校庭で流れたプレスリー ロックンロールの先駆者が語る
50年目の新境地【宇崎竜童】

B!

『公研』2023年9月号「私の生き方」

 

音楽家、俳優

 

 

手術後2週間でステージに立っていた

──今年4月14日に開催されたコンサート「風のオマージュ」を拝見いたしました。喜寿(77歳)を迎えられたとは思えない歌声に驚かされました。ただ、ステージ上でもお話しされていましたが、昨年病気されたとか。

宇崎 1年前の春に小腸を40センチメートル切ったんです。痛いことは痛かったけど、僕はそれほど深刻な状態ではないと思っていました。

 ところが医者は、「いま切らなければ、明日にはもう病院に来られなくなっているかもしれません。どうしますか?」と脅すようなことを言うんですよ。「ご家族をお呼びください」という話になって、阿木(燿子)が病院に駆け付けた。すぐに入院手続きの誓約書に印鑑を押すと、そのまま麻酔を打たれて、気が付いたら翌日でした。昨年に開催した「風のオマージュ」の2週間前のことだったんです。

──昨年のコンサートは、術後すぐだったんですか。

宇崎 そうなんです。手術から2、3日は電話で話すだけでも傷口が痛かった。人間は、腹筋を使って喋っているのだなと、そのときに気付かされましたね。さすがにコンサートで歌うのは難しいかなという感じだったのだけど、1週間経ったら何ともなくなって退院できた。当日までに歌えるまで回復することに賭けて、バンドにはお稽古してもらっていました。コンサートの前日になって歌ってみたら、ちゃんと声が出たのでステージに立つことに決めました。ライブの3分の2が終わったところでお客さんに向けて、「実は2週間前に手術したんです」という話をしたら、「どれだけ心配したと思っているんだ」といったメッセージが後からたくさん届きました。

 執刀した医者も心配で、気が気じゃなかったみたいね。僕は本当に切る必要があったのかと疑いを持っていたんです。執刀医は救命救急の専門医で普段から切りまくっているから、切りたくて仕方なかったんじゃないかと思っている(笑)。

 小腸の病気はそんなふうにして乗り越えたんだけど、昨年は11月に新型コロナに罹っちゃったんですよね。夫婦二人で家のなかに10日間もいなきゃならなくなった。別に体調は悪くなかったから、冬休みをもらった気分だったんです。

 でも、この期間は何も手を付けられなかった。普段は、スタジオに入ってキーボードやPro Toolsなんかの機材に電源を入れたり楽器に触れたりしたら、「さぁ何かやるか」という構えになるのに、何にもやる気が起きなかった。キーボードの電源は入れるんだけど、そこでボーッと座っているだけ。僕は学生時代から1日1曲は必ず曲を書くことを課していて、それを長年続けてきたんですね。けれども、やる気がみなぎってこない状況に困惑しましたね。このやる気のなさがずっと続いたら本当にたいへんだと思ったけど、2週間くらい経ったら次第にやる気も戻っていきました。

──病気をされていたことなど微塵も感じさせないライブでした。共演されたミュージシャンたちのタイトで完璧な演奏に、77歳を超えても違和感なく溶け込んでいる。

宇崎 ミュージシャンたちも僕に完璧な歌を求めています。リハーサルをやっていても「ちょっと音が狂っていますね」とか「出だしの入り口を間違えてますよ」とか、ものすごく親切に言ってくれるんですよ。みんな若いんですけど、遠慮がない。最近のライブではイヤーモニターを使うことが多いので、お客さんの声援は聞こえてこないんです。反応を見れば手応えはわかるのだけど、スタッフたちに「どうだった?」と毎回聞いています。彼らが「よかった」と言ってくれたら、そうなんだろうと思える。おかしいところがあれば、どこが悪かったのか指摘してくれる関係ができあがっています。忖度しないスタッフをそろえていますからね。

 

アメリカ人になろうと思っていた

──1946年のお生まれです。新しい音楽はどのようにして知っていったんでしょうか?

宇崎 僕は歳上のきょうだいがたくさんいたんです。兄が3人──3人目の兄は小さい頃に亡くなっていますから僕が知っている兄貴は2人です──、それから姉が3人です。実家があった代々木上原には、在日米軍の兵舎や家族用居住宿舎があったワシントンハイツがあって、そこの軍人さんたちのために放送していたのがいわゆる極東ラジオ(FEN:Far East Network)です。

 次女と三女の姉二人はアメリカかぶれだったので、ハイティーンの年頃になると、FENから流れてくるアメリカの音楽に夢中になるんですね。だから僕は、小さい頃から姉たちが聴いていたFENやレコードしか聴かせてもらえなかったんです。アメリカのヴィンテージな音楽やカントリー&ウェスタン、エルヴィス・プレスリーを聴くことは、自分にとっては日常的なことだったんです。

