人類学・脳科学から考える 心の病の過去と今【北中淳子】【林(高木)朗子】

B!

『公研』2024年6月号「対話」

 

うつ病、認知症、発達障害──。近年、身近になっている精神疾患。目に見えない心の病は、日本社会でどう扱われてきたのだろうか?


きたなか じゅんこ:1993年上智大学文学部心理学科卒業。95年にシカゴ大学M.A. (社会科学)、2006年マッギル大学人類学部医療社会研究学部博士課程修了。04年慶應義塾大学文学部助手、07年助教、08年に准教授、16年より現職。著書に『うつの医療人類学』、共著に『統合失調症という問い 脳と心と文化』など


はやし(たかぎ)あきこ:1999年群馬大学医学部医学科卒業。2005年同大学大学院医学系研究科修了、博士(医学)。07年ジョンズ・ホプキンズ大学博士研究員、10年東京大学 医学系研究科助教、14年同大学同研究科特任講師、16年群馬大学生体調節研究所脳病態制御分野教授などを経て、19年より現職。学術領域「マルチスケール精神病態の構成的理解」(18~22年度)の代表も務める。編著に『「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』など。


 

 

人類学・脳科学から精神疾患を研究

  精神疾患はかつてないほど身近な病になっています。精神疾患への理解が深まっているとも言えるかもしれません。しかし、身近になる一方で、多くの情報が錯綜しているようにも感じます。そこで今回は、世界・日本における精神疾患の潮流、そして私の専門である脳科学の研究という二つの視点で「心の病の過去と今」を考えていければと思っています。

 北中 よろしくお願いします。早速ですが、林先生はもともと精神科医をされていて、現在は基礎神経科学を専門とされています。この転向のきっかけはどこにあるのでしょうか?

  精神科医をしていたのは2年間だけですが、その時、現場でいろいろと思うところがあり、神経科学を志すことになりました。患者さんの心と身体がどんな状態になっているのか、何が原因でそうなってしまったのか、今もそうですが、当時は病態生理の解明が充分ではありませんでした。精神医学の方たちは一生懸命に患者さんと向き合い、研究や治療に尽力していましたが、根本的な解明がなされていない状態では充分な治療を提供することはできませんよね。そこにもどかしさを感じ、だったら根本的なメカニズムの解明という切り口で精神医学に貢献できないかと考え、基礎神経科学に転向したという経緯があります。それが2001年頃の話ですね。以来、シナプスや神経などの脳の機能から、精神疾患を理解しようと研究を進めています。なので、精神医学に貢献するという当初からの思いは今でもまったく変わっていません。

 北中先生は医療人類学がご専門で、うつ病の調査を始められたのですよね。何がきっかけだったのでしょうか?

 北中 1990年代に北米で医療人類学を勉強していたのですが、ちょうどその頃、新世代抗うつ薬が爆発的な流行を見せていたんです。当初それが不思議だなあ、と。

 林 プロザック(新世代抗うつ薬の一種)とかすごく流行っていましたね。

 北中 当時は「プロザックを飲めば幸せになれる」という言説がアメリカで広がっていて、治療目的以外でも、創造性や生産性を高める目的で多くの人が服薬していました。しかし、アメリカでの爆発的な流行とは対照的に、当時の日本ではうつ病自体、一般の人にはあまり知られていない病でした。製薬会社が抗うつ薬の日本市場の拡大をめざしたものの、日本の精神科医から「日本人はうつ病にならないから必要ない」と門前払いされたなんてこともあったそうです。日本と北米でのこの差はいったい何なのかと疑問に感じたことが出発点でした。ただ、99年頃から世界的なうつ病の流行に飲み込まれるように、日本でもうつ病が急増します。その背景には何があるのかということを、医療人類学の視点からずっと研究しています。

 林 私の理解だと医療人類学は日本ではそこまでメジャーな学問ではないように感じます。私は99年の群馬大学医学部卒業ですが、当時のカリキュラムに医療人類学は一コマもありませんでした。改めて医療人類学とはどんな学問なのでしょうか?

 北中 医療人類学は欧米では1960年代から教えられ、人類学でも大きな領域なのですが、日本では最近になって重要性がより認識されている分野と言えます。2017年に医学部のコア・カリキュラムが改定され、医療人類学や医療社会学が医学部教育に全国的に取り入れられることになりました。私の所属する慶應大学でも、毎週医学部で人類学を教えていて、さらに6年間の中で何らかのかたちで医療人類学的な視点を入れていこうという方針があります。

 林 北中先生が医療人類学の中でも、とりわけ精神医学に傾注したきっかけは何なのでしょうか?

 北中 私は大学時代には、当初心理学を勉強していたんです。そのカリキュラムの中で、精神分析(無意識下にある心を分析することで精神疾患を治療する方法)的な考え方を学んでいたのですが、クラスメイト達が徐々に自分の語り直しを初めたのが印象的でした。幼少期の母親との関係や父親との関係を分析して、今の生きづらさを過去に起因させて、自分のストーリーとして語り直すのです。

 ただ、その語りを内面化することで救われるクラスメイトもいたのですが、一方で、むしろ生きづらくなっているようにすら見える人もいました。当時の精神医学は、身体疾患のように、病に対して客観的基準や目に見える画像などで原因がはっきりと解明されていて、薬を飲めば治るという領域ではありませんでしたよね。何が真理かもわからない中で、この精神医学の言葉が救いにも呪いにもなるという点が、非常に興味深かった。その摩訶不思議さに惹かれていったのだと思います。

 

「うつ病がない国」から国民病へ

 林 ここ25年ほどで日本の精神医学は激動の変化を遂げました。北中先生は、ご著書『うつの医療人類学』で、うつ病という疾患がどのように日本に認知されてきたのかを論じられています。うつ病の認識が広まることで、社会が大きな変化を遂げたことは確かですが、それによってメリットとデメリットの両方が生じていますね。

 北中 そうですね。私は日本におけるうつ病についての調査を1997年から開始していて、先ほども少し触れましたが、当時の日本ではうつ病になる人はいないとまで言われていました。しかし、そこから一転して98年から14年間にわたって、年間の自殺者数が3万人を超え続けた時期に、日本でも流行し始めます。

 象徴的だったのが、電通社員が自殺をした91年の事件に対して、2000年に最高裁が自殺の原因が過労であったと認めた判決です。ここで初めて、うつ病はストレスが起因となる病だと社会的に認定されることになります。それ以前は遺伝的な要因や意志の弱さでうつ病は語られがちでしたが、継続した睡眠不足や過労状態が背景にあることが論じられるようになりました。

 さらに、うつ状態になると心理的な視野狭窄に陥り、会社を休む、転職するといった正常な判断ができなくなってしまいます。自分自身を追い込んだ先に衝動的に自ら命を絶つという最悪の事態になり得る病気がうつ病で、ストレス、うつ病、自殺の関係が司法の領域で立証されることになったのです。

 最高裁が判決を出す少し前、99年には職場における心理的負荷評価表が当時の労働省の下でつくられます。仕事のストレスが原因でうつ病になりかねないという考えが日本で広がりました。同時期には日本でも新世代抗うつ薬の販売が開始し、この時期にうつ病が一気に国民病になっていったのです。

 林 新世代抗うつ薬の一つであるSSRIは、日本でも製薬会社によって爆発的にアピールされましたよね。

 北中 日本でうつ病が国民病となる以前に、すでに世界的なうつ病の流行が起きていました。その流れをふり返ってみようと思います。

 第一に概念の変化です。うつ病の概念がより広義なものに転換した時期がありました。昔は精神病と呼ばれるような、かなり重篤なものだけがうつ病とされていました。それ以外の、失恋をして悲しい気持ちになることや、仕事で失敗をして気分が落ち込むなど、人生の問題とリンクするような幅広い病は、うつ病ではなく神経症の枠で考えられていたのです。ところが、1980年にアメリカの精神医学会が出したDSM-Ⅲ(精神疾患の診断・統計マニュアル。精神障害に関する国際的な診断基準の一つ)で、この二つを一緒にした、「メジャーディプレッション(大うつ病)」という概念がつくられます。これによって、これまで神経症とされていた疾患も、うつ病に含まれるようになります。

 林 これがうつ病の「医療化」の素地をつくったわけですね。

 北中 おっしゃるとおりです。ただ、概念の変化だけでうつ病の医療化が進んだわけではありません。後押しとなったのが新世代抗うつ薬の誕生です。この時期に誕生したプロザックを代表とする新世代抗うつ薬は、従来のものよりも副作用がかなり少ないと言われていました。ここに焦点を当てて製薬会社が大々的にマーケティングを打ち出し、アメリカで抗うつ薬が大流行します。治療、つまりテクノロジーの変化が概念の変化を後押しし、世界的なうつ病の医療化が進みます。

 

法人税と匹敵する精神疾患による経済的損失

 北中 うつ病の医療化が定着した少し後、次の流れとして、うつ病が経済問題として語られるようになります。2000年にWHOがDALY(障害調整生命年)という、新しい疾患の評価表を採用します。それ以前は、疾患ごとの重篤度は死亡率の高さを基準に測られていたのですが、DALYではどれだけ障害として失われた日数があったかを基準に──例えば労働者が会社に行けなくなってしまうなどで──疾患の重篤度を測ります。このDALYの指標を基に各疾患を評価したとき、社会に損害をもたらす疾患として、一位が心臓疾患、二位がうつ病とされました。

 林 この時すでにうつ病が二位にきている。すごいことですね。

 北中 そうなのです。このDALYを用いた評価によって何が起こったかと言うと、それまでは単に医療の問題であったうつ病に、経済問題という要素が加わりました。国力や生産力の問題に大きく関係してくるわけですから。精神疾患の予防や治療に投資をすることが、社会的、経済的な利益に繋がるという、経済の理論でも精神疾患が捉えられるようになったのです。

 林 確かにその通りだと思います。統合失調症、うつ病、不安障害、これらの疾患に罹患したことで生じる1年間の経済的損失が、1年間の日本の法人税とほぼ同じというデータがあります。

