と楽観的な主張を繰り広げる経済学者、エコノミストの方もいらっしゃいますよね。おそらく経済学的には非常に異端なのだと思いますが、「国債はほとんど日本国民で持っているんだから、それは日本国内で誰のところにお金があるかの問題に過ぎない。つまり国債は財布を1階に置いているか2階に置いているかの差でしかない」といった議論を展開しています。なぜ経済学にはこのような方が出てくるのが、素直に疑問に感じています。
島澤 経済学者は10人いたら11個の政策提言があると言われる世界なので、様々な説を持った方がいるのはしょうがないことだと思います。ただ、待鳥先生が指摘されるような経済学者の方々は、実際には学会ではまともに取り扱ってもらえていませんし、正統派とは一線を画す理論だと認識されています。しかし厄介なことに、世の中には非常に好意的に受け入れられています。これは大きな問題です。
そこには、過去にとんでもない理論が出てきても、正統派の経済学者が一つひとつ反論してこなかったことに原因があるのかなと思います。丁寧に反論してきた方もいたのですが、それをしてもネットで袋叩きに遭うことが常なので、発言を控えるようになってしまったのでしょう。
もう一つは、受け手側の問題です。本当にその説に納得しているかは別として、耳に易しい話なので信じたい気持ちが生まれるのでしょう。自分たちが苦しい思いをしなくていいのであればそのほうが良いと考える人はたくさんいます。そのような楽をしたい人たちに上手く訴えかけていったのだと思います。
それらを放置していった結果、政治家すらもそれらの理論を支持する人が出てきてしまっているのが現状です。ノーコストで赤字国債を発行できる現状を放置したままで良いのなら、それに越した事はないので、政治家もそれに飛びつき、あくまでそれが世界標準の経済学であるかのように上手く宣伝していったのでしょう。
待鳥 今のお話を聞いて癌の民間療法を思い浮かべました。手術をしないで癌が治るとか、キノコを食べれば治るとか、痛い思いをしたくないから民間療法を信じる人が少なからずいますよね。ただ、医療の場合は人の生き死にと関わることですから、周りの人が止めるなどきちんとした標準治療が作用しやすいのです。ただ、これが経済だとそういう動きにはなりづらいということなんでしょうね。
島澤先生からご指摘にあったようにSNSの世界、特にXは玉石混淆というより荒野のような世界ですよね(笑)。「10個注文したはずが、ミスで100個届いてしまいました。助けてください」というような人には対してはすごく優しいのですが、それ以外はほとんどが叩き合いの世界です。特にまともな説や理論を引きずり下ろすと言いますか、悪い意味でまともなものと、とんでもないものを相対化してしまう傾向にあります。
もともと多くの人間が集まると多様な知識や経験によって優れた考えが生まれる「集合知」が形成されるのですが、むしろ現代は皆で考えたほうが悪い方向に行くという、何だかとんでもないものを見ているような感じが否めません。
島澤 おっしゃる通りですね。それこそ民間療法話で言うと病状が悪化してしまうだけかもしれませんが、経済の場合はとんでもない理論に政治家がかぶれて、経済が突然死してしまうことだけは絶対に避けなければいけません。それを回避するために財務省や役所が、現制度内の可能な範囲で手を尽くしているのです。しかし、結果ギリギリ生き延びることができているので、「それ見たことか。こんなに国債がある今でも生き延びている。今後も問題ない」と財政拡大論者の持論の強化にすら利用されてしまいます。
ただ、そういう方々は「今後はどうするのか」といった先の話はしません。もともとリフレ派の人たちは、「日銀がお金を刷らないからデフレのままなのだ。デフレを解消してインフレ率を2%にすれば財政赤字は解決する」と主張していたのですが、実際日銀がお金を刷ってもまったくインフレにはなりませんでした。そうかと思えば、「金融政策だけでは経済は動かないから、財政政策も必要だ」といった主張を始めて、どんどんとゴールポストを自分たちに都合の良いように動かしてきました。
さらに厄介なことに、このような人たちは時々の自分の主張を信じ込んでいるので、最初に主張したことは忘れてしまったのかと思うほど、今の視点でしか財政を見ていません。しかし、現実を放棄するわけにはいかないので、それらの後始末みたいなことばかりに対処しているというのが現状です。リテラシーという言葉はあまり好きではありませんが、政治家はもちろん一般の有権者もそこを少し上げていかないと、これまでは何となく切り抜けられてきましたが、今後はそうはいかないと思います。
待鳥 なかなか妙案が出てこないというのは想像がつきます。問題が難しくなればなるほど人間は簡単に答えを出そうとする習性があるとつくづく感じます。学生時代に「この問題集さえやっておけば、この教科の苦手を克服できる」という謳い文句の参考書を買って、結局効果が出ないといった経験をした人が山ほどいるように、人にはそういう傾向があるわけです。
むしろ、仮に人間がリスクを100%客観的に把握できる能力を備えていたのなら、とうの昔に滅んでいたとも思います。人類は明確なリスクが存在したとしても、まるでないかのように行動できる人たちがいたからこそ、ここまで発展できたとも言えるのではないかと考えています。そのため、リスクを一切取らないことが正解かというとそうではないので、ここは非常に難しい話です。
だからといって放置はできません。今後、これからの日本について楽な議論をしたいとか、妙案があるような顔をしたい人が、政治や言論の世界にますます出てくるでしょう。そうした議論に対してどのように抵抗力をつけていくかが非常に重要になるのだと思います。
(終)