──二人のお姉さまに影響を受けたわけですね。

宇崎 姉たちが聴いていた横で、わかったような顔をして聴いていました。それで僕もアメリカかぶれになって、小学校のときはいつかアメリカ人になってやろうと思っていました。周りの小学生たちとは全然合わないですよね。あるとき朝礼で「歌謡曲は大人の歌だからそんな歌を小学生の君たちが歌ってはいけない」という禁止令が出たんです。その頃の子どもたちは「粋な黒塀 見越しの松に」(春日八郎『お富さん』)なんて流行歌を歌っていたんですね。

 僕は歌謡曲をどこかでバカにしていました。あのダサイ歌はなんだろうって。僕は歌謡曲ではなくて「Well, since my baby left me」とプレスリーの『Heartbreak Hotel』を口ずさんでいましたからね。それを見た同級生が先生に垂れ込んだんです。それでお袋が学校に呼ばれて、僕も同席させられて叱られたんですよ。「歌謡曲を歌っていたそうじゃないですか。どういう教育しているのですか」と。それを聞いていた僕が、「先生あれは歌謡曲じゃなくてロックンロールだよ」と言ったら、お袋はさらに怒られていました(笑)。

──時代背景を考えると先生にロックを理解してもらうのは難しいでしょうね。

宇崎 でも関心を示す先生もいたんです。小学3年生のときだったけど、女の担任の先生が「ね、『ハートブレイク・ホテル』って歌、レコード持ってる?」って。それで先生が日直だった土曜日に学校にSP盤のレコードを持って行ったんです。落とすと割れる78回転のやつ。先生は「これがプレスリー。イイわね……」と感心して聴いていたのだけど、突然、校庭のスピーカーで流し始めた。

 「Well, since my baby left me.」──。

 土曜の校庭にエルヴィス・プレスリーが流れたんですよ。嬉しかったね。大袈裟に言えば、感動した。その瞬間、先生と心がひとつになったような気がしたんです。

──音楽の魅力を感じさせるエピソードですね。

宇崎 それから親父、姉さん、兄貴たちは毎週のように映画に連れて行ってくれたんですよ。ほとんどが洋画で、だいたいはハリウッド映画でした。『二十四の瞳』なんかの真面目な松竹映画はお袋が連れて行ってくれました。あの頃のハリウッド映画は、最後のエンドマークが出るときはキスシーンで終わったりする。次の日学校で昨日観た映画のあらすじを話して、「女の子にはこうやってキスするんだよ」なんてシーンを真似ていました。小学生なのに(笑)。それでまた先生に叱られる。でも何がいけないのか本人はわかっていないんだ。それぐらい周りの子たちとは違って、マセていたところがありましたね。

──新しい文化や音楽に対して寛容なご両親だったのですね。

宇崎 趣味として楽しむ分にはいいんだけどね。それを「仕事にする」と言えば、親父は反対したと思います。中学、高校のときはブラスバンド部に入って、学校にあるトランペットを借りて吹いていたんです。明治大学に入ってからはジャズをやり始めたのだけど、親父はその間、何度か「お前は何になりたいんだ」と聞いてきました。「トランペッターになりたい」とか「音楽の関係の仕事に就きたい」と言うと怒るに決まっているから、「まともなサラリーマンになる」と答えていました。

 親父は東京商船学校(後の商船大学、現在の東京海洋大学)を出ていて、外国航路や国内航路の船乗りをしていました。僕が生まれる頃には陸に上がって船舶関係の会社に勤めていて、それから自分の会社を立ち上げたんです。自分も商船大学に行って親父と同じ船の仕事をしようと高校生の頃までは思っていました。けれども進学したのが明大付属の中高だったから、結局別の大学を受験することはせずに、明治大学の法学部に進むことになった。だからと言って、弁護士や会計士をめざそうなんて考えはまったくなかった。親父には「サラリーマンになります」と言っておけば、一応は納得してくれたんですね。

 

父の会社が倒産する

──ご著作には中学3年生のときにお父様の会社が倒産して生活環境が一気に変わったとありました。お父様はうちひしがれていたのですか?

宇崎 がっくりきた態度は一度も見たことがなかったですね。ただ80歳を過ぎて認知症になったときに、当時の苦しい記憶が蘇ってくることがありました。ある日、夜に実家に帰ったら親父がものすごく険しい顔をして「債権者の人たちに多額のお金を払えてないんだよ」と言い出したことがありました。僕はとっさに「じゃあ払いに行こう」と答えたんですね。親父は「そんなお金どこにあるんだ」と言いますが、このときに機転を利かせて電話帳2冊を風呂敷に包んだんです。「ここに1000万あるから、今から返しに行こう」と親父を車に乗せて外に出ました。それでタバコの自動販売機の横に電話帳を置いておいて、風呂敷だけを持って帰ったんです。「いま全額払ったからね」と言ったら、「ああよかった」とホッとした顔をしていました。

 だから、晩年に至るまでものすごく悔いていたのだと思います。僕としては、役者の勉強もさせてもらったとも思っているし、演じるのはおもしろかったんですよ。

 

「うわー嫁が来た」

──明治大学法学部に進学されます。

宇崎 学生運動が盛んな時代だったから3年生、4年生のときはストで授業をやっていなかったんです。駿河台の坂道のレンガを外して警官隊に投げていましたからね。だから大学にはずっとラッパを吹きに行っていました。中学・高校のブラバンの先輩がそのまま大学の軽音楽部にいたから、ブラバンの先輩がジャズの先輩になった感じですね。先輩・後輩の関係がそのまま大学でも維持されていたから、大学でも先輩の言いなりで活動していました。個性的な人たちばかりだから、それこそ今なら「パワハラだ」とすぐに問題になると思う(笑)。でも楽しい4年間でしたね。

──奥様の阿木燿子さんとも明治の軽音学部で出会ったそうですね。

宇崎 軽音楽クラブにはジャズ、カントリー&ウェスタン、エレキバンドやらいくつもバンドがあって、阿木はそのなかで女子ハワイアンのバンドでスティール・ギターを弾いていたんです。

 初めて彼女がやってきたのを見て、「うわー嫁が来た」って思いました。

──最初の出会いから直感するものがあったわけですね。

宇崎 そうですよ。ただね、小学校のときからそういうところがあって、可愛い転校生の女の子がやってきたりすると誰かれ構わず「嫁になる」と思っていました。つい最近も小学校の同窓会──もう数人しか残っていないのだけど──に行ったら、同級生から「お前あの人のこと好きだっただろう」なんて言われました(笑)。中学・高校時代は男ばっかりだから、女の子に声を掛けるような縁がまったくなかった。だから、阿木が現れたときは本当に輝いて見えましたね。

──今に至るまでお仕事のパートナーでもありますが、奥様の才能に嫉妬するようなことはありませんか。

宇崎 作詞に関しては最初から彼女に依存していましたから、敵わないと思いましたが、嫉妬はないですね。若い頃には自分で詞を書いていましたが、種が尽きちゃうわけです。でも彼女に書いてもらっていたら、種がまったく尽きない。こんな発想もあるのかと本当に驚かされました。だから敵わないという感情はもう超えちゃっていますね。それから、女の人特有の実直さや生真面目さについては本当に尊敬している。何でもきちきちとこなしていくんです。あそこまで到達するにはあと何年かかるか、なんて考えたこともありましたが、すぐに到達のしようがないと諦めました。これはもう人間的なレベルが違うんだ、この人が言ったことは大概正しいというふうに受け止めています。

──お父様には「まともなサラリーマンになる」と伝えていましたが、大学卒業後は音楽プロダクションで働かれていますね。

宇崎 僕が大学4年のときに、姉の旦那さんが音楽プロダクションをつくっていたんです。法政大学の学生時代からうちに通ってきていた人なんだけど、クラブ活動で、米軍基地でバンド演奏をするアルバイトをしていて、そこでベースを弾いていました。

 その義理の兄貴が「音楽出版社をつくるから、うちへ来いよ。楽器もできるし、レコーディングにも興味あるだろう。法律のこともよく知っているよな」と呼んでくれてコネで入ったんです。その義理の兄は「親父にもきちんと挨拶しておいたよ」と。あれだけ何度も音楽は趣味に留めておくように言っていたのに、あっさりと認めてくれた。どういうことなのかよくわからないんだけど、親父も相当の遊び人だったからなんでしょう。

 1973年に27歳で「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でデビューするまでは、このプロダクションでアイドルみたいな女の子のマネージャーをやったりしていました。このマネージャー時代には、社会のいろいろな場面を見ることになりました。このときの経験で世の中を知ったと言えるかもしれませんね。

 

横須賀と通天閣周辺

──宇崎さんの音楽には、いわゆる社会の裏街道で生きる人たちが出てきたりして、やさぐれた雰囲気がありますね。

宇崎 一つには小さい頃からずっと高倉健さんなんかの任侠映画が好きで、その世界の雰囲気に影響されていたことがあると思う。

 もう一つは、横須賀という街を知ったことも大きかったね。25歳で結婚したときに横浜の阿木燿子の実家に移り住むことになって、彼女の親たちは横須賀に引っ越したんです。それで僕も横須賀に行く機会が増えた。僕は代々木上原で育って下高井戸、世田谷などで暮らしたことがあったけど、横須賀の感触はまったく違っていたんです。

 駅を降りてすぐのところに、ストリップ小屋やパチンコ屋がある。路地を通って、イチコク(第一京浜:国道15号)を越えたらすぐに家でしたが、隣と向かいが鉄工所なんです。昼の間中ドンカンドンカンやっているし、国道には定期便のトラックがガンガン走っていて、道路の轍が波打っている。夜になると右隣の居酒屋が営業を始めて、酔っ払いたちがカラオケを歌い出す。もう一日中、音楽的な感じじゃない雑音が鳴っている街でした。ばい煙もひどいし、すごい環境だなと思ったけど、なんていうんだろうな、こんな街があるんだって新鮮に感じられて、だんだん愛おしくなってきたんですね。

