デモクラシーの起源から考える【高橋源一郎】【橋場弦】

B!

『公研』2024年5月号「対話

デモクラシーの起源から考える

我々は民主主義を当たり前の前提とする社会に生きている。

しかし、どれだけ民主主義のことを知っていると言えるだろうか。

デモクラシーの起源、2500年前の古代ギリシアから考える。

 


たかはし げんいちろう:1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部除籍。81年『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長篇小説賞優秀作、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。著作に『ぼくらの民主主義なんだぜ』『高橋源一郎の飛ぶ教室──はじまりのことば』『一億三千万人のための『歎異抄』』『一億三千万人のための小説教室』など多数。


はしば ゆずる:1961年札幌市生まれ。90年東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)、古代ギリシア史専攻。93年大阪外国語大学助教授、2006年東京大学助教授、07年同准教授、10年より現職。著書に『アテナイ公職者弾劾制度の研究』『民主主義の源流──古代アテネの実験』『賄賂とアテナイ民主政──美徳から犯罪へ』『古代ギリシアの民主政』など。


 

デモクラシーの翻訳は「民主主義」が適切なのか?

 高橋 今日は民主主義をテーマにお話ししていきたいと思います。この問題は、専門家だけに留めておくのはもったいないと思うんです。プロでなくても参加できるのはいいところで、逆に僕のような素人が専門家に積極的に聞くことが大事ではないかと考えて、今日はあえて出て参りました。

 僕の経験上こういうテーマは前もって話題を決めてしまわないほうがいいのですが、今日は大きく分けて民主主義の「過去」「本質」「未来」の三つの側面から橋場先生に質問していこうと思います。まず民主主義は何だったのか(過去)を確認した上で、民主主義とは何か(本質)を考えます。そして民主主義はどうあるべきなのか、未来のあるべき姿を検討するのがコースとして美しいかなと思いました。

 過去の話をする前に、一つ確認しておきたいことがあります。「民主制」という言葉を書くときに、僕は制度の「制」を使うんですよ。おそらく十人中九人は民主制と書く気がします。ところが橋場先生は、ご著作で民主政と書いていて政治の「政」を使っています。ぼくたちは何となく民主制と書いていますが、先生はあえて「民主政」と書いているのだと思います。それはなぜなのでしょうか?

 橋場 「民主制」にしても「民主政」にしても、要するにデモクラシーの翻訳ですよね。元々はギリシア語のデモクラティアに由来していて、日本では民主主義と訳されるのが一般的です。しかし、私は以前からこの訳語を不思議に感じていました。と言うのも、アリストクラシーは貴族政、モナキーは君主政と訳されていて、貴族主義とか君主主義とは言わないんです。ところがデモクラシーだけは、なぜか民主主義と訳されている。

 僕は、この問題にこだわってみることは意外と大事だと思っています。何々主義と言うと、まだ実現していないがそれをめざすべき理想が存在しているかのような印象を与えますよね。

 あるいは逆に、「それは修正主義だよ」というように、貶す場合に使われることもある。

 高橋 「主義者」と言ったりもしますが(笑)、大体いい言葉じゃないですよね。

 橋場 そうですね。昔から「僕はイズムとか言いたくないんだよ」なんて言ったりしますよね。「あるべきもの」「あってはいけないもの」のいずれであっても、実現していない状態に向かうときに主義(イズム)という言葉は使われています。

 けれども本来デモクラシーは、イズムだけが強調される言葉ではありません。「古代ギリシアのデモクラティア」と言うとき、ここにはもちろん理念も含んでいますが、それ以上に人びとの生き方の総体、「way of life」と言ったほうがしっくりくると僕は思っています。

 アリストテレスやプラトンが使っている「ポリテイア」という言葉も、似たところがあります。便宜上「国制」と訳されていますが、本当は誤訳です。この言葉には風俗、習慣、食生活などのすべてが含まれています。さらにはポリスの自然、風土や環境、もちろん法律も含まれるし、狭い意味での政治制度もここには入ります。アリストテレス学派は『アテナイ人の国制(アテナイオン・ポリテイア)』を書きましたが、アテナイに生きている人たちの生活様式の総体をポリテイアと呼んだわけです。デモクラティアは、ポリテイアの中の一つなんです。

 高橋 デモクラティアもポリテイアも簡単には訳せないわけですね。

 橋場 そうなんです。前置きが長くなりましたが、僕が「民主政」と書くのは、「制」の場合よりもそこに含まれる意味が広くなると考えたからです。どちらも同じ音ですが、「制」と書いてしまうと、憲法や法律の条文に書いてあるような制度を説明する言葉と誤解されてしまう気がしたんですね。「政(まつりごと)」という漢字は、本来は祭祀を表していますから、より人間的な印象があります。もっとも、「制」よりも「政」のほうがずっといいのかと言えば、そうでもないですけれどもね。

 高橋 他に適当な言葉がないわけですね。確かに「制」はシステムであって、モノのような印象があります。要するに、人間があまり見えてこない。それが「政」になると、人間が関わってくる。僕も民主主義という言葉は、ヘンだなと思うんですよ。だからと言って、どんな言葉がいいのかは思い浮かばない。翻訳しないでデモクラシーでいいのかなと。

 橋場 本当はそれが一番いいんでしょうけどね。

 高橋 ただ僕自身は、デモクラシーは民主主義と訳してもいいのかもしれないとも感じています。古代ギリシアでデモクラシーが発生してから2500年以上も経っていますから、現在とは意味が変わっていて当然ですよね。長く使ってきていろいろな経験をしてきましたから、我々はデモクラシーの良いところも悪いところもわかってきた。それで、誕生した頃とは違った見方をするようになってきた。そうすると、イズムのような、ある意味では理念的な要素を民主主義に求めることも少しは必要なのかなと思うようになりました。

 橋場 そうですね。よくわかります。デモクラティアはもちろんイズム(理念)も含んでいます。

 

古代ギリシアの民主政は「衆愚政」?

 高橋 それでは民主主義の「過去」について聞いていきます。橋場先生は古代ギリシアの民主主義を専門に研究されていますが、この問題をいま問いかける意味はどこにあると感じているのでしょうか。政治学でも社会学でも、歴史学はすべて過去に起きたことを扱っていますよね。自分の研究の現在的な意義などは「問わない」研究者もいるのかもしれません。けれども古代ギリシアの民主主義の場合は、研究することの現在的な意味があるような気がしています。

 橋場 私が学生だった頃、歴史を学ぶことに現代的な意義を求めたりすると、先生や先輩からは、「そういう色目を使っちゃダメだ。学問は学問として価値があるのだ」とよく言われました(笑)。もちろんそれはその通りなのですが、僕の場合はどうしても「何のためにこの学問を学んでいるのだろうか」という青臭い疑問を、頭のなかから拭い去ることできませんでした。

 実は最初は、ドイツ近代史をやっていたんです。ところが大学三年生になったときに、ドイツ人でもないのになぜドイツの歴史を勉強しているのだろうと疑問に感じるようになりました。ドイツ史の先生に相談したところ、「そんなことを言っているうちは、まだ勉強が足りない。本を貸すからとにかく勉強しなさい」とおっしゃるんですね。

