『公研』2021年3月号 第613回「私の生き方」
吉増剛造・詩人
石巻に帰って行っている
──東日本大震災から10年が経ちました。吉増さんは、震災直後から東北の被災地に何度も通われているそうですね。
特に2019年の夏に音楽プロデューサーの小林武史さんが企画された「Reborn-Art Festival」に参加してからは、ほとんど毎月のように石巻に通っているんです。82歳にもなる老詩人が憑かれたようにして、石巻に帰っ 毎回、仙石東北ラインに乗っていますが、野蒜、矢本、蛇田、陸前山下、石巻と駅名を数えるようにして、そこへ戻っていく心があります。本当は、自転車に乗って走りたい気持ちもあるんです。いずれやるかもしれない。歳だからムリかもしれないけどね。
Reborn-Art Festivalでは石巻の鮎川地区で「詩人の家」と称する建物をつくりました。元々は、成源商店という雑貨屋さんでしたが、大津波にやられて空き家になっていたのを改造して使わせていただきました。その裏に泊まれる施設を借りまして、そこで2カ月間ほとんど毎日とぎれなく長篇詩を書きました。そこに4、5人の方々に泊まっていただいて、晩御飯、朝食を共にする。
もう一つ拠点としてホテル・ニューさか井の206号室をアトリエとして貸していただいて、そこの窓に詩を書くこともやりました。ホテルの遠藤秀喜社長のご厚意で、その部屋は「roomキンカザン」として昨年も今年もそのまま公開していただいております。
「詩人の家」や「roomキンカザン」には、たくさんの方が訪れてくださいました。桃浦地区に洞仙寺というお寺さんがあるんですが、津波で根こそぎやられてしまってお堂もお墓も流されてしまった。八巻芳榮ご住職が一昨年の夏、「詩人の家」に駆けるようにしてこられて、「私はあなたの愛読者だったんです。愛蔵していた詩集『熱風』も流されてしまいました。しかし心に残っていることをあなたにお話ししたいんです」とお付き合いが始まりました。
お手紙をくださった方もいます。最近いただいた手紙には「『あの大津波が金華山を越えた』という漁師さんの話を聞いた」ことが綴ってありました。牡鹿半島の先端には金華山という不思議な島があって、そのはるか沖合が10年前にあの大津波を引き起こした震源地なんですね。
津波にも後ろの世界がある
その手紙を読んだ時は、とても驚きました。確かに震災の時は海が干上がって、島と半島の間は道になったんです。けれども、巨大な島ですから、それを津波が越えるなんてことはあり得ない。
そんな途方もない話や流言蜚語を聞いたりしているうちに、ふと気がつきました。金華山の沖合まで船で逃れ出た漁師さんが、津波の後ろ姿を見てそう言ったのだ、と。
ということは、津波にも僕たちの気がつかない後ろの世界がある。何度も石巻に帰って行くと、そんなことにも気がついていくんですね。
人類にとって堤は身近な存在だった
──訪れる度に新しい発見がある。
吉増 発見ということではないのですよ。向こうから答えのようなものがフワァーと信号のように現れてくることがあるのね。それを待ってなきