『公研』2022年6月号「私の生き方」
漫画家 蛭子能収
※すでに報道されているように、蛭子能収さんはレビー小体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症を患っていることを公表されました。このインタビューは、18年以上マネージャーをされている森永真志さんに蛭子さんの記憶の曖昧な箇所について確認、補足のうえ掲載しています。
「コロナ、クルナ!」
──蛭子さんにインタビューするということで、初めて競艇場(戸田ボートレース)に行ってみました。4レース挑戦して2,000円勝ちました。
蛭子 すごい! それは良かったですね。
──蛭子さんの初期の作品で選手たちがあたかも自分の念力によって動いているという話がありましたが、予想が当たるとそういう気持ちになるのもわかりますね。
蛭子 その感覚を覚えた人がハマっていくのだと思う。レースが予想通りに運ぶと本当に気持ちがいい。
若い頃にちり紙交換の仕事をしていた頃に、競艇の必勝法をあみ出したことがあったんです。お金がなかったから消費者金融に、「必ず勝てるから10万円貸してほしい」と説明して回ったのだけど、女房が承諾してくれなかったから借りられなかった。でも、その方法でも勝てなかったから、必勝法なんてないことがわかりました(笑)。
18歳で高校を卒業したその日に、ずっとやりたかったパチンコ屋に行って以来、今までギャンブルをやり続けてきました。正確に数えたわけじゃないけどトータルで1億円は負けたと思う。オレは「持っているお金を少しでも増やしにいく」つもりでやっていたけど、結局は勝てないようになっていますよね。多摩川競艇場までの道を「オケラ通り」と呼んだりするのだけど、何度もオケラになって泣きながら歩いて帰りました。
──多摩川がホームグランドですか?
蛭子 全国の競艇場に行ったけど、一番通ったのは平和島と多摩川ですね。多摩川には、「多摩川蛭子カップ」という冠レースがあって10年以上続いたかな。
オレが賞金を出すのではなくて、逆にお金が貰えるんだけど、だいたいは負けて帰りました(笑)。
認知症になってからはどういうわけか、やりたいと思わなくなった。それまでは女房に「お金を使い過ぎだ」と何度怒られても時間があると行っていたのに。
できる限り仕事を続けたいと思っているけど、先のことはわからないから女房のためにもムダ使いはできないですよ。稼げなくなったら、捨てられるかもしれないし。
この2、3年はコロナの影響でイベントが中止になったりして、競艇場に行く機会がまったくなくなった。スポーツ新聞でレースの予想の連載もしていたし、競艇は仕事でもあったんです。わけのわからないコロナウイルスのせいで、映画館も競艇場もどこも人がいなくなってしまって、ほんと困ったものですよ。
──コロナウイルスを漫画のネタにしたことはありますか?
蛭子 あります。漫画家だから、どんなにたいへんな状況でもイヤなことがあっても「ネタに使えないかな?」って考えるようにしている。コロナが嫌われる様子を四コマ漫画で描きました。「コロナ、クルナ!」って。ぎりぎりダジャレになっているかな?
魚の骨が嫌い
──1947年熊本県天草市生まれ、長崎市育ちですね。どんな家庭でしたか?
蛭子 父も5歳年上の兄も漁師で船に乗っていました。それから8歳上の姉がいて、オレは末っ子です。漁師の家だから、日常的に魚が食卓に登るんだけど、魚は苦手であまり口に入っていかなった。魚は骨があることがイヤでした。それに漁師町の料理は、荒いんですよ。鱗や頭もロクに取らずにブツ切りになって入っているのもイヤで、一度も美味しいと思ったことがありません。肉は好きなんだけどね。
──大人気シリーズになったテレビ番組の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」で海辺の街を訪れたときでも魚料理ではなくて、カレーをよく注文されていましたね。
蛭子 小さい頃から母親がつくるカレーが大好きでした。他人がつくったカレーは苦手で、どうにも食が進まない。遊びに行った友だちの家でカレーを出してくれたりするけど、食べ切るのがたいへんですごく迷惑でした。お店で食べるのはいいんだけど。
──お父様はどんな方でしたか?