 高橋 そういう疑問を持つこと自体が勉強不足だ
と(笑)。

 橋場 そうなんです。だけど、僕は自分の内側から湧いてくる「どうしてもこれを知りたい」という気持ちに素直でいたかった。

 高橋 要するに、ドイツ近代史はそういう対象ではなくなっていたわけですね。

 橋場 それで四年生になったときに、ドイツ史の先生には謝りに行って、一年間留年することを決めました。その一年間は暇でしたから、毎日映画ばかり観ていました。

 高橋 いい話だな。

 橋場 八〇年代前半の頃ですが、当時は池袋の文芸坐や銀座の並木座など、安くて何本も観られる映画館があったんです。その一年間で二〇〇本くらい観ました。そういう日々を過ごしているうちに、古代ギリシアが好きだったことを思い出したんですね。中学生のときに、子ども向けに物語風に書いた岩波少年文庫版の『ホメーロスのイーリアス物語』を読んだことがきっかけでした。それでやっぱり古代ギリシア史をやりたいと思って、古代ギリシア史の先生を訪ねたんです。

 それ以来、なぜ自分は古代ギリシアの民主政を研究したいのか、ということを意識するようになりました。内面から湧き上がってくる研究への衝動は、当然自分が生きている今の時代とどこかで関わりがあります。それを突き詰めると、僕が古代ギリシアの民主政を研究したいと思うようになったのは、当時の西洋史の学問が古代ギリシアの民主政に冷淡だったことが強く影響していたのだと思います。

 高橋 どういうことでしょう?

 橋場 日本の戦前・戦中は、皇国史観が吹き荒れましたよね。東京帝国大学の平泉澄教授はその代表格でした。それが戦争に負けたことで、新しい世の中が到来します。新しい憲法が制定されて、日本国民は平和と民主主義という新しい価値を追求することになりました。

 歴史学も大きく変わって、いわゆるマルクス主義史学(史的唯物論)が台頭することになります。日本史も東洋史も西洋史も、基本的には史的唯物論をベースにしたものが主流になりました。ところが西洋古代史は、なぜか古代ギリシアの民主政については冷淡だったんです。戦後になっても、「あれは衆愚政だ」という従来の紋切り型の理解から脱却することができなかった。これは非常に不思議なことだと僕は思います。

 高橋 テーマとしては一番浮かび上がってきそうですよね。

 橋場 そうなんです。一例を挙げるならば、戦後歴史学を代表する西洋古代史学者に、土井正興先生がいます。戦後まもなく東大の西洋史学科を出ますが、その時の卒論のテーマがアテナイ民主政のオストラキスモス、つまり陶片追放でした。土井先生がそのテーマをそのまま追究してくだされば、わが国の古代ギリシア民主政の研究はずいぶん進展したのではないかと思います。

 土井先生はいったん毎日新聞社に勤めた後、再び研究の世界に戻ってきたのですが、その後、せっかく始めたアテナイ民主政の研究を止めてしまって、今度は古代ローマの奴隷制の研究を始めます。紀元前七三年に「スパルタクスの乱」という奴隷反乱がありましたが、その研究者として有名になります。

 戦後歴史学は史的唯物論の影響力が強かったので、世の中の仕組みを、いわゆる上部構造と下部構造に分けて、下部構造(生産関係)を重視するという考え方をします。上部構造がどのようなかたちになるかは、それが民主政であれ貴族政であれ独裁政であれ、下部構造、つまり奴隷制を問題にしないと話にならない、というわけです。その傾向は、私の先生の世代になっても残っていました。

 高橋 戦後になっても、ギリシアの民主主義に対して、ポジティブなイメージが歴史学界にはなかったわけですね。

 僕は民主主義に元々関心があったわけではありませんが、2011年から朝日新聞の「論壇時評」を引き受けたことをきっかけに意識するようになりました。論壇委員会では有名な学者が六人くらい集まって、毎月一回勉強会が開かれるんです。委員には各分野の方がいらっしゃいましたが、政治の話題がやはりトップにきます。当時は安保法制の問題が盛り上がっていて、国会前ではデモが起きていました。久しぶりに「民主主義の危機」という言葉が新聞に躍るようになっていましたからね。

 この時に民主主義という言葉を書いていながら、自分は基礎的なことがわかっていないことに気が付きました。頻繁に使われている言葉であるにもかかわらず、「民主主義とは何か?」と聞かれても特に言うべきことがないことにハッとしたんですね。それでいろいろな本を読んでいるうちに橋場先生の本に辿り着いたんです。

 橋場 嬉しいですね。ありがとうございます。

 

なぜアテナイが民主主義の起源と言えるのか

 高橋 民主主義と言っても、基本的には今の話しかしないですよね。けれども民主主義を歴史的な生成物として見ると、そこにも始まりが存在しています。何事においても、起源を辿っていくことで構造や意味がわかってくることがありますよね。それでは民主主義の起源は何なのでしょうか? 世界史の教科書には古代ギリシアのポリス(都市国家)の一つアテナイで誕生したと記述されていますが、なぜアテナイが起源と言えるのか。

 当然まったくのゼロから生まれてくるはずはないので、それ以前にも似た仕組みが絶対にあったはずです。にもかかわらず、なぜアテナイが民主主義の起源と言えるのか。その根拠をお聞かせいただけますか。

 橋場 これは大問題です(笑)。専門家のあいだでも意見が分かれています。ギリシアに初めてポリスと呼ばれる都市国家ができたのは紀元前八世紀ぐらいで、それこそホメロスの時代です。どこのポリスでも最初は出生貴族による寡頭支配、つまり貴族政から始まっていて、家柄と富が圧倒的に物を言う社会でした。

 それが紀元前八世紀から紀元前七世紀にかけて、ポリス市民のあいだで揉め事が起こるようになります。一種の派閥闘争ですね。どこでも起こることですが、それによって貴族政が動揺していきます。貴族たちはそれを抑えて再び秩序を取り戻すために、各ポリスでいろいろな処方箋を試します。

 最初はそれまで貴族が独占していた、記憶だけが頼りの慣習法を成文化して、神殿の壁など誰でも見られるところにそれを刻むことから始めました。みんなが法にアクセスできて、裁判もより公平に行うことによって人びとの不満も吸収できると考えたわけです。

 高橋 成文法をつくるということですね。

 橋場 それで治まるポリスもあるんですよ。ところが、治まったらもう動きは止まってしまいます。小さいポリスは揉め事が解消されると、そのまま貴族政が維持されることが多いんです。とかく田舎というところは、門閥支配が強かったりしますよね。

 ここはよく誤解されるところです。古代ギリシアのポリスは小さな都市国家だから、みんなが集まることができた。だからこそ直接民主政ができた、という考え方をよく聞きますよね。

 高橋 そう言われていますね。

 橋場 実際は逆なんですよ。例えば、クレタ島のポリスは門閥が昔から威張っていて、成文法を取り入れるなどの処方箋を試すと、それで秩序が回復しました。そして、一種の改良された貴族政が、そのまま何百年も変わらずに続くことになりました。けれども、大きなポリスでは、いろいろな手を打ってもダメだったりします。そうなると次には僭主政(独裁政)が現れて、貴族の権力闘争を強制的に力で抑えることで秩序を回復させようとします。

 ところが、独裁政はポリスにはあまり向かないんです。初代の僭主(独裁者)が優れた人物で、民衆を可愛がって育てるというケースはよくありますが、二代目になると恐怖政治になってしまう。「ギリシアの僭主で三代続いた例はまれだ」と言われていて、暗殺されるか追放されるかのどちらかです。