 北中 そこまで大きな額なのですね。それは驚きです。

 林 法人税と同じってすごい額ですよね。ましてやご本人だけではなく、家族、友人にまで影響は及びますから。

 北中 あとは職場が受ける影響も忘れてはいけません。うつ病になった労働者が休職すると、周りの人がカバーせざるを得なくなりますし、職場全体が責任を感じてしまいます。さらに、うつ病が原因で自殺に至ってしまった方にご家族やお子さんがいた場合、その方々や、特にお子さんへの影響は何十年単位で考えなくてはいけませんよね。経済問題になって、ようやく疾患がもたらす多面的な負担について皆が考え始めたのでしょう。数字で示すことで、精神疾患の重大さに気付いたのだと思います。

 

治る病気となった精神疾患

 林 うつ病の医療化を筆頭に、精神疾患へのネガティブなイメージは大きく変わったのではないでしょうか。昔、精神疾患は周りからのとてつもない偏見に晒されていました。統合失調症は「精神分裂病」、認知症は「痴呆症」という差別的な病名で呼ばれていました。しかし、それらが改められたのはご存じの通りです。こうやって、おかしなものとされていた時代から、病気や疾患として確立することで、ようやく精神疾患が学問の遡上に乗り、疾患に客観的・定量的に向き合い、エビデンスに基づいた生物学的治療を行うことが可能となりました。そう考えると2000年前後の時代は大きな変革期だったのだなと。ちょうどその時期、私は研修医をしていたのですが、大変革の時代にいるなと現場で感じていました。

 北中 ある時を境に精神疾患が治る病気になっていきましたよね。

 林 新しい時代でしたね。この背景には、精神疾患の治療薬が誕生し始めていたことが大きく関係していると思います。強迫神経症の例を挙げると、どれだけ長期間にわたって行動認知療法をしても改善しなかった症状が、SSRIの服薬を始めたらパッと治ったという人が出てきました。薬で治るということは、ある種、生物学的な病気であることの証左になります。

 北中 そうですね。アメリカで抗うつ剤が治療の主流となる以前は、精神分析的な志向性をもった精神療法が主な治療法とされていました。しかし、抗うつ剤の登場で精神分析は下火となります。

 精神分析の牙城として名高いアメリカのチェスナット・ロッジ病院で長年治療を受けていたうつ病の患者が、プロザックを飲んだら一気に治ったと主張し、病院相手に訴訟を起こし勝訴するというケースがありました。この勝訴によって精神科治療が見直され、結果的には精神分析的な精神療法が保険の適応外となったり、薬を処方しないと保険が下りないという事例も出てきました。精神疾患への治療方法が、薬などのバイオロジカルな手法に転換した時期でした。

 林 ただ、先ほど先生もおっしゃっていたように、薬物療法で解決する場合と、そうでない場合があるという事実に直面することになりますよね。

 北中 薬が効く症例と効かない症例が徐々に浮き彫りになっていきます。2000年代の抗うつ薬に対する熱狂的な崇拝に対して、2010年代の『ニューヨークタイムズ』でも、「なぜ我々は砂糖剤のようなものにあそこまで熱狂していたのだろうか」といった論争が起きています。

 抗うつ薬がバシッと効く人は、実は3割ほどだと言われています。実際に、抗うつ薬の服薬によってかえってうつ病が慢性化や遷延化することが徐々に判明していったのです。ここから抗うつ薬への崇拝的信仰は終結を迎え、治療には薬だけではなく、環境などの多面的なアプローチが必要だという流れが生まれます。

 

薬物療法が効かない人たち

 林 そうですね。おそらく、私も含めて精神医学に携わる先生たちの中には、薬などの生物学的なものでほとんどのものが解決できると考えていた時期があったのではないでしょうか。しかし、生物学的精神医学が発展するにつれて、それだけでは解決できない問題もあることが明確になっていきました。

 薬物療法が効かない人たちというのは、先ほど出てきた、昔でいう神経症と言われていた人たちが多いようです。繰り返しになりますが、操作的診断基準であるDSM-Ⅲを用いた場合、昔だったらうつ病と診断されない人も診断されるようになったのです。これによって薬を飲んでも良くならないうつ病の人が生まれてしまうのは当然のことと言えます。

 さらにやっかいなのが、そのような人をマスコミが「新型うつ病」と名付けて報道したことです。現代型うつ病とも言われています。この弊害はかなり大きいです。

 北中 おっしゃる通りですね。

 林 私は従来型のうつ病と、「新型うつ病」のようなものは、区別したほうが良いと考えています。もちろん、中にはどちらの要素も混在した方がいらっしゃいますが、基本的には、両者は別物です。従来型というのは、神経伝達物質が原因の一つである生物学的なうつ病、いわゆる内因性うつ病と言われているものです。

 なぜ、これらの区別が重要なのかというと、本当の内因性うつ病と新型うつ病を一緒くたにしてしまうと現場が混乱し、結果的に適切な治療を提供できず、治るものも治らなくなってしまうように思うからです。そもそも新型うつ病という言葉自体正しくありませんし、医学的に認められた診断名でもないです。内因性うつ病とそうでないうつ病の状態像は、治療法がまったく異なりますから。この曖昧にされがちな両者の違いは、専門家はもちろんですが、一般の方も含めて知っておくべきことだと強く思います。