蛭子 一度船に乗ると一カ月半も帰ってこないんです。漁から帰ると4、5日家にいて、また船に乗ることを繰り返していました。ほとんど家にいないので、怒られたとか優しかったとかそういう思い出はあまりないんですよ。
ただ、小学生の夏休みに釣りにいったときのことは覚えている。「はえ縄」という釣り方で、長くて太い縄に何百本も細いイトがぶらさがっていて、そこにハリが付いているんです。そのはえ縄を海に流していたらハリの一本がオレの小指に刺さってしまった。すごい勢いで海にどんどん引き込まれていきそうになった。そのときに父が包丁で細いイトをバーンと切ったんです。
緊迫した状況だったから普通は、太い縄を切るところだけど、そうすると海に流した「はえ縄」がなくなってしまうと一瞬で判断して細いイトを切った。それだと糸を一本損するだけですからね。右手の小指にはこの時の傷がまだ残っているのだけど、これを見ると父は頭よかったんだなと今でも思います。
大切なのはお金と自由
──小学3年生までお母さんのおっぱいを吸っていたとインターネットで見たのですが、本当ですか?
蛭子 (笑)。母親が好きな子どもでした。母親、亡くなった女房、今の女房が大好きで、一緒に過ごす時間を大事にしています。基本的には一人でいるのが好きだし、人にあまり関わらないで自由に生きていたいとずっと思ってきました。でもそれは、気の合う女性が一緒にいてくれて安心できる時間があってこそ自由を満喫できるものだと思う。
──安心と自由を大事にされている。
蛭子 この世の中でいちばん大切なものはお金で、その次が自由だと思っている。お金がないと自由でいられなくなる。オレはお金にすごく執着するところがあるけど、それはうちが貧乏だったから。小さい時に、正月に近所のおじいさんが「これで金を貸してください」と古いオーバーを差し出したことがあったんです。でも、うちも貧乏だから貸せなかった。翌日にそのおじいさんは自殺してしまったんです。お金がなくなるのは、すごく怖いなと身に沁みて感じました。
──どんな子どもでしたか?
蛭子 緊張する場面になると笑いがこみ上げてしまうところがあって、国語の授業で教科書を朗読させられたりすると、笑うことを我慢できなくなる。教室に同じように笑ってくれる子がいれば、目立たないけど、そうじゃなければオレ一人だけが笑い続けることになってしまう。どうも自分が真面目に教科書を読んでいる姿を想像するとおかしくて。
「あいつは生意気だから蛭子が叩いてこい」
──私も先生に叱られたりすると笑いが我慢できなくなるところがありました。それで余計怒られたりします。運動は好きでしたか?
蛭子 大嫌いでしたね。「スポーツなんてこの世から消えてなくなればいいのに」と思っていました。
大人しい性格だったから中学生になると、からかわれたりイジメられたりするようになりました。当時は不良がいっぱいいて、すごくイヤでした。ある時不良グループの一人から同じクラスの女の子に対して、「あいつは生意気だから蛭子が叩いてこい」と命令されたことがありました。それでその子を叩いてしまった。
後でその子の家まで謝りに行きましたが、あの時の右手の感触はまだ覚えています。今思い出しても悲しくて恥ずかしくて仕方がない。本当にもうしわけないことをしました。
そういうイヤなことがあると、家に帰ってノートにいじめっ子を殺す漫画をひたすら描いていました。いかに残酷に殺すか、そればかりを考えていましたね。
──高校では美術部に入っていますね。
蛭子 美術部は兄が薦めてくれたんです。絵を描く人は大人しい人が多いですよね。黙々と自分の作品に向き合って仕上げていく。不良っぽい人もいないし、すごく平和だった。デッサンをきちんと学んだわけではなくて、グラフィックデザインをやっていました。
この頃に憧れたのが横尾忠則さんで、「横尾さんみたいな絵を描くぞ」と思ったりしていました。テレビの仕事をするようになってから、いろいろな方に会って話をしたけど、横尾忠則さんには会ったことがない。会っても緊張して、何を話していいのかわからないだろうね。昨年も東京都現代美術館に横尾さんの展示(「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」)を観に行きましたが、ものすごい数の作品があって圧倒されました。
『ねじ式』の衝撃に衝撃を受け上京
──高校卒業後は地元の看板店に就職されていますね。
蛭子 「絵を描きたい」と思って就職したのに、仕事は看板の取り付けばかりでした。先輩にはいつも怒鳴られていました。それでも5年間、必死に働きました。この職場には同僚がつくった漫画サークルがあって、20歳の時にそこで『ガロ』に掲載されたつげ義春さんの『ねじ式』を読んだんです。衝撃を受けました。
まずタイトルが不思議ですよね。ストーリーも不思議でヘンテコな世界だけど、絵も斬新で芸術作品のように思えたんです。つげ義春さんみたいに上手には描けないけど、自分も「ねじ式」みたいな作品を描いてみたい、漫画家になりたいと思ったんです。