 アテナイも同じ経験をするんですね。結局、独裁もダメだということになったときに出てきたのが民主政です。ではアテナイが他のポリスと何が違うのかと言えば、それは人口が桁違いに多いことです。

 高橋 そこがイメージとは違っていますよね。アテナイは小さいポリスだと勘違いされていたけど、実際はギリシアの諸国家のなかでは圧倒的に大きかった。

 橋場 巨人と小人ぐらいの差があります。普通のポリスの全人口は二〇〇〇人~三〇〇〇人くらいで、面積にしたら世田谷区くらいの規模です。それに対してアテナイは神奈川県くらいの大きさでしたから、町と県くらいの差がありました。人口は、最盛期で成年男子市民が五万~六万人です。家族や奴隷も含めると、二〇万~三〇万の人がいました。

 高橋 市民の権利がある人だけで五、六万人ですか。大都市ですね。

 橋場 しかもアテナイは商工業が盛んで、人の出入りがさかんなポリスです。基本的には農業社会ですが、食糧を自給できないので輸入する必要がありました。現在でもアテネ周辺の土地は石灰岩だらけで土も真っ赤です。穀物栽培には適さない土地なので、食糧を輸入しなければ三〇万もの人たちが暮らしていくことはできなかった。なので穀物商人たちがたくさん出入りしていました。こういう多種多様な人びとが大勢住んでいるポリスをまとめることは、容易ではありません。放っておけば各地に貴族が蟠踞・割拠するようになりますから、何とか一つに統合することは最重要課題でした。

 しかも、アテナイは戦争に弱かったんです。紀元前六世紀の末までは負けてばかりいました。

 高橋 大きいポリスなのに戦争には強くなかった。揉め事も解決できないとなると、アテナイは問題ばかりですね。

 橋場 そうなんです。いろいろな処方箋を試してみても、アテナイはうまくいかなった。そこで紀元前六世紀末に初めて導入されたのが民主政でした。代々アテナイの各集落に住んでいることが証明されれば、自由人の住民すべてに、平等な参政権が与えられることになりました。アテナイ市民は、一人一票の権利を持ったわけです。

 

【関連年表】

前650ごろ ドレロスの碑文。現存最古の

ギリシャ語による国制法碑文

406 アルギヌサイの海戦。

将軍の裁判と処刑

594/3 ソロンの改革 404 アテナイ降伏。30人政権樹立
561 ペイシストラトス、僭主となる 403 アテナイ民主政回復
510 僭主政打倒。ヒッピアス追放 399 ソクラテス裁判
508/7 クレイステネスの改革。 386 大王の和約(アンタルキダス条約)
アテナイ民主政の基礎が築かれる 378 第2回アテナイ海上同盟
506 アテナイ、スパルタなどの侵入を撃退 371 レウクトラの戦い。
490 マラトンの戦い スパルタ、覇権を失う
480 サラミスの海戦 355 アテナイ、同盟市戦争に敗北
479 プラタイアの戦い 338 カイロネイアの戦い
478 デロス同盟結成 337 コリントス同盟
462 エピアルテスの改革。

アテナイ民主政の完成

334 アレクサンドロス大王、

東方遠征開始

454 デロス同盟金庫、 322 アテナイ民主政、
アテナイに移される マケドニア占領軍により廃止される
431 ペネポネソス戦争勃発(~前404)。 318 アテナイ民主政回復
冬、ペリクレスの葬送演説 317 パレロン区のデメトリオス、
430 アテナイに疫病流行 アテナイの執政官となる(~前307)
413 シチリア遠征軍壊滅 148 マケドニア、ローマの属州となる
411 アテナイに400人政権樹立 86 スラ、アテナイを略奪

 

 

クレイステネスの改革

 高橋 ここはぜひお聞きしたいと思っていました。現代に生きる我々は、制度としての民主主義を知っています。なので「民主政が導入された」と聞くと、民主主義の仕組みもセットになって社会に入っていった状態を思い浮かべます。議会や投票があって、法律を整備して裁判所を設置するといったことですね。我々は二五〇〇年以上の民主主義の経験がありますから、それを想像できます。けれどもアテナイは起源ですから、先行する民主主義が存在しないですよね。

 橋場 その通りです。貴族が威張っているのが、デフォルトの状態でした。

 高橋 それではなぜ、アテナイではデモクラシーを実践することができたのでしょうか。いつ、どのようにして民主主義の仕組みを知ったのでしょうか。

 橋場 アテナイのデモクラシーは、紀元前五〇八年の「クレイステネスの改革」から始まったとされています。クレイステネス自身も名門貴族の出身ですが、アテナイでは貴族の親玉同士がいつまで経っても内部抗争を止めない状況が続いていました。対立が激しくなると、執政官筆頭であるアルコンという役職を選べない事態に陥ります。そういう年のことをアナルキアと呼んでいました。ちなみにこれがアナーキー(無政府状態)の語源なんですよ。

 高橋 「アルコンなし年」だから、アナーキーだったんですね。

 橋場 アルコンは一年の任期ですが、貴族政の時代は強大な権限を持っていました。貴族同士がアルコンの座をめぐって、権力闘争を繰り広げた結果アルコンを選べなかったことが、紀元前六世紀には二回あったんです。

 こうした状況を嘆いていたクレイステネスは、「こんなことをやっているからアテナイは弱いのだ」と考えて、社会改革を一挙に実行します。最初に手を付けたのは、社会編成の原理を変えることでした。それまでは伝統的な地縁・血縁を基本にした、なかなか解きほぐせないしがらみのような大きなグループがいくつもありました。それをすべていったんチャラにして、生まれや貧富に関わりなく、一人が一票の参政権を持つことにしました。いきなり民会での多数決で物事を決めるのではなくて、その準備機関として五〇〇人評議会という議会を設置しています。

 高橋 民会は「クレイステネスの改革」以前からあったんですよね?

 橋場 民会は昔からあります。ただクレイステネスは、いきなり民会などの制度から手を付けることはせずに、まずは社会の編成を変えることに先に取り組みました。

 高橋 ここは先生の本で読んでびっくりしました。それまで社会にあった様々なグループを入れ替えたんですよね。

 橋場 シャッフルするんです。

 高橋 なぜそれを思い付いたのですかね。すごい発想ですよね。

 橋場 それが不思議です。ここにはいろいろな論争があります。クレイステネスが自分の発案でいきなりこれを実行したとはとても思えませんよね。いずれにせよ相当洗練されたアイデアですから、よほど年月をかけて構想を温めてから実行したのだと思います。

 「クレイステネスの改革」で興味深いのが、これが一種の「想像の共同体」であることです。それまでおたがいに知らなかった、まったく別々の集団同士を新たに結び合わせているわけです。

 高橋 それまでは、地縁か血縁による結びつきしかなかったですよね。

 橋場 あるいはその両方ですね。それをトランプのカードをシャッフルするようにして、新しく一〇の部族をつくりました。それらの部族は、別に地縁集団でも血縁集団でもない、言ってみれば書類上で成り立つ集団です。沿岸地域、内陸地域、都市地域に住む人たちから、それぞれ一グループずつくじ引きで選んで、一つの仲間として結び付けました。

 しかしクレイステネスが巧妙だったのは、各部族に「あなた方は一人の始祖から生まれた同族である」という、フィクションの血統意識を与えたことです。アテナイの神話に登場する英雄や王様を始祖として、その名前を各部族に付けました。新部族は始祖を祀るお祭りをやったり、集会を開いたりするようになります。そして、それぞれが軍団になっていきます。

 高橋 軍隊ですね。

 橋場 そうです。役人の抽選もそれらの部族から選びます。これがフィクションの血縁集団であることは、みんなわかっているのです。

 高橋 嘘だとわかっていても、言うことを受け入れたのですか?