──働いている人たちの活気と、息抜きのための騒々しさが混然となっている。

宇崎 そう。朝6時ぐらいになると、ツナギを着た工員の方たちが、家の前の路地をザクザクッと音が聞こえるような行列で歩いていくんですよ。僕はその頃、昼の12時ぐらいに起きていましたから、どうしたらああやってまともに働けるのだろうなんて思っていました。

 その一方で、裏街道を歩いている人たちへの妙な愛着もあった。彼らはどこにいるんだろうといつも思っていて、街でそういう人たちを発見すると凝視しちゃうこともあった。普段は声までは掛けないけど、川崎で立ちんぼの人に「写真を撮っていいですか?」と話しかけたことがありました。僕はずっとカメラにハマっていたからね。そうしたら「タダで撮っていいと思っているのかい」と言われて、「すみません。おいくらお支払いすればよろしいでしょうか」と言ったら、「タバコ持ってる? タバコ1本でいいよ」と。タバコを吸ってもらって、その間にちょっと話をして撮らせてもらいました。「真正面から撮るなよ」とかいろいろな注文を付けるので、「階段を下りていく後ろ姿を撮らせてもらいます」と言って撮りました。カメラで撮影することをきっかけにして、裏街道で働いている人たちを取材したいという気持ちがあったのだと思います。

──なんだかカッコいいですね。

宇崎 あの場面は今でもよく覚えている。それから大阪に滞在したことも強烈な経験でした。ちょうど大阪万博の前の年だったと思うけど、マネージャーをやっていた頃に大阪の通天閣の下のドヤ街に半月ぐらい居たことがあるんです。社長から「京都に行って支払われていないギャラを取り立ててこい!」と命じられて、もう一人のマネージャーと車で京都まで行ったんです。このときに「小切手を回収したら、まっすぐ帰ってこなくていいから、大阪に行っていいバンドを探してこい」と。けれども、ビジネスホテルに泊まるようなお金はないから、通天閣の木賃宿を拠点にしたわけです。

 僕らは通天閣の周辺が、東京で言う山谷のような社会からあぶれた人や罪を犯した人が仕事を求めて集っている場所だという認識がなかったから、何か不思議な街だなと思っていました。まず女の人が一切歩いていない。でも、ここでいろいろな人に会ったんですね。ヤクザやチンピラが集まる射的場やゲームセンターみたいなお店がいくつもあって、カメラを持って行くと、本当にいろいろな人がいておもしろい場面に遭遇するんです。まずはそれを無断で撮っちゃったりする。シャッター音が聞こえるから「いま撮ったな」と睨まれる。僕が素直に「すみません。撮りました」と言うと、「この野郎!」という感じではなくて不思議と「写真をちゃんとよこせよ」という反応をする人が多かった。話をしているうちに、そういう裏街道を歩んでいる人たちも別に根は悪人ばかりではないのだな、と感じることは多かったですね。

 

何かに逆らって生きていた

──奥様は明治大学文学部のお嬢様なわけですが、宇崎さんが不良の世界に巻き込んだのですか?

宇崎 それは全然違いますよ。知り合ってデートするようになったときに、彼女の言葉を聞いては、そんなに大人っぽいこと考えているのか、と感心させられることが多かった。それからマナーや社会常識にも厳しくて、その頃はまだタバコを吸っていて、道端にポイ捨てしたりすると「もう二十歳になったのだから公共心を持っていないとダメなんじゃないですか?」と怒られるわけ。結婚してからも、選挙があると僕は引きずられて行きましたからね、「国民の権利を何だと思っているんですか?」って。そんなことを言うやつは、男女問わず同級生には一人もいなかったからびっくりしましたね。

 けれども、阿木は不良っぽい世界の住人のこともよく見ていて、彼らの気持ちもよくわかるところがあった。「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」自体は、自分以外の若いメンバーのなかには早稲田大学や専修大学に行ったやつもいて、実際は道から外れた連中が集まっていたわけではなかった。けれども、精神はほとんど不良です。完全に何かに逆らって生きていました。彼らは大学を中退しちゃったしね。

 何かと言うと、喧嘩腰なやつらでした。ハイエースに楽器を積んで全国をライブして回っていたときは、日除けのところに木刀がいつも準備してあったんですね。トラックに幅寄せされたり煽られたりすることがあると、木刀を持ち出して「おい! この野郎!」と運転手を脅すとか、そういう世間一般では受け入れられないまともじゃないことも、このバンドのなかでは普通のことだったんですね。そういう連中だったけど、彼らにはミュージシャンになりたいという強い気持ちがあったことは、後になって感じましたけどね。

 そういうところも阿木は見ています。作詞を頼むようになってからも、内容やうらさびれた世界について詳しく説明することはないんです。けれども、僕から聞いた話や自分が見聞きしたことを取り入れて作詞をしていました。仕上がるまではどんな詞が出てくるのか僕は知らないままに、次々と楽曲が生まれていった感じですね。