それから今に至るまでコツコツと漫画を描き続けています。漫画だけで食えるようになったのは30代半ばの頃だったけど、描くことはずっと好きですね。映画も好きだったから映画監督にも憧れてシナリオの学校にも通ったこともあったけど、共同作業は苦手ですからね。やっぱり一人でもできる漫画家だなと考えるようになったんです。
──仕事を辞めて上京されていますが、一大決心ですね。
蛭子 オレは仕事をしている時は、雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っていました。だから上司や先輩に叱られると、「あー、すみません」とすぐに頭を下げていました。給料をもらうということは、絶対にイヤなことがあると思っていました。ただ次第に「このままでは自由がない」と感じるようになったんです。
少しずつ貯金していて10万円貯まったときに、「これで東京に行ける」と。大阪万博が開催されていた1970年でした。当時は、万博に行くために休暇が貰えたんですよ。職場には「大阪万博を観て勉強してきます」とか適当なことを言って、そのまま大阪には立ち寄らずに東京へ行きました。万博には興味がなかったし。
当時は母親と二人暮しでしたから、オレがいなくなると母は困ることはよくわかっていましたが、「このまま長崎にいるとダメになる」と出発する前日に伝えました。母親は、最初はすごく戸惑っていましたが、最後は快く送り出してくれました。
──亡くなられた最初の奥様とはこの時期にご結婚されていますね。
蛭子 女房は、オレが通っていた文房具店で働いていました。ずっと気になっていたんだけど、話しかけることはできなかった。それを見かけた友人が間を取り持ってくれたんです。最初は彼が一緒にいなければ、彼女に話かけることもできなかった。東京行きが迫った時には、その友人が「蛭子と文通ばせんと」と言ってくれたんですよ。
──お手紙には漫画も添えていたのですか?
蛭子 どうだったかな、思い出せない。少しは描いたかもしれない。一年間くらい文通してから、東京で同棲するようになりました。
自販機本で初めてギャラを得る
──月刊漫画『ガロ』1973年8月号に入選作「パチンコ」が掲載されて、漫画家としてデビューを果たします。
蛭子 『ガロ』に入選することが夢だったので、この時は今までで一番嬉しかった。でも、『ガロ』はギャラが出なかったんですよ。漫画で収入を得ることはできなかったから、いろいろなアルバイトをやっています。上京後すぐにまた看板屋で働きました。子どもができて結婚したこともあって、生活していくためにちり紙交換屋で働いたり、ダスキンの営業マンをやったりしました。漫画は描き続けていましたが、ギャラが出ないこともあって描くペースが落ちて行って、そのままダスキンの正社員になったんです。
漫画を描いて初めてギャラをもらったのが、自動販売機本の雑誌『Jam』で描いたときでした。当時は自販機だけで販売されているエロ本があったんですよ。そこで編集をしていた高杉弾さんと山崎春美さんが『ガロ』で描いていたオレの作品を評価していて、依頼してくれました。ヒッピー風の胡散臭い二人だったけど、「好きに描いていい」と言ってくれた。1ページ6,000円もギャラが貰えて、12頁分がきちんと振り込まれたんです。
もう漫画家になることは諦めて、長崎に帰ろうかと思っていた時でしたから、本当に有り難かった。これで何とか食べていけるかなと思えるようになったんです。自販機本は社会からは白い目で見られるような存在だったけど、オレを漫画家にしてくれた雑誌だから、とても感謝している。高杉さん、山崎さんは他の編集者も紹介してくれて、漫画家の仕事が増えていきました。それでダスキンの仕事を辞めて、漫画家一本で暮らしていけるようになりました。
──『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』などの初期の代表作が再発売されて読めるようになりましたが、今読んでも鮮烈です。一つひとつのカットも斬新で芸術的だなと思います。
蛭子 他の作家とは違うことを描こうといつも意識していました。今からすれば、自分でも驚くくらいに時間をかけて漫画を描いていました。「ヘタウマ」と言われたりして絵は上手じゃなかったけど、絵柄や配置、ストーリーはじっくりと考えていたんです。元々あまり他の漫画家の作品を読むことは少なかったけど、すごい作品に出会うと「やられたー」と悔しくなることもよくありました。
オレのことは、テレビに出ている「蛭子さん」のイメージが強いのだろうけど、自分はずっと漫画家であり続けていると思っている。ただ、最近は漫画を描くことに没頭できなくなっている。「すごい作品を描きたい」という意欲が芽生えても、それがなかなか持続しませんね。
──私は、蛭子さんの後輩である根本敬さん(特殊漫画家)の作品を先に読んでいて、漫画家としての蛭子さんを知っていきました。漫画家のみならずミュージシャンなど幅広いアーティストに大きな影響を与えています。ご自身に影響を受けた人たちがたくさんいることはどう感じていますか?