 北中 うつ病が身近な疾患になった今こそ、そこのリテラシーが必要ですね。

 林 うつ病がより広義なものになったことによる弊害は他にもあります。もちろんハラスメントやストレスがうつ病の要因となることは疑いようもありませんが、うつ病の範囲が広がり、社会全体への大きな負担となっています。

 北中 企業でもうつ病は非常に問題になっていますよね。

  休職者の数もどんどん増えています。病気の人が休暇・休養を取得することは当然の権利ですし、そうであるべきなのですが、この問題をどう扱っていいのかわからず困っている企業も多いのではないでしょうか。

 

アイデンティティとしてのうつ病

 北中 林先生からうつ病が身近になったことへの弊害というお話がありましたが、ここでうつ医療化の功罪を、改めて整理してみようと思います。

 まず、誰にでもなり得る病気であるという認識が広まったことは良いことです。それまでうつ病は、意志の弱さや遺伝的要因といったことが想定されがちでしたが、脳神経科学的な要因があるという考え方が出てきて、過剰なストレスや睡眠不足がうつ病の背景にあるということが一般的に知られるようになります。それが、行政による労働改革に繋がり、例えば職場でのストレスチェックが半ば義務化となりました。あとは、気遣いしすぎると気疲れするように、それが重なり、感情を無視して働き続けることは負担になりケアが必要であるという、いわゆる「感情労働」のもたらす弊害に、労働者や企業側が気づけたことも非常に良いことだと思います。

 一方で、功罪の罪のほうは、林先生がおっしゃるように、何でもかんでもうつ病だとされてしまって、自らうつ病の診断を求めて病院にやってくる人たちが増えたことですね。

 林 2000年代に一気に増えましたね。アイデンティティとしてのうつ病と言いますか……。先ほど出てきた新型うつ病の方に多いような印象があります。

 北中 たしかに当時は、そういう風潮がありました。なんだか気分が憂鬱だし、朝のニュースでうつ病の自己診断チェックがやっていて当てはまったから、自分はうつ病だと思い込むといった状況が生まれました。そして、抗うつ薬を求めて病院に来る方も増えたのです。

 当初医師たちは、そういった人たちにも、いわゆる内因性うつ病と同じように、薬と休養による治療をしていました。しかし、従来型のうつ病でない人にそのような治療をしても効果は出ません。

 その時期にインタビューをした人の中には、服薬量がどんどん増え、うつ症状もどんどん悪化し、廃人状態になり、離婚をして生活保護を受けることになってしまった方がいました。その方は入院で薬を抜いたことでようやく回復されます。そして、正常な状態に戻ると「自分は本当にうつ病だったのか」と疑問を持つのです。

 林 うつ病と診断されている方の中には、明らかにそうではない人もいますよね。境界的な方はいますが。

 北中 メディアもそのような方々を新型うつ病と称し、無責任に報道していました。それに対してうつ病学会が反論の声明を出したことがあります。実は、このいわゆる「新型うつ病」の急増と似たようなことが、20世紀初めの日本では起きています。

 かつての日本には夏目漱石もなったとされる神経衰弱という病がありました。これは不安・抑うつ、疲労感など、うつ病に似た症状を持つ精神疾患です。この病が出始めた時は、近代化の最前線にいるエリートが罹る「過労の病」とされていましたが、それがやがて庶民も罹る病として一般化する中で、スティグマ化されていき、「人格の病」とも言われるようになりました。私はこれに関する論文を書いたのですが、精神科医の先生方もそれを読んでくださいました。そして、当時、うつ病学会から、神経衰弱のときと同じようなスティグマ化が新型うつ病でも起こり始めている、神経衰弱の轍を踏んではならないと、安易に医学的概念でもない「新型うつ病」を用いないよう呼びかける声明を出してくださったのです。

 

自己との対峙を避ける社会傾向

 林 最近よく聞くHSP(Highly Sensitive Person:感受性が強すぎるという心理学の定義)も、新型うつ病と同じ類で、医学的な疾患ではありません。

 北中 そうですね。HSPも医学的概念ではないですが、まるでそのように捉えられているところに危うさを感じます。そういったカテゴリーで自分を捉えることが救いになればいいのですが、アイデンティティ化することで、かえって不幸になっているのではと心配になります。

 林 それらに縋って、本来自分が向き合わなくてはならない問題に蓋をするのも良くない場合があります。

 やはり精神症状に対する過度の医療化もそうですが、自分と対峙することが難しい世の中になっているように感じます。例えば、人に気を遣いすぎることが原因でうつ病になってしまった方がいるとします。そのような生き方は人として正しい側面もあるかもしれませんが、そこには自分の心と他者や秩序に対するバランスの悪さという矛盾もはらんでいますよね。その矛盾に対して、「ここは無理があったからこう改善していこう」と、自分でしっかりと対峙することで、長期的に見れば生きやすくなるかもしれません。

 しかし、対峙を避けて、新型うつ病やHSPだからという思考で終始すると、成長のチャンスを逃すこともあり得ます。もちろん、常に対峙すべき、常に成長すべきという考え方も危険ですので、そのバランスも大切です。