 夫婦で作詞、作曲の仕事をするようになってからは、多くのミュージシャンや俳優たちとお付き合いするようになりました。俳優では松田優作さん、根津甚八さん、原田芳雄さん、津川雅彦さんなどと共演したけど、彼らは全員がまともじゃないですよ(笑)。もう今の世の中では通用しないでしょうね。僕はお酒を飲まないけど、彼らは長生きしようなんて考えずに朝まで飲み明かすみたいなところがあった。朝まで飲んで、そのまま新幹線に乗って撮影所に行くようなところを見ていました。

 僕も阿木も、そんな付き合いを通じていろいろな影響を受けました。昨年と今年に開いたコンサート「風のオマージュ」では、亡くなった彼らに提供した楽曲たちを、彼らとの思い出を紹介しながら演奏したんです。

 

ミリオンセラー『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』

──ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは74年の『スモーキン・ブギ』がヒットして、翌年の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』がミリオンセラーとなり一躍スターとなります。テレビやラジオあるいは街中で自分の音楽が流れてくるのはどういう気分ですか?

宇崎 横浜に住んでいるときに、パチンコ屋で『スモーキン・ブギ』が流れてきたのを聞いたときは「やったね」と思いました。すぐにメンバーに「おいおい、パチンコ屋で流れているんだよ」って電話しました。それから驚いたのは、銀座の三越で30分間のレコード即売ライブをやったときですね。三越の裏口から自分たちで楽器を搬入していたら、人がたくさん並んでいたんですよ。それを見ても自分たちのお客さんだとは思っていないわけ。「他にもアイドルかなんかが来ているのかな」とか言いながらセッティングをしていました。楽屋に下がって、いざライブの時間になってステージに上がったら、「わーっ」と人が押し寄せてくる。髪や袖を引っ張られたりして。自分たちの人気だと思っていないから、「うるせえな、バカ野郎!」とか言って払いのけたりしてね。

 『スモーキン・ブギ』をやったんですよ。そしたら、観客が「うあぁ!!」ってすごく盛り上がっている。その反応を目の当たりにしても「何だろう? あいつらおかしいのかな」なんて言っていました。ライブが終わった後にその場でレコードを売ってサイン会をやったら、誰も帰らないで何百枚もサインを書き続けることになった。生まれて初めてたくさんのサインを書いたんだけど、そのときに初めて「俺たちは売れている」ということに気付いたんですね。僕はそのときにはもう28歳になっていましたから、やっと売れたという気持ちでしたね。

──ダウン・タウン・ブギウギ・バンドはツナギにリーゼント、サングラスのスタイルで一世を風靡しますが、ロックが不良の音楽と受け止められていた時代背景を考えると、かなり挑発的なスタイルですよね。

宇崎 ロックバンドが世間ではほとんど認められていない時代だったし、テレビやラジオにも出させてもらえるポジションにいなかったですから、異色な連中が出てきたと思われていたことは間違いないと思います。それにテレビに呼ばれたときなどは、意図的に突っ張っていたんですよ。

 僕はアイドルの女の子を連れていたマネージャー時代は、本当に周囲にペコペコしていたんです。新人ばかりだったからね。テレビ局に行けば、ディレクターにきちんと挨拶して名前を覚えてもらうように徹底して教育していたんです。

 けれども、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドとしてテレビから出演依頼があったときは、メンバーたちには「向こうが出てほしいと呼んだのだから、ペコペコしなくていいからね」と言っていました。突っ張っているバンドのイメージを打ち出したほうが目立つし、周囲に強く印象付けることができる。だからテレビ局の廊下で、村田英雄さんや三波春夫さんのようなベテラン歌手と会っても「こちらからは挨拶しなくていいからな」とも言っていました。

 ディレクターの指示にしても、すべてを受け入れるようなことはしなかった。当時のテレビ番組には振付師がいたりして、オープニングでは大御所から新人まで同じような振り付けやポーズを取ることが求められたんです。俺らは、それも突っ張ねて生放送の本番ではポケットに手を突っ込んでいたりしていたんです。それで干されることもあったけど、それでも仕事はどんどん来たから、それでいいやと思っていました。

──突っ張ったイメージは戦略的なものだったのですね。

宇崎 世間は僕らのことを不良の集団だと思っていましたから、ライブをやると前列のほうは暴走族ばかりが押し寄せたんです。それがまた不良バンドのイメージを定着させることに繋がっていったみたいなんです。

──バンドは楽器の練習をしなければステージに立てないわけですから、今では不良というよりむしろ生真面目な印象になってきたと感じています。

宇崎 今のミュージシャンはものすごく練習しているし、一音も間違えない。「こういう音を出して」と言ったらそういう音を出す。パンクバンドなんかは、まだ昔の名残を留めているかもしれないけど、J−POPと呼ばれているような人たちは、ものすごく鍛錬していると思いますよ。それにみんな真面目だよね。世間もロックを音楽のジャンルの一つとして完全に受け入れるようになった。それはそれでこちらとしては、やりにくさを感じるようになっていったところはありましたね。

 

山口百恵からの依頼

──阿木燿子さんとのコンビで数々の名曲を世に送り出してきましたが、なかでも山口百恵さんに提供した一連のヒット曲は日本の芸能史に燦然と輝いています。何度も聞かれた質問だとは思うのですが、山口百恵さんのほうから宇崎さんに曲を書いてほしいというリクエストがあったという伝説は本当なのでしょうか?