蛭子 根本さんなんかは、普通の友だちだと思っている。オレのことをいろいろ描いてくれているけど、実は彼の漫画はほとんど読んだことはない(笑)。
オレに関心を持ってくれて一緒に仕事をすることになった人たちには、なるべくなら喜んでもらいたいと思っていました。そういう人たちの作品を読んだり、聴いたりすることはあまりないんですけどね。
作品とテレビの蛭子さんのギャップ
──80年代に入るとテレビタレントや役者としての仕事も増えていきます。テレビに出てくる蛭子さんのイメージと、漫画の世界観があまりに違うと感じた方は多いのではないかと思います。
蛭子 俳優の柄本明さんから劇団東京乾電池の「劇団ポスターを描いて欲しい」とお願いされたことがきっかけで、劇団に出入りするようになったんです。舞台にも上がるようになって、それを観ていたフジテレビのプロデューサーの横澤彪さんが『笑っていいとも!』にレギュラーとして呼んでくれたんです。
テレビに出るようになったら、漫画が全然売れなくなった。まぁそれまでもそんなに売れていたわけではないけど。テレビに出てくる、冴えないおもしろいギャンブル好きのおじさんというイメージと漫画の作風があまりに違うからだと思う。
でも、テレビの仕事はギャラがいいから、漫画が売れなくても「まぁいいか」と判断するようになった。「スーパーJOCKEY」の熱湯風呂は、1回入ると20万円貰えたんですよ(笑)。
──テレビは、嘘くさい世界だなと感じることが多いのですが、蛭子さんだけは本音を語ることが許されているのが不思議に感じていました。
蛭子 テレビではなるべく飾らずに、本音を語るようにしていました。ただ、番組に呼んでくれた人が求めていることを自分なりに解釈することはあって、いつも素の自分でいたわけでもないんです。
テレビの仕事が難しいのは、観ている人がいろいろな受け止め方をすることですね。バラエティではオレはよくいじられていますが、それを「イジメ」と感じる人もいて抗議されたりもする。けれども、テレビの「いじり」は「イジメ」にはならないんですね。
有吉弘行さんや東野幸治さんなんかは、本当にいじるのがうまいですよね。厳しい口調だけど、相手に敬意もあるし、おもしろい。ああいうことは、とても頭のいい人だからできることだと思う。このあたりはテレビを観ている人たちが同じように感じているわけではないし、最近では世の中がうるさくなっているから、どんどん難しくなっていますよね。
葬式に出ると笑えてしまう
──太川陽介さんと共演された『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』は大人気シリーズになりました。
蛭子 あの番組は本当に歩かされるんです。60代後半になって1日に8キロも歩くのはたいへんだったけど、おかげで足腰が鍛えられたところもありますね。知らない街に行くことや綺麗な景色を見るのは好きだから、ロケに行く仕事は好きでした。
──風情のある旅館に宿泊するほうが番組的には絵になりますが、蛭子さんが街中のビジネスホテルに泊まりたがるのは観ていて共感しました。私も同じ意見です。
蛭子 太川さんは生真面目だから、バスがあるときはムリしてでも先に行こうとしますよね。オレは宿泊先に着いてからの時間はプライベートだと思っているから、皆で同じ部屋に泊まることになったりする旅館はイヤでした。最近はそうでもなくなってきましたけどね。旅先で雀荘に行くことが楽しみだったから、街中に泊まりたかったんです。
──よく知られているエピソードですが、葬式に出ると笑ってしまうと。
蛭子 葬式に行くと、みんなが演技をして悲しい表情をムリにつくっているように思えてならないんですよ。その様子を見ていると、ゲラゲラと笑ってしまうんです。それであちこちで顰蹙を買ってきたから、オレは葬式には出ないようにしていました。
逸見政孝さんが亡くなった時は、よく出させてもらっていた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で追悼番組をつくることになったんだけど、オレが葬式で笑ってしまうことが知られていたから、直前に「蛭子さん、今日はなしでお願いします」と出演が取り止めになったことがありました。
この話が有名になったこともあって、「蛭子さん今日は笑ってもいいですよ」なんて言われたこともあるけど、それもおかしな話だよね。そういうふうに言われると、逆に笑えなかったりする。
両親が亡くなったときでも泣くことはなかったけど、オレが50歳のときに女房がなくなったときは涙が止まらなかった。競艇に行っても怒られることもないし、勝っても負けても報告する相手もいない。それが滅茶苦茶寂しかった。夜も寂しくて、それでなりふりかまわずに相手を探して、人生相談の連載をしていた『女性自身』の企画でお見合いをして、19歳年下の今の女房と出会えたんです。
──長く人生相談の連載もされていましたが、最近では人間社会のすべてを達観した哲学者のような佇まいも感じていました。
蛭子 オレの考えは、昔からずっと変わってなくて、死なないように生きるのが人生の目的だということ。人に嫌われないようにするのも、他人から殺されたくないから。危険な場所にも近寄らないようにしています。
いまロシアとウクライナが戦争をしていますが、あれなんて本当に戦争をやっている理由がまったくわからない。兵隊さんも人を殺すのが楽しいのならまだわかるけど、自分も殺されるかもしれないのに、戦争に行くことがオレには理解できない。戦争は自由を制限するものでもあるから、どんな戦争であれ大嫌いですね。
──認知症の進行は、自覚されていたのですか?