 北中 ただ、今の社会では、「うつ病のようなので休みたい」と言う人に対して、「それは本当にうつ病なの?」と容易に問えないような難しい状況がありますよね。

 林 それは強く感じています。明確に薬物療法を中心とした医療が必要な方がいる中で、ごく少数ですがうつ病を言い訳として使っている人もいると思います。しかし、その方に対して「多分それはうつ病ではなくて、自分の生き方やこれまでの人生の矛盾としっかり対峙し、自分が乗り越えなければ前に進めないよ」と思っていてもなかなか言えることではないです。その言葉で状況が悪化したらこちらの過失にもなり得ます。そういう周りからの指摘が困難な空気が蔓延し、社会全体がどんどんと自己との対峙から逆の方向に流れて行ってしまうような気がします。

 北中 そうですね……。ただ、自己との対峙ってなかなか難しいことですよね。実は以前も、精神療法が奨励されたものの、失敗したという歴史があるんです。1950年代末に第一世代の抗うつ薬が登場した時にも、「うつ病は薬を飲めば治る」という楽観論が一時期言われました。しかし、60年代半ばになると、プロザックの流行時と同じように抗うつ薬によって症状が長引くことが問題となり、それまでは下火となっていた精神療法的な介入が試みられるようになります。精神療法とは、専門家とクライエントが対話し、自己の問題に直面化することで、根底にある(とされる)原因を解明し、解決策を見つけ出す方法です。まさに、林先生のおっしゃる自己との対峙ですね。

 しかし、うつ状態にある人にとって、自己と対峙する精神療法は非常にしんどいものがあります。問題の原因と直面できないから、うつ状態に陥っている場合もあるわけですし。また、そもそもうつ状態にある人に自己と対峙する力は残っていません。よって、それによってかえって悪化してしまう人も少なからずいました。そういった治療の失敗から、日本では過剰に洞察を求めるタイプの精神療法は、むしろうつ病には禁忌であるとまで言われるようになっていったんです。笠原嘉(精神科医)らが、「いくら精神療法的なアプローチすることが魅力的に見えたとしても、あえてそうしないことこそが逆説的ではあるが、精神療法的である」といったことを、当時論じています。

 また、ドイツの精神病理学者であるエルンスト・クレッチマーは、心理的に介入するよりも、心身全体の回復を待つことの重要さを説いています。彼は「うつ状態は水の量が一気に減った川のようなものである。川の水が普通に流れている時には見えなかったような川底の凸凹した岩や穴(つまり性格の癖やコンプレックス)が露呈した状態がうつ病なのだ」と論じています。

 これを引いて、うつ病の専門家で長年うつ病の自助グループに関わっていらした近藤喬一先生は、「精神科医からすると穴を埋めて、岩を削りスムーズな流れをつくりたくなるが、それは心の外科手術であるから一介の臨床医が試みて良いことではない」とおっしゃっていました。つまり、エネルギーさえ戻れば川は普通に流れるのだし、元気な時は穴があっても水は流れていたのだから、穴をどうにかしようとしなくても、とにかく回復を待つべきなのだと。いわゆる内因性うつ病だと確かにそうなのだろうなと思います。

 林 そうですね。まずは逃げてエネルギーを蓄えてくださいと。逃げるが勝ちともいいますから。ただ、しつこいようですが、逃げる期間が終わったら自分としっかり対峙したほうが良い効果がある方もいますね。

 

新型うつ病は社会が生んだ現象?

 北中 それは確かにそうかもしれません。ただ、それができると思えるのは、私たちのような昭和世代だからこそかなとも思います。特に今の若者は先が見えない厳しい社会で生きているので。

 精神科医の神田橋條治先生も指摘されている点ですが、高度経済成長時代にも同じような長時間労働・過労状況があったかもしれないが、当時は、現在のような過労うつ病に陥る人は少なかった。この違いの背景には何もかもが右肩あがりな当時の社会状況が関係しているのではないか、と。つまり、自分だけではなく皆が大変で、皆が苦労している。だけど、それを乗り越えるときっと報われると思える時代にはうつ病は少ないということです。希望があるからですよね。

 一方で、2000年代のように、経済格差がどんどんと開き、上手くいく人はどんどん稼いで、しかし大部分の人は取り残される。どれだけ頑張っても報われず、将来はきっと上手くいかないと感じてしまう。そういう時代には徒労感ばかり募りますし、そういった社会はうつ病を大量に生み出します。

 さらに、会社自体に余裕がなくなってしまっていて、就職しても充分な新人教育も受けられない状況で、若者はどうしていいかわからなくなっている状況があると思うんです。精神科医の神庭重信先生もおっしゃっているのですが、昔の新人は丁稚奉公のように先輩に面倒を見てもらえた。厳しく怒られもするが、何かあると守ってもらえる安心感があった。職場にそういった、新人のミスを許し、育てていこうという雰囲気がなくなり、新人なのに失敗が許されなくなる中で、いわゆる新型うつ病みたいな状況に追い込まれていく人が増えているのかもしれないです。要するに新型うつ病という現象は、社会の構造変化によって生み出された病とも言えるのではないでしょうか。

 ただ、現在では認知行動療法やマインドフルネスのように精神療法にも様々な種類がありますし、確かに(完璧主義といった)自らが鬱になりやすいような構造をつくり出してしまっている場合は、それに気づいて自分を守れるようになったほうが絶対いい。どのようなタイプの人に、どのようなタイプの病に、どのような治療の可能性があるのか、といった情報がより広く伝わるといいですね。

