「英国にお帰りなさい!」【君塚直隆】

B!

『公研』2024年9月号「めいん・すとりいと」

 

  二〇二四年六月下旬、天皇皇后両陛下はイギリスへの公式訪問に旅立たれた。これより四年前の二〇二〇年に、当時のエリザベス女王から正式に訪英を打診されていたが、その直後のコロナ禍の世界的な蔓延と女王ご自身の逝去により、ご訪問は延期となっていた。今回は次代のチャールズ国王からのご招待による。

 日本とイギリスの皇室・王室が本格的に友好関係を始めたのは、一五五年前の明治二(一八六九)年にまでさかのぼる。当時のヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子が来日したのがきっかけである。それはまた近代日本が迎えた初めての「国賓」でもあった。日本側は明治天皇をはじめ、元勲総出で歓待し、王子は大満足で帰国の途についた。そのわずか六年前、薩摩藩とイギリスとのあいだには生麦事件に端を発する「薩英戦争」が生じ、ヴィクトリア女王も日本など「遠くて野蛮な国」と蔑んでいた。それが次男への心温まる接遇を機に、女王はこの不思議な東洋の島国「日本」への関心を高めていく。

 明治一四(一八八一)年には、イギリス皇太子のふたりの息子たちが海軍での世界周遊の旅の途次に日本に立ち寄った。今回は天皇主催による宮中晩餐会も用意された。ふたりの叔父アルフレッドの来日を契機に、肉食も解禁され、洋食による晩餐会も可能になったのである。それから四〇年の歳月が過ぎた。大正一〇(一九二一)年、明治天皇の孫である裕仁皇太子(のちの昭和天皇)がロンドンのヴィクトリア駅に降り立った。駅にはときの国王ジョージ五世が直々に出迎えに訪れていた。四〇年前に明治天皇から大歓待を受けたあの王子である。ジョージ五世は裕仁を我が子のように歓待し、それから半世紀以上を経たのちも、昭和天皇は終生このときの様子を忘れることはなかった。

 昭和一六(一九四一)年に日英は戦争に突入した。そのちょうど一〇年後、サンフランシスコ講和条約により両国のあいだに戦後和解は成立したものの、いまだ冷たいすきま風が吹いていた。そこに手を差し伸べたのが翌一九五二年に女王に即位したエリザベス二世であった。翌年の戴冠式には当時一九歳の明仁皇太子(現上皇陛下)が招待され、日英の皇室・王室関係はここに再開された。それは昭和天皇による訪英(一九七一年)とエリザベス女王の来日(七五年)とによりひとつのピークを迎えた。

 チャールズ国王と天皇陛下の関係もこのような長い歴史のなかに位置づけられる。最初の大阪万博がおこなわれた昭和四五(一九七〇)年から続くおふたりの友好関係は、陛下がイギリスに留学され、チャールズ皇太子から釣りやバーベキューに誘われたときにさらに深まった。今回のご訪英の際にも、バッキンガム宮殿に向かう馬車のなかでも、晩餐会の席上でも、終始おふたりは歓談されていた。晩餐会での国王のスピーチは「英国にお帰りなさい!」という日本語で始められた。このおふたりのまるで兄弟のような関係はもとより、日英の一五〇年を超える友好関係を象徴するかのように、晩餐会を楽しまれる陛下の左胸にはイギリス最高位のガーター勲章の星章がキラキラと光り輝いていた。

 今後もさらに日英の皇室・王室関係が発展することを望みたいが、日本側でこれを受け継ぐ存在はどなたなのか。今年九月には新しい政権が日本に誕生する予定であるが、これまで棚上げ状態にされてきた皇位継承問題や皇室の存続問題について、この政権によってしっかりと道筋をつけてもらいたい。

関東学院大学教授

 

最新の記事はこちらから