蛭子 昔から忘れっぽいところがあったから、自分では自覚することがほとんどなかったんですよ。人の名前もなかなか覚えらなかったし、こんなものかなと思っていました(笑)。ただ、実際は一緒に暮らしている女房にはものすごい負担が掛かっていたんですね。このままでは面倒を看るほうがまいってしまうということで、週に何日かはショートステイに行くことにしました。
それから仕事で周りに人たちが驚かないように、認知症を公表することにしました。仕事は減らしましたが、少しでも働いていないと不安なんです。だから認知症になったオレを笑ってくれたらいいと思っている。
たまに幻覚を見ることがあって、デパートの売り場に電車が走っているのが見えて驚いて大声を出したこともありました。さっきもこの部屋のドアノブがオレに話かけているように見えましたね。
戦争に送られる130歳のロシア兵
──それはびっくりしますね。認知症になって変わったところはありますか?
蛭子 ショートステイするようになってからは、女房と一緒にいる時間がとても幸せに感じるようになりました。一緒に喫茶店でゆっくりコーヒーを飲んで過ごしたりするのも楽しい。オレは昔からせっかちで、少しでも隙間の時間があると、パチンコに行ったりしていましたからね。映画を観に行っても、開始時間まで15分でも時間があれば食事していたから、女房からは「普通は映画を観てから、ゆっくりと感想を語り合いながら食事をするものだ」と怒られていました。
女房にはとても感謝していて、最近では「ありがとう」と言葉に出して、その気持ちをその都度伝えるようにしています。ここも変わったところですかね。
それから子どもを見るのが好きになりました。昔は自分の子どもにも孫たちにも関心がなかったんです。息子の友だちが家に遊びに来たときに、冷蔵庫に入れておいたプリンを勝手に食べられたことがありました。ものすごく腹が立って、漫画のなかで無残に殺したこともありました。
それが今では、公園で子どもたちが遊んでいるのをじっと見るのが楽しいと思うようになりました。こけて泣いたりするのを見るのもおもしろい。「大丈夫かな」と思って声をかけようとしたら、お母さんがやってきて、オレもホッとしたりしています。
──今でも漫画を描かれています。昔ほど没頭できないとおっしゃっていましたが…。
蛭子 うん、意欲はあるのだけど、どうにも集中が続かない。楽して稼ぐことなんてムリなのはわかりきっているけど、どうにかして甘い汁を吸えないかと考えたりしてしまっていますね(笑)。印税の入る歌手なんかは羨ましい。
──歌うのは好きなのですか?
蛭子 歌うのは好きで、小学校の時に戸町少年合唱団に入っていました。ウィーン少年合唱団をパクったんだろうね。歌手の佐良直美さんが大好きで、車に乗っているときに歌ったりしています。
漫画を描くことに苦労するようになったのは、あまり夢を見なくなってきているのも大きいですね。昔は、夢で見たおかしな話が漫画を描くときのヒントになっていて、夢をそのまま描いていたりもしました。漫画のタッチもずいぶん変わってきている。
──死なないように生きてきた蛭子さんには、老いがやってくることをどう感じていますか?
蛭子 いざとなったらうろたえてあらゆる可能性を探って、少しでも生き延びようともがくかもしれない。そうなってみないと、わからないところがありますね。
先日、世界最高齢だった日本人女性が119歳で亡くなったけど、短いなと感じました。130歳のロシア兵がウクライナに派兵された話もあったけど、それでも短いと思う。
──130歳のロシア兵? 蛭子さんの漫画のネタですか?
蛭子 たまに現実と考えていることがごっちゃになることがあるんですよ(笑)。
──130歳で戦場に送り込まれるのは最悪ですね(笑)。
ありがとうございました。
聞き手:本誌 橋本淳一