 また、ストレスチェックが企業でも施行されていますが、これを個人のストレスを測るだけでなく、部署や組織全体の健康度を測るために用いられたりしています。こういった方法が、個人を追いつめない方向で、環境改善のために使われるといいですよね。

 林 うつ病と言われているものにもいろいろあって、各々に対して特異的な方法があるので、そこが広く周知されないと社会の色々なところで混乱が起きてしまいます。

 私の専門である脳科学側にも混乱の原因はあると思います。現状として、内因性うつ病と、新型うつ病のようなそれ以外のものを区別する客観的バイオマーカー(疾患の有無などの指標となる項目や生体内の物質)は発見できていません。それゆえに、両者がごちゃ混ぜにされてしまう。ここは基礎科学が取り組むべき課題だと感じています。

 

脳への電気刺激でうつ症状が軽減?

 北中 実際、脳の研究分野からうつ病はどこまで解明されているのでしょうか?

 精神疾患と脳科学の関係で言うと、私が精神医学の道に入った2001年頃はゲノムや分子で何もかも解明できると信じられていた熱狂的な時代がありました。最近だと2010年以降に、自閉スペクトラム症やADHDを筆頭とする発達障害の分野で、ニューロダイバーシティという言葉をよく聞くようになりました。そもそもの脳構造自体が異なるのだから、それを互いに尊重し合おうという考えです。このように徐々に脳と神経疾患の距離は縮まっていると思うのです。

 林 まず前提として、環境因子がうつ病のトリガーになる得ることには、強いエビデンスがあるとされています。その上で、脳で何が起きているかと言うと、気分に関係する神経伝達物質の一種である、モノアミンやセロトニンの増減が、うつ症状を引き起こしているのだろうと言われています。しかし、増減が起こる原因はわかっていません。結局、うつ病患者の脳の中で起きていることは少しずつ解明されてきてはいるのですが、何が、どうして疾患を起こすかという因果関係はわかっていないのです。

 ただ、最新の脳研究から言えることは、幸せな気持ちや抑うつ的な気持ちなどの情動を制御しているのは、やはり脳活動であるらしいということです。脳の深部に電気刺激を行う治療法である、DBS(Deep Brain Stimulation:脳深部刺激療法)を活用したうつ病の研究を例にあげましょう。まず、DBSを行う前に、電極を刺して脳活動という客観的なデータを取りながら、今は幸せか、憂鬱か、イライラしているかという患者さんの主観的データを記録、比較します。そして、その大量のデータを機械学習にかけることで、脳活動というビッグデータから、どの脳活動の時は幸せなのか、そうでないのかという解析が可能になります。その分析を基にDBSを使って、幸せな気分に対応する脳活動になるようなオーダーメイドの刺激を送ります。刺激を送る部分もピンポイントかつタイミングも細かく決まっています。これをオーダーメイドDBSと呼び、実際に刺激を送ることでうつ病の症状が軽減するというものです。

 北中 対象となったのはいわゆる内因性うつ病と呼ばれるような、バイオロジカルな原因が強い方でしょうか?

 林 そうです。最低2種類の抗うつ薬を十分な期間服薬しても回復しないという条件を満たした、かなり重篤な内因性うつ病の方を対象とした実験です。

 この実験の凄いところが、二重盲検試験と言って、対被験者も試験実施および評価にあたる医師も、どのような刺激が行われているか、わからない状態で行われた点です。二重盲検試験によって、有効性・安全性評価に対する偏りの介入を避ける目的があり、信頼性が高いと言われている方法です。このような条件下の実験だと、いま脳に流している電流が幸せな気分になる刺激かそうではないかは、患者と医者の両者に伏せて行われます。DBSの機械を扱う裏方の技官だけがそれを知っていて、さらに言うと、偽の刺激を与えたら、うつ病の症状が戻ってしまったのです。刺激によってうつ症状が良くなることは、決して思い込みではないということですね。明確に脳活動が私たちの気分を左右しているわけです。これは新しい時代になったなと感じましたね。

 ただ、探索的な研究としては素晴らしいと思いますが、良い面ばかりではありません。この症例に関して言えば、脳に電極を16本も刺し、脳刺激の最適化には6カ月が必要でした。WHOによると2030年には、すべての疾患の中でうつ病が最も健康面での負担を強いる病になると言われています。非常に素晴らしい研究結果ですが、今後、うつ病の増加が予想される中で、費用や期間という問題を現実的に考えて、このオーダーメイドDBSが誰でも使える治療法になるとは思えません。何と言っても、なぜうつ病になるのかという最後の、そして最大の生物学的問いはまだ解明できていないままです。

 

目に見える脳画像で目に見えない病への共感を

 北中 脳神経科学の分野に期待しているのが、脳画像やデータを活用することで精神疾患を周りの人によりリアルに感じてもらうことができるのではないかという点です。いま認知症の調査をしているのですが、症例を見ていると明らかに脳が原因だよねと感じることが多いです。症状を中々受け入れることができなかった家族が、脳画像で脳の萎縮を示されることで、急に共感的になるということが多々あります。なので、もっと脳の分野からも言ってくれたらいいなと思っています。