宇崎 記者から「百恵さんがオーダーしたそうですね」と聞かされたことはあったけど、当時は知りませんでした。ソニーレコードのディレクターから依頼があったのが百恵さんとの最初の出会いだったんだけど、本人に会ってもそんなことは聞けないじゃない。けれども彼女が結婚して30年経ってから再会したときに「どうだったんですか?」と聞いたら、「その通りです」と。このときに初めて知ったんですけどね。

──ご自身のビジョンやスタイルが確立されていたのですね。アイドルというとつくられたものというイメージがありました。

宇崎 百恵さんはね、あの忙しさのなかで本当によく勉強していたと思います。ごく短い期間でしたが、一緒にラジオ番組をやっていたことがありました。素の百恵さんを見ていると、空いている時間はいつも本を読んでいたりするんですよね。世間話をしていたら、「さだまさしさんの『関白宣言』はおもしろい曲ですよね」と言っていたことがありました。そうしたら、突然さだまさしが『秋桜』を書いて大ヒットした。あの曲も百恵さんが希望したのだと僕は思っています。

 昨年亡くなった小田信吾さんという人がマネージャーだったんだけど、百恵さんの意見に素直に耳を傾ける方でした。彼女に要望があれば、よしわかった、声を掛けてみよう、といった関係ができあがっていたのだと思います。当時のアイドルとしてはとてもめずらしいことですよ。そういうマネージャーもいませんでしたし。

──百恵さんは結婚を契機にきっぱりと芸能界を引退されました。あれだけ売れていてよくすんなり辞めることができたなと不思議にも思います。

宇崎 百恵さんはまずは小田さんに打ち明けたのだと思います。百恵さんは、小田さんなら自分が言い出したら絶対にストップしない、ブレーキをかけないと信頼していたのでしょう。あのときは、小田さんと堀威夫さん(ホリプロ創業者)以外は、彼女の意思を知らない状況だったんじゃないですかね。

──若い頃のご著作を拝読しましたが、ヒット曲をどんどん世に送り出していた頃も金銭的にはそんなに儲かっていなかったとありました。

宇崎 僕はまだ30代になったばかりの頃だったから、音楽業界ではまだまだ駆け出しでした。簡単に言えば、印税にしても入ってくる額は取り分が少なかった。やはりベテランのほうが多いわけです。確かに当時は、もっとお金持ちになるはずだったとは思っていました。でも百恵さんに提供した楽曲は、今日に至るまで何度もコマーシャルに使われて、カラオケでも歌い継がれてきましたから、十分に稼ぐことができましたよ。

 

ステージ上の心境

──表現者としての宇崎さんについてお伺いしていきます。ステージに上がることを怖いと思ったことはないんですか。

宇崎 毎回怖いです。ライブが始まる前は5分間袖に立ってオープニングを待っているんだけど、そのときが一番ドキドキしていて、いつも「大丈夫だろうか」って自問している。でも、根が図々しいのか、ステージに一歩でも上がったらそういう不安は全部飛んじゃう。

 今ステージ上で心掛けているのは、正確に歌うことなんです。よく演歌なんかの場合は、心を込めて歌うという言われ方をしますよね。歌詞の感情に合わせて、強く歌ったり弱く歌ったり泣くように歌ったりする。自分も今までずっとそれをやってきたのだと思う。けれども、最近ではそういう自分の感情はすべて排除するようにしているんです。もう自分の気持ちを歌のなかには入れない。それよりも、正確に歌うことを心掛けている。受け止める人がその歌をどんな気持ちで聴いてくれるのかは、もう受け手の自由なんだと思うようになりました。プロデューサーは、「こう聴いてください」といった歌い方は「押し付けがましくてお客さんが引いてしまう」と指摘していましたが、その通りだなと思うようになった。だから、きちんと歌うことを心掛けている。

──ステージに立っているときは、素ではない?

宇崎 あれはなんだろうな。ステージに立った瞬間に素の木村修史(本名)ではなくて、やっぱり宇崎竜童になっているみたいですね。ただ、ステージ上の振る舞いは無意識に出てくるわけではなくて、例えば、間奏でギターを弾いているときには、次にやりたいと思っている振りなんかが思い付いて、それを身体に移していくように振る舞ったりしている。あれは何かもう習慣みたいになっている。

 レコーディングのときのほうがずっと意識的に歌っていますね。必ずミキサールームにはディレクターとプロデューサーの阿木燿子がいて聴いているし、見ているわけです。「もっとこうやって」といった指示があって、それに従って歌っている感じです。だから、あまり感情を伴った歌い方をすると「やり過ぎだ」とバッテンを出される。だから、レコーディングで歌うときもサラッとやることを意識していましたね。

役者としての宇崎竜童

──俳優としても長く活躍されています。ご自身は俳優としての宇崎竜童をどのように見ていらっしゃいますか?