 橋場 第一世代は「しょせん嘘だろ」という反応を示したかもしれませんが、第二世代、第三世代になると部族内で実際に通婚しますから、五〇年くらい経つと、フィクションの設定を信じるようになるんです。

 高橋 偽史が本当の歴史になっちゃうんですね。

 橋場 そうです。興味深いのは、大改革を行ったクレイステネス自身も、自分の名前を歴史から消してしまうんですよ。

 高橋 確かにそうですよね。クレイステネスの名前はその後は出てこないですよね。

 橋場 歴史からはまったく姿を消します。その背景について研究している学者がいますが、有力な説は、「民主政をつくったのは自分だ」といった偉業にしてしまうと、それがまた彼本人の個人崇拝につながってしまうから、何か別の、虚構のシークエンスを考え出して、それを信じ込ませようとしたのではないかと。

 高橋 めっちゃ優秀じゃないですか(笑)。

 橋場 かっこいいなと思いますね。後のアテナイ人たちは、民主政をつくったのがクレイステネスであることを忘れてしまうんです。そして、それを忘れさせたのも、実は本人のしわざではないかという説があります。テセウスという神話上の王様が民主政を創設したということにして、それを記念する祭祀を始めさせたのではないかと。

 高橋 別の伝説をつくって、自分は陰に退いたというわけですね。民主主義は、制度を敷く前にそういう下地がないと、草も生えないし花も咲かないのかもしれないですね。

 

アテナイ市民は選挙をあまり信用していなかった

 橋場 クレイステネスはそうした下地つくりには一生懸命でしたが、その代わり経済関係や財産関係にはまったく手を付けなかった。彼は、農地解放や土地の再分配のようなことをやると、絶対に反動がくることを知っていたのだと思います。先例のソロンの改革では、それで揉めることになりましたからね。だから、貴族が所有する土地を取り上げたり、──貴族が代々の神官となって氏子に地元の神殿を拝ませる支配を祭祀権と言いますが──そうした宗教上の特権を奪ったりすることもなかったんです。

 高橋 下地つくりの後の、民主主義の具体的な制度としては何から始めたのですか。

 橋場 最大の改革は、やはり国の政策は民会で民衆が多数決で決めることになったことですね。実際に紀元前六世紀の末あたりから、民会決議碑文が現れるようになります。

 高橋 六〇〇〇人が集まったという有名な「プニュクスの丘」での会議はその頃にもうすでにあったのですか?

 橋場 ここは議論が分かれています。最初はアゴラだったようですが、そこから「プニュクスの丘」に移りました。それが「クレイステネスの改革」の頃だったのか、もう少し後なのかは今でも議論があります。

 市民たちは民会にやってきますが、国土が広いので、当初は大体年に一〇回くらいしか集まれません。そうすると民会の議題の準備を担当する常任執行機関がどうしても必要になります。それが、新たにつくられた五〇〇人評議会です。これは(紀元前五世紀に入ると)抽選で評議員を決めます。任期一年で、評議員に一度選ばれたらもう再任されないという決まりがありました。

 高橋 抽選というこのあまりにも有名なやり方は、どのような経緯で導入されたのでしょうか。さすがにこれもクレイステネスが導入したわけではないですよね。

 橋場 やっていないですね。クレイステネスが最初につくったときの五〇〇人評議員は、選挙で選んでいたようです。それがペルシア戦争などを経て紀元前五世紀の四八〇年代になって、初めて抽選制という仕組みが導入されるんです。選挙の仕組みについては、ギリシア人は前からよく知っているんですよ。アルコンの選任も、もとは選挙だったようです。ただ、アテナイ市民は、選挙は貴族政的な制度だと見なしていましたから、あまり信用していないんです。

 くじ引きで何かを人に割り当てるというやり方は、ホメロスの時代からギリシア人はよく知っています。昔から財産分与する場面などでも使われていました。古代ギリシアは長子相続制ではなくて均分相続制でしたから、三人の息子がいたら財産を公平に分けなくてはなりません。そのための方法として、くじ引きはよく知られていました。ただ、政治的な役職をくじ引きでやるのは、アテナイが最初でした。非常に革新的な試みだったと思います。

 高橋 そう思いますね。裁判官まで抽選で決めるのはすごいですよね。誰がどの役割を担うのかまったくわからないということを徹底してやっている。滅茶苦茶ラディカルですよね。ただ抽選自体は、以前からあったんですね。

 橋場 デモクラシーはアテナイ人にとって、社会を統合するための一つの手段です。そうしないと、いがみ合い・殺し合いを始めることになってしまいます。国がどうしても治まらなかったので、民主政が導入されたわけです。苦肉の策だったところもあるわけですが、民主政はアテナイ市民に受け入れられます。それは、民主政になってから戦争に強くなったことも大きかったと思います。

 アテナイは「クレイステネスの改革」が成立した直後、スパルタやテバイなどの国々が干渉してきて攻め込まれました。けれども見違えたように強くなって、すべて撃退してしまうんですね。その後も同じようにマラトンの合戦(紀元前四九〇年)やサラミスの海戦(紀元前四八〇年)でも戦争に勝利しています。先ほどお話しした部族軍が成功しているわけです。

 高橋 それは成功体験になりますね。民主主義だと強くなると自信を深めることになった。

 橋場 民衆も自信を深めて、別に家柄が高くなくても、抽選で選ばれた普通の人でも役人が務まることを次第に覚えていったのだと思います。

三〇人政権時代と「記憶の抹消」

 高橋 ただ、アテナイは結局スパルタに戦争で負けてしまいますよね。橋場先生の本を読んで意外に感じたのは、実はアテナイの民主政はスパルタに敗北を喫した後に最盛期を迎えたのではないかというご指摘なんです。

 ここの歴史の見方は、従来とは大きく違いますよね。これまでの歴史の通説だと、ペロポネス戦争でスパルタに敗北したことをきっかけにアテナイの民主主義も衰退していったかのような語られ方をしてきました。ペロポネス戦争に負けた後のアテナイで、民主主義が盛り上がっていく過程についてお聞かせください。

 橋場 戦争に負けた後のアテナイは、紀元前四〇四年に民主政を転覆され、三〇人政権という極端な独裁政権に移行します。ところが、これがひどい恐怖政治に陥ってしまって、半年ももたなかった。それでスパルタも次第に理解を示してくれて、その応援もあって民主政が復活することになります。

 高橋 占領国が自分たちの政治体制を押し付けるのはありそうなことですが、それをやらなかったスパルタは偉いと言えるのかもしれませんね。

 橋場 他のポリスではやっているんですよ。テバイにはやはり貴族政を押し付けようとしましたが、結局は失敗しています。実はアテナイの三〇人政権も、スパルタの国制に由来しているのではないかという説もあります。スパルタには昔から長老会という元老院みたいな機関がありますが、その定員が三〇人なんです。

 高橋 それを真似た可能性があると。

 橋場 最初はスパルタの傀儡政権でしたが、スパルタの内部事情もあって、アテナイ統治のスタンスが変わるんです。スパルタの指導者層もよく喧嘩するんですよ。権力闘争に敗れた側の指導者が去って、アテナイ民主政に理解のある人が後からやってきたわけです。