  そうですね。認知症は脳画像で神経細胞死が確認できますよね。統合失調症や双極性障害にも、脳萎縮があります。

 脳画像で言うと、統合失調症の幻聴も脳画像で確認できています。ファンクショナルMRI(静止画だけでなく脳活動まで見ることができるMRI)に、患者さんに入ってもらい、幻聴の始まりと終わりにブザーを鳴らしてもらうという実験があるのですが、MRIの中で、普通の会話、複数の会話を混ぜた意味をなさない会話、機械音を聞いているときの脳活動と、何も音が流れていないときの脳活動を記録します。すると、幻聴を聞いている時も、人の声が聞こえている時と似たような脳活動を示したのです。幻聴時には、脳では本当の音が聞こえている時と類似の活動が起こっているということですね。

 北中 それ本当に重要ですよね。幻聴は気のせいではないと脳画像が示しているわけですから。精神疾患の症状は、異常な状況に対して正常な反応をしているにすぎません。ここへの理解が広がれば、疾患への共感に繋がるかもしれません。

 

シナプスから解く統合失調症の幻聴

 林 統合失調症が脳の病気であることのエビデンスですね。さらに、統合失調症の幻聴についてここまでわかると、次の問いは、なぜ本当は音が聞こえていないのに聴覚野が活動してしまっているのかです。ヒトの脳は実験には使えないので、統合失調症のモデルマウスの脳を調べます。脳は神経細胞が繋がりあってできていて、電気信号によって脳内での様々な情報のやり取りが行われています。中でも、シナプスとは神経細胞同士が連結する接点を指すものです。シナプス前部神経から放出される神経伝達物質が、シナプス後部神経の受容体に結合し、電気的な信号が伝達されることによって、脳内でさまざまな機能が実現され、私たちの感覚・思考・行動が生じるという仕組みになっています。

 ところが、統合失調症のモデルマウスはこのシナプスの伝達が通常のマウスと異なるために、神経発火(神経細胞が電気信号を発生し、それを他の神経細胞へと伝達する現象)が非常にしやすくなっていることがわかったのです。このような活動しやすい神経細胞があると、少しの神経細胞の活動のゆらぎで聴覚野の活動が促されて幻聴が聞こえるのではないかという仮説を持っています。

 通常のシナプスは、最低でも約1020個のシナプス入力が神経細胞に同時に到達しないと神経発火はしません。シナプスが同時期に協調的に入力されることが神経発火には重要であることから、これを「シナプス民主主義」と呼びます。しかし、統合失調症のマウスでは非常に強いシナプスができてしまい、2~3個のシナプス入力で神経発火が起こってしまうことが確認できました。シナプス民主主義の破綻ですね。マウスレベルではここまでわかってきています。

 さらに、そのマウスのデータを計算脳神経回路モデルに代入すると、幻聴のような脳活動が見られたのです。先ほど出てきた、幻聴時の脳をファンクショナルMRIで記録したものと同じようなものです。ここからわかることは、すべての統合失調症に当てはまるわけではありませんが、一部患者さんの病態は、シナプスと神経発火の不具合、つまりシナプス病であるということです。

 そもそも、統合失調症ではゲノムによる素因が認められています。加えて、モデルマウスでわかったようなシナプス機能の計測、シミュレーション、患者さまの死後脳、患者さまからのiPS細胞などの様々な研究を組み合わせることで、統合失調症の方の脳で何が起こっているのかが解明されつつあるのです。次の段階としては、原因に立脚した治療法の確立ですね。

 北中 やはり脳科学のようなコアの部分から精神疾患にアプローチすることは大切ですよね。前半でお話ししたように原因がコアの内因性なものと、外側の環境要因によって大きく症状が変わってしまうものの両方があると。

 ただ、人類学者として強調しておきたいのは、脳科学からのアプローチが大切なことは大前提として、環境要因によって症状が大きく変わってくるということです。認知症の方の嫉妬妄想や物盗られ妄想の例を見ていても、お薬がなくとも(もしくは極めて少量でも)、社会的サポートを入れて、家族関係を良くするだけでも、数カ月ほどで驚くほどに症状が改善されます。

 また、これは統合失調症の当事者で心理学者でもある方がおっしゃっていたのですが、幻聴が聴こえ初めてきた時に、周りの友人がそれを「気持ち悪い」「怖い」という風に扱い、医師が好奇心に溢れた反応を見せたことで、どんどん脅威的な声に変わっていったそうです。やはり、周りが病をどう眼差し、ご本人をどう扱うかによって、症状も劇的に変わります。これは希望でもあると思うのです。

 林 おっしゃる通りです。それこそ北中先生がおっしゃるように環境調整、そして医療的介入の二つがあるべきだと私は思います。今回、北中先生と対談したいと思った理由は、各々の専門性は違いますが根本的には同じような問題意識を持っていると感じていたからです。私のような神経科学者は何が起こっているのかをシナプス、分子、細胞のレベルで解析を進めて、生物学的エビデンスをつくる。一方で、先生のような社会学的な見地から当事者にとって何が最適かを分析していく。この両輪が必要だと思うのです。どちらか一方が欠けてしまったら前には進めませんよね。分野をまたいで行ったり来たりしながら、両方の知見も深めていくことが最適ではないでしょうか。