宇崎 プロの役者さんは役づくりをするじゃないですか。台詞の一つひとつに対して、目つきや表情まで考えがちです。でも僕は何も考えないでいくんですよ。もちろん台詞だけは覚えていきます。監督が「ここで間を取る」とか、「ここで5歩歩いてそこで振り返って喋る」とか指示された通りにやっているんです。

 だから、要求されたことができる身体でいないとダメなんですよ。あるとき「そこで子分の足を蹴り上げて」と指示されたのだけど、監督が絶望的な顔をして「蹴り方が遅い」って言うんですよ。普通の役者は急にアクションをやることになっても、難なくこなします。皆さんちゃんと鍛えていますからね。

 蹴り上げる演技をしたときは、結局10回ぐらいやらされました。そういうことがあると相手の役者さんやスタッフたちを待たせることになる。それが嫌だから、求められる演技がすぐにできるように身体を鍛えておくようにしている。いろいろな映画やドラマに役者として出演させてもらっているけど、僕が心掛けていることはそれだけです。

──運動するのが大嫌いだともどこかで読みましたが?

宇崎 今でも運動は大っ嫌いで、放っておいたらゴロゴロしています。でも1年ぐらい前から、身体を使う役を演じることやコンサートがあることがわかっているので、それに向けて仕方なしにジムに通ってバーベルを上げたり、スクワットしたり、腕立て伏せをしたりしています。

 中華料理屋の親父の役をやったときは、本物の中華の料理人にレバニラ炒めのつくり方を教わりに行きました。中華鍋を振れなければ芝居にならないけど、それには体力が要りますからね。その役を演じるための準備はやっぱり必要になる。そんなふうにして、芝居を通じて新しいことを学ぶのも楽しいと思うようになりましたね。

大人たちの感性に取り込まれないための工夫

──亀渕昭信さんとの対談のなかで、アマチュア時代にライブでは勢いがあったバンドが、いざレコード会社と契約してレコーディングすると、途端におもしろさがなくなってしまう、とおっしゃっていました。この背景には何があるのでしょうか?

宇崎 結局はビジネスがそうさせるんじゃないですか。ミュージシャンが表現したい音楽と、プロダクションの思惑が一致しないことは往々にしてあることです。特に大きなプロダクションやレコード会社に入ると、周囲の大人たち──大人と言っても4、5歳しか違わないのだけどね──が自分たちの音楽に対していろいろな注文をしてくる。大人たちは絶対に「こういうのをつくれ」とか「こういう売り方をする」と言い出すようになっていく。それに素直に従っていると、大人たちの感性に取り込まれてしまって、持ち味も失われてしまう。

 そうならないためにも、自分たちは「業界にヨシヨシと撫でられるようなバンドになる必要はないからな」とメンバーたちにも言っていて、プロダクションやレコード会社に対しても突っ張っていたわけです。それも次第に面倒になって、結局は自分たちでプロダクションをつくることになったんです。

──きたやまおさむさんにお話を伺ったときも、デビューしてすぐに大人たちに嫌気が差したと仰っていました。

宇崎 ザ・フォーク・クルセダーズは『イムジン河』がレコード発売禁止になる憂き目に遭っていたけど、僕らはファーストアルバムに収録した『網走番外地』と『ちゅうちゅうタコかいな』という2曲が「公序良俗に反する」とか言われて、発売禁止になったんです。僕もメンバーも「甘っちょろい歌を歌ってらんねえよな」という気持ちでつくったのだけど、そういう態度そのものも目を付けられる要素だったのだと思う。

 学者さんや文学者などのいわゆるインテリゲンチャの集まりがあって、発売されようとしているレコードの歌詞を見ては、世の中に発表するべきではないといった判断をしているみたいですね。別に法律的な根拠があったわけではないけど、レコード会社は発売するのを自粛しようかと判断することになる。

──LPの曲の歌詞まで細かくチェックされているんですね。

宇崎 そう。僕らはファーストアルバムがそれだったものだから、セカンドもサードもずっとチェックされることになった。それも歌詞だけを細かく見るんです。文章を発表しているのではなくて、メロディに歌詞を乗せて歌っているのに、歌詞のことだけを取り上げて、ああだこうだと言ってくる。それに売れたレコードの枚数だけで、すべてを判断しようとするところがあったから、所属していた東芝レコードを1980年に辞めることになったんです。

──今は「CDを見たことがない」という世代が出てきていて、ネットを通じて聴くのが主流になっていますから、音楽業も様変わりですね。

宇崎 昔のディレクターやレコード会社の人たちは、魅力的なアーティストやバンドを探し出すことに一生懸命だったよね。その才能を時間を掛けて育てて、売り出すことにおもしろさを感じていたのだと思う。だから、彼らはいつでもスカウトを心掛けて街を歩いていたんです。街で「ゆず」みたいな才能を発見したら「レコーディングしてみないか」と声を掛ける。そういう話を聞かなくなったよね。「ゆず」が最後のストリートミュージシャンなんじゃないかな。