 スパルタにとっても、いつまでも他国に干渉し続けるのは難しいことでした。というのは、スパルタは国内にヘイロタイ(ヘロット)という農奴階級をたくさん抱えていました。

 高橋 国内に反乱要因があるんですね。そんなにアテナイにかまけていられない。

 橋場 そうなんです。放っておくと地元で火の手が上がるおそれがある。だから、同盟国でさえあれば、アテナイ人に好きな政治体制を選ばせようということになったのだと思います。

 アテナイ人自身にとっては、三〇人政権の時代があまりに苛烈だったので、そこには戻りたくないという気持ちが強くあったと思います。この時代には、わずか数カ月のうちに一五〇〇人の市民を引っ捕らえて殺してしまうということが起きました。殺害された人の財産を、すべて懐に入れてしまったわけです。当時アテナイ市内にいた人で、自分の親族や友人が殺されなかった人は、ほとんどいないというくらいひどい時代でした。

 ところが、それだけの殺し合いをやった寡頭派と民主派は、わずか一カ月か二カ月くらいの間に話し合いを付けて、民主政に戻ることが決まります。しかもこの時に、「記憶の抹消」ということをやるんです。

 高橋 どういうことですか?

 橋場 三〇人政権時代に起きた惨劇は、それはもう忘れたくても忘れられない恨みです。けれども、それを言い出したら絶対に和解が成り立たない。なので、その時代に起きた残虐行為は、「なかったこと」にしようと取り決めたんです。

 高橋 ルワンダ内戦では、ツチ族とフツ族が激しく対立しましたが、あそこも強制的に民族和解したんですよね。そうしないと国がもたないからと。

 橋場 アテナイの場合は、強制的に記憶をまるごとなかったことにしなければ、再び市民団が分裂してしまうことがわかっていたのだと思います。アムネスティ・インターナショナルという人権NGOがありますが、英語で大赦令のことをアムネスティと言います。これはギリシア語のアムネステイアから来た言葉です。

 高橋 アムネスティの語源は大赦令なんですか。

 橋場 「ア」はギリシア語の接頭辞で否定を意味します。ムネステイアが記憶です。

 高橋 記憶をなくすのがアムネスティなんですね。

 橋場 いつまでも覚えていたら絶対に復讐することになるので、フィクションを共有して忘れたことにしたわけです。

 高橋 アテナイの人たちは、結構フィクションをつくりますね。やはりそこは文明国ですね。

 

 

デモクラシーは政治制度ではなくway of life

 高橋 橋場先生は、アテナイの民主主義は三〇人政権の後に頂点に達したとお考えですが、その根拠をお聞かせください。

 橋場 古代アテナイの最盛期については、学者によっていろいろな意見があります。一九世紀以降から私の先生くらいまでの世代は、戦争に強かった時代をマックスと見ています。ですから最盛期はペリクレスが生きていた時代(紀元前五世紀半ば)ということになる。この時期は、同盟国の盟主として頂点に立っていました。確かにこの時代、軍事力という点で国力は最大でした。

 ところが、ペロポネソス戦争(紀元前四三一~四〇四年)の敗北で同盟国の盟主の座から転落します。同盟国も失ってしまいます。紀元前四世紀に入ってから、かつての勢いを取り戻そうとしますが、もう回復することはできなかった。昔の学説では、それをもって「アテナイは衰退した」とされてきたわけです。

 高橋 世界史の教科書では、スパルタに負けた後のことは記載されていなくて、文化の話になりますよね。

 橋場 そうなんです。そしてマケドニアが台頭してきて、アレクサンドロス大王の話になりますよね。けれどもアテナイの民主政が一番成熟したのは、やはり紀元前四世紀だと僕は考えています。史料が最も残っているのもこの時代です。

 民主政の一つの区切りになっているのが紀元前三二二年です。マケドニアに侵攻されたアテナイは、民主政をいったん廃止します。我々は、戦争に負けたアテナイの人たちが自信を失って、自分たちで民主政をやめることを決断したと勘違いしがちですが、実はそうではないんです。マケドニアの占領軍がやって来て、民主政を放棄することを強制したわけです。

 高橋 ここは日本の敗戦に似ていますね。

 橋場 ちょうど反転したかたちでそっくりですね。アテナイは戦争に負けて民主主義をやめさせられましたが、日本は戦争に負けて民主主義を受け入れることになった。

 マケドニアからすれば、民主政を放っておくとアテナイは再び反マケドニアの旗を掲げるだろう。そう考えてやめさせたわけです。けれども、アテナイ人はそれを承服できません。デモクラシーは、自分たちの祖先から受け継いだ生活様式ですから、絶対に手放したくないわけです。

 高橋 政治制度ではなくて、やはりway of lifeであると。

 橋場 生きることと肌感覚で結び付いているんですね。実際に四年後には反旗を翻して反乱を起こしますが、まもなく鎮圧されています。しかしその後も、アテナイは反乱を繰り返します。ですから、アテナイはマケドニアに負けてすぐに民主政をやめたわけではありません。アテナイ人の民主主義への思い入れはものすごく強くて、そう簡単には息の根を止められなかったわけです。

 高橋 最終的にはどうなったのですか?

 橋場 アレクサンドロス大王が亡くなると、ヘレニズム時代が到来します。この時代にポリスが衰退したと言われていますが、そうではないんですよ。ヘレニズムという時代の概念は、一九世紀のドイツの学者が勝手につくり出したもので、当事者のギリシア人たちは新しい時代に入ったとは思っていません。

 高橋 そりゃそうですよね。歴史家が勝手に区分をつくっているんですからね。

 橋場 だからポリスは存続したし、民主政もまだ生き延びています。ただしポリスが自分の考えで外交的な独立を保つことは、前よりも難しくなりました。いわゆるヘレニズム三王国──プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア──が鼎立して、アテナイはその間を泳ぎ渡っていくことになります。

 高橋 独立性はだいぶ棄損されていたとしても、だからと言って完全に占領されているわけではないんですね。

 橋場 完全に占領するのはなかなか難しいことです。本当の意味で首根っこを押さえ付けられて直轄支配されるのは、紀元前二世紀半ばにローマに征服されてからです。それまで民主政は細々と続くんですよ。それに、ローマ帝政になってからも民会は開かれていました。

 高橋 それはすごいですね。

 橋場 民会は形骸化していますが、紀元後三世紀くらいまでは民会決議碑文が残っています。ですから世界の教科書に記載されていた時期よりは、ずっと長いスパンでアテナイの民主政を捉える必要があると思っています。

 

デーモス(民衆)がクラトス(力で支配する)

 高橋 ここまで橋場先生に「民主主義の歴史(過去)」について聞いていきました。ここからは、「民主主義の本質」それから「あるべき姿(未来)」について、最近僕が気になっていることを投げ掛けていきたいと思います。

 アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーが書いた『民主主義の非西洋起源について』という結構有名になった本があります。民主主義が古代ギリシアで誕生したことを疑っているかのようなタイトルですが、よく読むとギリシア起源であることに反対しているわけじゃない。