 自閉スペクトラム症の事例で、両輪の大切さを実感しました。私のラボは統合失調症がメインのラボなのですが、最近は自閉スペクトラム症の研究も進めています。自閉スペクトラム症は遺伝的素因も多いと言われている疾患です。そして関連遺伝子多型を模したモデルマウスを見てみると特徴的な脳活動が見られ、この活動と疾患関連行動との相関があることもわかりました。脳活動が自閉スペクトラム症の特徴と深く関係しているということです。脳活動は感覚と強く関係しているので、感覚過敏を特性として持つことが多い自閉スペクトラム症の方の脳活動研究はとても重要です。

 嗅覚以外のあらゆる感覚はすべて脳の視床に入り、大脳皮質や前頭葉へ送られていくのですが、自閉スペクトラム症のモデルマウスだと視床のフィルター機能に少し不具合があり、それが原因で症状が引き起こされるということもわかってきたのです。つまり、脳の中で感覚が過剰に表現されているわけで、だからこそ感覚過敏には環境調整が奏功するかもしれないという仮説を支持する発見です。このようなエビデンスを蓄積することは、論拠のある効果的な環境調整にも繋がるのではないでしょうか。そういう意味でも様々な分野の知見を結集させて疾患研究を進めていくことの意義は大きいと思います。

 北中 1970年頃まで自閉スペクトラム症は、母親の子どもへの冷淡な態度が原因であるという、精神分析的な理論が根強く残っていましたよね。そういう意味でも、自閉スペクトラム症にとって、林先生がおっしゃるような脳科学からの提言はとても大事ですね。

 林 「冷蔵庫マザー理論」と呼ばれていましたね。当事者やその家族を追い詰めるひどい誤謬です。

 北中 この理論に反するように、アメリカでは、自閉スペクトラム症の親たちが自分たちで基金を起こし、当事者家族の膨大なゲノム情報を寄付し、助成金を若い研究者に出しながら遺伝子研究を進めたという歴史があります。だから、脳科学の発見や脳科学の言葉が当事者にとっても救いとなりますし、自分を語る手段にもなり得るのです。バイオロジーの研究が、以前は遺伝として語られていたような「呪い」ではなくて「救い」として当事者に受け容れられつつあるというのが重要な変化だと思うのです。

 ただ、一つ先生にお聞きしたかったのが、脳科学の知見が見せてくれるものは「脳とはダイナミックかつ可塑性なものである」ということであって、それは当事者にも希望を与え得るものであるはずですよね? にもかかわらず、一般には、脳の病というと「自分ではコントロールできないもの」という偏見が根強く残っているように思います。このよくわからないもの、どこかおどろおどろしいものという脳のイメージを、科学的解明が可能なものに変えることはできるのでしょうか。

 林 それは分子、シナプス、細胞、回路のレベルでの全解明しかないですかね。

 北中 林先生は先ほど出てきた「シナプスの民主主義」のようなお話をされたりしていますよね。そういうイメージを流布することが、一般の人の脳の複雑さと可塑性への理解に繋がるのではないかと考えています。

 林 そうだと思います。やはり神経生物学の言葉で説明する。これは私のライフワークだと思っています。生物学的エビデンスに立脚した治療法を精神疾患で確立できたら、それはいわゆる癌のような病と同じと言えます。そうすればもうスティグマはなくなります。一時的にそういう状態に陥っても適切な治療で治る可能性が出てきたわけですから。少し先になってしまうかもしれませんが、そこをめざして研究は続けていきたいですね。

 

当事者・脳科学・臨床医の連係を

 北中 最後に林先生にお願いしたい点として、無論、バイオロジカルな視点からどんどん精神疾患を解明していただきたいなと思っているのですが、他方で、基礎研究側と当事者研究側が、もっと連携し架橋される状況が生まれると理想的だなと感じています。実際、イギリス等でも、精神障害に対してまだ根本的な原因が解明されていないのなら、従来の精神医学で語られてきた領域を超えて心や脳の病には何が効くのかを、いろいろな可能性を含めて洗い直してみようという動きが広まっています。

 例えば、友人との会話や森林浴などの精神疾患への効果です。それを試みているのが、当事者自身で実験的な方法を用いて解明を試みる当事者研究だと思います。当事者研究では、「友達との会話が治療的である」というような単なる印象、語り、ナラティヴとされてきたものを超えて、そこにエビデンスを見つけ出そうとしているのです。そういった動きに林先生のような脳科学者としての知見が加わるような場があり、当事者、脳科学、臨床医の三つ巴でやっていけたらいいなと感じています。

 林 おっしゃる通りです。それはPPI(Patient and Public Involvement:研究への患者・市民参画)と言うのでしょうかね。PPIは最近注目を集めていますよね。アメリカではPPIの要素がないと助成金の獲得が難しくなっているそうです。当事者研究に、精神科・神経科学・統計学・機械学習などの情報系の人が入ることで、精神疾患が新しい時代に突入することを期待しています。

 北中 そうですね。医療人類学も、臨床家と当事者が漠然と感じている言葉に耳を傾けて、両者を架橋できる翻訳家のような役割で精神医学に貢献していけたらいいなと思っています。

(終)

 

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