 今YouTubeやネットで音楽を発表している連中のなかには、「別に有名になりたいわけじゃない」とか「テレビなんか出なくていい」とかほざく人もいるじゃないですか。ただ音楽を発表して、それで自己満足できるのかもしれないけど、あの感性は僕らにはわからない。

 僕が若い頃に出会った人たちは、みんなが何とかして一生の職業にしていきたいという気持ちを持っていました。アイドルのオーディションを受けに行った子たちも必死で、根性が違っていたよね。でも、今ネットで音楽を配信しているだけの人たちは、飽きたらそれで辞めるのだろうなと思います。

 今のレコード会社には、そういう新しい感性を引きずり込む力がもうなくなっているよね。僕は今どこにも所属していないので、もう第三者として業界を見ているけど、そういう今の状況は少し寂しくも思いますね。

「俺は100歳まで曲を書くからな」

──まだまだ若いですが、老いを意識することはありますか?

宇崎 冒頭でも話したけど、昨年二つの病気を乗り越えたこともあって、歳を意識することは確かに増えました。今年になってから知り合いにバースデーメールを送るときには、例えば相手がラッパ吹きだったら「お前100歳までラッパ吹けよ、この野郎。俺は100歳まで曲を書くからな」と書くようにしています。そうやってあちこちに、100歳まで生きることを宣言しているんですよ。それも絶対に寝たきりにはならないと自分で決めていて、そのための鍛錬も続けているんです。

 例えば、老いのせいか足のつま先が階段に当たるようになってきたんですね。それを改善するためにはどこの筋肉を鍛えたらいいのか、ジムのトレーナーに教えてもらいながら筋トレをするようになったんです。それを1年間続けたら、階段につま先が当たることはなくなったんです。

 それから夫婦で公園まで散歩することを習慣にしているんですよ。阿木から「毎日1万歩あるくことにした。あなたもやらない?」と誘われたんですね。公園に着くと芝生にシートを敷いて、靴を脱いでそこで裸足になって20分間くらい日向ぼっこをして、大地からエネルギーをもらうんですね。彼女がやっていることを僕は真似してやっています。

──今年4月の「風のオマージュ」でも、公演の最後に阿木燿子さんが挨拶されていましたが、あまりの若さに驚きました。観客は神々しい美しさを感じたのではないかと思います。

宇崎 僕はよく知らないけど、本人も美容には気を遣っていて、いろいろな努力をしているみたいです。確かに普段喋っていても、シワがずいぶん少ないなと思いますね。それに感性が年寄りじゃない。たぶん僕の3倍ぐらいエネルギーがあって、そのおこぼれを頂戴しながら僕は生きているという感じですね。

──阿木さんはお料理も得意だそうですね。

宇崎 定番料理というのがなくて、すべてが創作料理なんです。冷蔵庫を開けて、食材をパパッと見て、サッと拾い上げると、2、3分考えて何をつくるか決めるみたいです。僕も料理を手伝うことがあります。中華料理の親父役をやったときに炒めものばかりやっていたから、野菜を炒めるのはうまいんですよ(笑)。いつもメインが一皿、小鉢の料理がだいたい4品ぐらい出る。それから大きな食器にサラダを盛り付ける。パッと見て、全部で20種類ぐらいの野菜を使っている感じです。

──若さの秘訣は毎日のこの創作料理にあるのかもしれませんね。

10月11日(水)には「宇崎竜童デビュー50周年メモリアルコンサート Thank you for the music~Our history again~」が開催されます。デビュー50周年と喜寿が重なる特別なライブ、どのようなステージを構想されているのですか?

宇崎 全体の構想は阿木が考えてくれました。僕がやってきた「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」「竜童組」、それから井上堯之さんとやっていた「RUコネクション」の三つのチームを中心にして、発売したレコードから楽曲をピックアップしたプログラムになっています。だから、それぞれ音色が全然違うんですよ。いつも一緒にやっているミュージシャンたちとやりますが、普段よりも楽器を足さないといけないでしょう。僕が歩んできた歴史を振り返るような一夜になるのだと思います。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

うざき りゅうどう:1946年京都生まれ、東京育ち。明治大学法学部卒。中高はブラスバンド部、大学時代は軽音楽部に所属。大学卒業後は、義兄の経営する大橋プロダクションに入社。73年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成しデビュー。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』『スモーキン・ブギ』など数々のヒット曲を生み出し、一世を風靡する。作曲家としては作詞担当の夫人の阿木燿子とのコンビで、山口百恵を始めとして多くのアーティストに楽曲を提供している。また、俳優としても映画・ドラマに数多くの主演作がある。2023年には音楽活動50周年を迎えた。

 

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