 橋場 確かにそうですね。

 高橋 あえて挑戦的な言葉を使っているのでしょうが、グレーバーが考えたことはデモクラシーの本質に関わってくるところがあると思っています。彼の考え方では、デモクラシーとはある種のコミュニティ内で自由に意思決定をしていくことですが、問題になるのはコミュニティのサイズです。今の民主主義は、選挙や裁判といった大掛かりな仕組みを国家が関わることで維持されていますよね。けれども彼は、もっとサイズが小さいものがデモクラシーの本質なのだと言っています。そう考えると、先ほども「大きなポリスだった」という話がありましたから、アテナイは当てはまらないことになる。

 グレーバーは、西洋以外にもデモクラシーが実践されていたマイナーなコミュニティが他にもいろいろあると主張しています。例えば、海賊などもそうだと。そうした非西洋的な経緯があって、民主主義が成立していったと考えたほうがいいと言っています。

 『民主主義の非西洋起源について』にはもう一つおもしろい視点がありました。アメリカ独立革命のときに制定された憲法は、いわゆる民主主義のもとにつくられたものではない。主流派は共和制で、彼らが想定していたのはいわゆるローマの共和制であって、民主主義派はアナーキスト(無政府主義者)だったという指摘です。

 僕らはアメリカをデモクラシーの元祖みたいに思っていますが、アメリカは共和制であってローマだと彼は見ている。このことには驚きました。僕たちがデモクラシーと考えてきたものが割とあやふやなものになってきますからね。デヴィッド・グレーバーのこうした問題提起に対しては、橋場先生はどのようにお考えでしょうか?

 橋場 共感できる部分と、そうではない部分がありますね。グレーバーのような議論には、いわゆるオリエンタリズム批判やポスト・コロニアリズムの影響があって、何でも西洋起源ではダメだという態度が明確にありますよね。そういう意味では、古代ギリシアやローマは特にそういう槍玉に挙げられやすいところがある。

 高橋 西洋起源の親玉みたいなものですからね。

 橋場 そこはわからなくもない。けれども、歴史的な事実としてみたときに、民主主義の定義を無視しているところがあります。デモクラティアというギリシア語は、デーモス(民衆)がクラトス(力で支配する)という構造になっています。つまり、民衆が権力を握るということを意味しているんですね。なので、単にみんなで意思決定するだけではなくて、実際に権力を行使するわけです。古代アテナイの場合は、裁判権も民衆が持って、役人も民衆が担ったわけです。アリストテレスの有名な言葉に、民主政とは「順繰りに支配し、支配されることだ」というものがあります。あれはくじ引きのことを言っているのだと思いますが、民主政の定義とも考えることができる。

 高橋 民衆が権力を行使することが民主主義のポイントであると。

 橋場 コミュニティの規模については、とても興味深いですよね。確かに、日本にも民主主義的な小さなコミュニティがあった地域がありました。宮本常一は、西日本の村落にある寄合について書いています。戦後の農地解放の問題などでは、寄合でかなり時間をかけて話し合っている様子が紹介されています。村の寄合は、井伏鱒二の作品にもよく出てくる。

 高橋 あれも話し合いですよね。投票はしない。

 橋場 そうなんです。日本風の集団的な意思決定のあり方ですね。寄合がなければ話もまとまらなかった。しかし、農地解放をやると決めたのは、日本国民ではなくてGHQでした。寄合に集っていた人たちは、権力を行使していたわけではありません。上位権力はあくまでGHQであって自分たちではないわけです。

 古代エジプトにもメソポタミアにも寄合のような集団的な意思決定の仕組みはありましたから、それをもってヨーロッパが民主主義の起源ではないという主張はよく耳にします。

自分たちの意思決定を自分たちでやる手応えを奪われている

 高橋 みんながいろいろなところに起源があったと言い出しているわけですね。

 橋場 古代エジプト王のファラオの場合は、下々が話をまとめて来て、それに基づいて最終的な決断を下すやり方をとっていました。そのほうが統治をやり易いというのもありますが、民衆による意思決定と考える見方もあります。しかし、結局はファラオが上位権力ですから、デモクラシーと呼ぶことはできません。古代アテナイの民主政の場合は、少なくとも理念上は上位権力があってはいけないと考えていました。

 もう一つギリシア人が他の古代民族と違っていたのは、自分たちがやっているデモクラシーという政治体制が、君主政や貴族政などとは、どこがどう違うのかを意識化し概念化していたことです。プラトンやアリストテレスは民主政に批判的でしたが、それを古典に書き残しています。

 高橋 アテナイ人は言語化していますよね。

 橋場 一般の人も言語化しているんです。アテナイ民主政は、プラトンやアリストテレスのように体系的な政治理論を書き残さなかったのですが、悲劇や文学作品の中にデモクラティック・ソート(democratic thought)と呼べるような思想の断片が織り込まれていることは、最近の研究でしばしば言及されています。ですから、民衆も民衆なりに民主主義をよく自覚していたのだと思います。アケメネス朝ペルシアのように専制君主が支配している国家と、自分たちの民主政を比較して、一般民衆のレベルでもその良し悪しを自覚していたわけです。

 そこも他とは大きく異なります。そこまで捉えるのであれば、やはり民主主義の起源は古代ギリシアだったと言っても良いのではないかと僕は思います。

 高橋 僕もデヴィット・グレーバーは狡いなと思うところがあります。橋場先生がご指摘されたように、デモクラシーという言葉には、クラシー(権力)が含まれていますから、これはやはり権力の問題ですよね。グレーバーはアナーキストだから、彼がおそらく言いたかったのは、民主主義とは呼べない別の何かですよね。他に言葉がないので説明するのは難しいのですが、彼が政治の一つのシステムとして考えている自由な繋がりみたいなものですよね。それを民主主義と呼んでしまうから、おかしくなってしまう。グレーバーは、本当は別の言葉を使ったほうが良かったのかもしれないと思いました。

 橋場 そうですね。ただ、「共感できる部分もある」と言ったのは、やはりway of lifeが民主主義の本質だと思うんですよね。自分たちの意思決定を自分たちでやる手応えの喜び、それを普段我々は奪い去られています。政治を決めるのは永田町にいる人たちだけなので、いつも無力感を感じているわけです。選挙の投票日だけではなくて、もっと日常のなかにそうした手応えを感じる瞬間があってもよいだろうと思います。

 例えばマンションの管理組合でも学校のPTAでもいいのですが、よそから指図されないで、自分たちで自分たちの利害をよく話し合って決める機会を持つことですよね。そういうところから、本当の意味でのway of lifeのデモクラシーは育つのではないかと考えることもあります。

 高橋 way of lifeとしてのデモクラシーという限定を付けると、その言葉が活きてくるのではないかと思いました。デモクラシーだけだと、どうしても権力や国家などの機構の問題が第一にきてしまう。けれども、ギリシアまで遡ってみても民主主義がやはりway of lifeだったことは、重要な本質だと言えますよね。

 

ハンナ・アーレントのポリス観

 高橋 コミュニティのサイズに関しては、個人的にずっと考えていたことがもう一つあります。有名なハンナ・アーレントの『全体主義の起源』の中に、公共性というのはポリスで生きることだ、と述べている箇所があります。このニュアンスをきちんと理解するのは難しいのですが、単純化して言えば、ある意味では特権階級にある人たちが、公に生きるということを公共性だと言っているようです。特権階級というのは、アテナイの例で言えば、自由人に近いのではないかと思います。先ほどアテナイの人口は30万人くらいで、そのうち民会に参加する権利を有していた自由人は6万人ぐらいだっという話がありましたよね。そうすると全体の2割くらいですから、貴族ではないが特権的な立場にいる人たちになる。

 そしてアーレントはポリスのなかで政治的生活、法的生活を通じていろいろなことをしながら名前を売って、言葉を残して、歴史のなかで光り輝いて人生をまっとうすべきだと。それがアーレントの公共性の概念で、ポリスに生きる人間が一番やるべきことだと言っている。

 これはある意味では極論ですよね。そもそもポリスが存在していなければダメという話になっていますからね。今はポリスがないし、我々はもっと巨大な世界のなかにアトム化して生きています。代議制民主主義ですから、政治のことは人に預けることになっている。しかしアーレントは、そのすべてを「堕落なのだ」と言っている。彼女はポリス的な空間で生きる人間の公共性をある意味でものすごく理想化しています。橋場先生から見て、アーレントのポリス観はどのように感じられますか?

 橋場 ハンナ・アーレントはやはり哲学者ですから、我々歴史学者が見ているポリスとはちょっと見方が違います。これは今でもそうですよ。日本には西洋古典学会があって僕も委員をやっています。ここには哲学者・歴史学者・文学者の三者が集まるのですが、哲学者の学会報告を聞いても、ともすれば我々歴史学者には理解しがたいのです(笑)。

 高橋 話が合わないんですね。

 橋場 けれども、哲学者と話をすることは有意義ですね。同じポリスでも彼らが考えているポリスと僕が見ているポリスは、ずいぶん違っていて、ベクトルの隔たりがあることがわかります。対話することで、その違いを知ることは大事ですよね。

 僕が見ているポリスは、ハンナ・アーレントが考えたような美しいものではないですね。歴史的な事実として言えば、各市民がいきなりポリスに所属するわけではありません。まずは複数ある中小の集団に所属します。先ほどお話しした一〇部族はそれぞれ地域ごとにさらに三つに分かれます。それをさらに細かく区分すると、各集落に行き着きます。そこには「しがらみ」とも言えるような非常に濃厚な地縁、血縁の集団があります。各市民はそうした具体的な集団に所属することを通して、ポリスの市民であるという実感を肌感覚で知っていくことになります。

 さらには村落や街区などの各集落でも、マイクロ・デモクラシーをやっています。そこにも民会があって議長もいますから、ポリスの民会のミニュチュアみたいなことをやっているんですね。だからミクロコスモスとしての村があって、マクロコスモスとしてのポリスがあるという相似形になっているわけです。もちろんアーレントは、そうことは知らなかったのではないかと思うんです。

 高橋 アーレントの味方をするわけじゃないですが、哲学者は現理論と段階論を分けて考えるところがありますよね。マルクスは貨幣価値論を述べていますが、「それはどこにあるのか?」と言われても、あれは原理なので別に目に見えるものではないですよね。それと同じで、アーレントのポリスに所属して公共性を持つという理想論も一種の原理の話だと思うんですよね。

 橋場 それはよくわかります。彼女が理想としたのは、抽象的なポリスですね。

 

代議制は一種のフィクションである

 高橋 アーレントが理想としたポリスで生きることは、究極としては原理です。だからそれが不可能なことは彼女も当時からわかっていたのではないか。そう考えるとおもしろいなと思うんです。最初に「民主主義の本質」を考えたいと言いましたが、本質というのはつまりは原理の話ではないかという気がするんですよ。

 ただし民主主義はシステムでもあるので、そもそも原理とシステムを分けることができるのかという問題が出てきます。実は僕はそこに一番こだわっていて、ずっと悩んできたところなんです。

 それを説明するためには、今度は少しルソーの話をしたいと思います。教科書的に言えば、ルソーは『社会契約論』で民主主義の原理を書いたことになっています。僕はフランス語ができないので翻訳で読んでいますが、よくわからない。専門家に聞いても「僕もわからない」と言うし、解説書を読むとみんな違うことを言っている。意見が割れているので、難しいんですよ。でも民主主義の話をするのだったら、契約論がわかってないといけないと。

 橋場 そうなっちゃいますね。

 高橋 自分で納得のいく理解を今からお話します。ルソーはジュネーヴの出身です。ジュネーヴはアテナイくらいの規模の街ですから、民主主義を考える際にも実質的な規模としてはポリスは割とイメージしやすかったのではないかと思っています。ルソーの契約論で一番わからないのが、「一般意志」という概念なんです。ざっくりと言えば、まず民主主義というのは政治的なことを決めるシステムです。古代ギリシアの民主主義も決めるためのシステムですよね。そしてルソーは、どうやって決めるべきかの原理を考えた。まず人民には特殊意志があると言っています。要するに、みんながそれぞれに「オレはこうしたい」という意見があるということです。それらが集まって投票すると全体意志になる。ここまではわかります。

 ところがルソーは、それとは別ルートで一般意志というものが生まれてきて、それを決めるのがデモクラシーだとも言っています。ここで「ちょっと待ってよ」となりますよね。特殊意志と全体意志で決まれば、それで何の問題もないはずなのに、そこに一般意志が登場してくる。しかもルソーは、それを決めるのが民主主義だと言うので、みんな困ってしまう。

 よくわからないので、さらに詳しく読み進めてみました(日本語で)。そうしたら一般意志の決め方というのがあって、割と具体的に書いているんです。まず場所は、民会を想定しています。そこに参加する人たちは、情報を持っていないこと、それから党派をつくってはいけないことが前提になります。その上でみんなの意見を聞いて、原則として全員が意見を述べる。そして投票をして決まったことには、必ず従うと。そこに一般意志が表れると言っているんです。

 ですから、一般意志を決めるためには前提条件が必要になるわけです。どういうことなのか僕もいろいろ考えてみましたが、結局のところ特殊意志は党派性を帯びているわけですよね。だからこそ党派をつくらないという前提条件が大事になってくる。

 橋場 そうですね。そこがポイントだと僕も思います。

 高橋 つまり、一般意志は最初から最後まで個人として決定しなければならない。その場に一〇〇人いたら一〇〇人の話を聞く。もちろんそれでも意見を変えない人もいるでしょうが、それは仕方がない。ただ、納得するにはみんなの意志を知るしかないと。

 ルソーは、「直接民主主義以外はすべて嘘だ」「代議制は民主主義の腐敗だ」とも言っています。そういう意味では、ルソーは古代ギリシアの民主主義の中に一般意志の可能性を見ていたとも思うんです。もちろん六〇〇〇人のすべての意見を聞くことは、実際には不可能だと思いますが、橋場先生はどうお考えでしょうか?

 橋場 僕は、古代ギリシアの民主政が近代以降の人たちにどのように受容されていったのか、その変遷を考えることはとても大事だと思っています。受容史と言えるのかもしれません。昔そうした研究は、余録みたいに思われて軽視されていたところがありました。ところが、近代以降の人びとの古代ギリシアの捉え方が知らないうちに自分の意識に染み込んでいて、それが自分の考え方を縛り付けていたことに気が付くようになりました。

 アテナイの民主政で言えば、やはり「あれは衆愚政だ」という決め付けですよね。これにはやはり長い歴史があるんです。

 高橋 昔からみんなそう思っていたんですね。

 橋場 そうなんです。ジュネーヴ出身のルソーは直接民主政をよく知っているので、それにはすごく同情的で好意的です。ところが、実際のアテナイの民主政については、あまり良く言わないんですね。

 高橋 確かにそうですよね。

 橋場 ここは不思議なんですよ。ルソーはアテナイの民主政をまやかしだと見ていました。学者と弁論家、つまり専門家が牛耳る一種の寡頭政であると。いま高橋さんがおしゃったような原理で一般意志は決まってきます。しかし、それを実行するのは、神々の政体にしかできないことだとも言っている。やはりルソーはいろいろ難しいですよね。本人が言っていることも矛盾しているところがある。

 確かに我々は党派性を持っていますが、そこから自由になって判断することはできるとも思います。例えば、地域の自治会などの日常感覚レベルで考えると、この人は自分の都合だけでものを言っているのか、そうではなくて一〇年先のことまで考えているのか、というのはわかってきますよね。そういうのは、一般意志に近いのかなとも思っているんですけどね。

 高橋 僕もそう思います。ルソーが言っていることは難しいのですが、普通の言葉に翻訳してみたら案外当たり前のことなのかもしれません。つまり自分のことばかり言っていないで、もうちょっと大所高所から判断して意見を言えることですね。

 橋場 それを言える人と言えない人がいますよね。むしろそういう人物は、国会よりも市井にいるのかもしれない。

 高橋 今日は何度かコミュニティのサイズの話題が出ましたが、今の世界の大きさとデモクラシーは根本的なところで矛盾しますよね。一三〇億の人がいるなかで、社会に情報が行き交っています。こうした現代において、政治を進めていくシステムとして民主主義は、本質的な機能を発揮することができるのかという問題がどうしても出てくる。

 橋場 古代の民主政を研究している人間として、現代がどう見えるのかを考えることがあります。よく「デモクラシーとは何だと思いますか」と聞くと、「選挙に行くことです」とか「民主主義を守るためには選挙に行かなくちゃいけない」という答えが返ってきますよね。それはその通りですが、実は古代ギリシアでは選挙は胡散臭いものだと思われていたんです。

 高橋 歴史的にも大昔からそうですよね。

 橋場 だから、デモクラシー=選挙というわけでもない。デモクラシーが多数決であることも間違いではないのだけど、それだけがデモクラシーではないとも思うんですよね。

 けれども我々は、代議制という、政治を委ねる人を投票で決めるシステムのなかに生きている。これはもう仕方がないんですよ。規模が違うわけですから。

 高橋 いくらルソーに「まやかしだ」と言われようが仕方ないですよね。

 橋場 仕方がないですよね。けれども代議制が一種のフィクションであることは、自覚しておくべきだと思っています。代議士は国民の代表で、もちろん重い責任を負うことになりますが、他方で、権威と権力もその人に集中するわけです。我々はそのことをよく承知しておかなければなりません。そもそも一人の人間が他の多数の代理人を務めるということは、不可能な話です。

 高橋 代理はできないですよね。代議制は元々フィクションであるということには常に注意しなければならないと。

 橋場 もし古代アテナイの人がタイムスリップして、今の日本の国会を見たならば、極端な寡頭政だと感じるでしょうね。一億人以上も人口がいるのに、衆議院議員は四六五人ですから。「三〇人政権よりもっとひどい。よくこんなところに暮らしているな」と絶対に言うことでしょう。

民主主義の欠点を挙げようとする風潮は昔からある

 高橋 その視点はおもしろいですね。アテナイの民主主義から見たら、今の民主主義は寡頭政であると。

 橋場 もう間違いなく寡頭政に見えるでしょう。代議制自体がそう受け止められるでしょうね。なので、やはり警戒しなければならないということです。

 だからデモクラシーは選挙だけのように見えますが、本当はそれだけではないのだと思うんです。日本でも裁判員制度が始まりましたが、あれはとても大事なことだと僕は思っています。アリストテレスも、本当の意味で国が民主主義になるためには、みんなが裁判権を分けもっているのだという自覚が生じなければならない、と言っています。

 高橋 アリストテレスがめずらしく民主主義を褒めているところですよね。

 橋場 そうなんです。ここは不思議なんです。元々アリストテレスは民主主義者ではなくて、アテナイ民主政も衆愚政の一つと見なしています。彼はデモクラティアという言葉を、衆愚政とほぼ同じ意味で使っているんです。

 ところがアリストテレスは、『政治学』の第三巻でおもしろい問題を提起しています。一人のものすごく頭の良いスーパーマンみたいな人物が、独裁的な権力を握って支配するのがいいのか、それとも一人ひとりは凡庸だが、多数の人びとが話し合って統治するのがいいのか、という思考実験をやっているところがあります。

 意外にもアリストテレスは、凡庸だけど多くの人が政治に参加したほうがいいのだと結論付けています。

 高橋 それってデモクラシーですよね。

 橋場 けれども彼はデモクラシーとは言わないんですね。多数者による支配が良いと考える根拠として、次のような三つの比喩を使っています。一つ目はご馳走の喩えです。大勢の人がご馳走を食べるときに、たった一人が料理を振る舞うよりも、みんなが料理を持ち寄って食べたほうが美味しいと。

 高橋 それはそうですよね。いろいろなものが食べられる。

 橋場 「三人寄れば文殊の知恵」みたいな発想ですね。二つ目は、水の比喩です。水は少しだけの量の場合はすぐに腐敗しますが、海のように大きいと腐敗しづらいと。

 三番目の比喩は、一種の確率論です。スーパーマンのような無謬の人がいても、その人は神ではなくて人間である以上は間違いを犯す。一年に一度くらいは、頭のなかがおかしくなって間違った判断を下すこともあるだろうと。だからたった一人に無制限の権力を委ねてしまうと、重要な決断を間違うことがあると

 高橋 国全体が破滅することになる。

 橋場 それに対して、大勢の人が話し合って統治するのであれば、みんなの頭の調子が同時におかしくなる確率は、限りなくゼロに近いですよね。なのでアリストテレスは、意外と多数支配の肩を持っている。そこはプラトンとは違うところですね。

 高橋 民主主義の欠点を挙げていこうとする風潮は昔からずっとありますよね。

 橋場 世界史の教科書にも、つい最近まで「アテナイ民主政は衆愚政に堕した」と書いてありました。僕も高校の教科書を書いているので、その記述を削除したら、途端に教育の現場から文句がきました。「あれはやはり衆愚政治ではないか」と。これは今に始まった話ではなくて、ソクラテスの時代から知識人のあいだでは、民主主義を悪く言う言説のほうが圧倒的に強いんですよ。

 高橋 そのほうが楽ですからね。

 橋場 そうなんです。結局プラトンのように、論理的で体系的な思考もできる知識人の反民主主義的な言説だけが、古典として後世に残ることになります。そうしたバイアスのかかった解釈を、一九世紀以来の学者たちも鵜呑みにしてしまったところがありました。

 しかし、実際のアテナイ民主政が一八〇年間、大多数は文字も書けないような人たちから支持されて続いたことは、疑えないわけです。原理上、多くの人が支持しないと民主政は存続し得ないですからね。

 高橋 民主主義は生まれたときから、ずっと文句を言われていますね。けれども、結局のところ民主主義に取って代わるような仕組みは生まれてこなかった。

 僕は、民主主義は完結したシステムではなくて、そこで学ぶシステムだと考えるようになっています。18歳で参加して、そこでいろいろ学んでいくということですよね。民主主義は確かに欠点は多くて、それを指摘するのは簡単です。けれどもシステム自体はもう、ほとんど変わりようがない完成形があるので、それをどう支えて、どう使っていくのかは、我々の問題ということになるのだと思うんです。

(終)

 

 

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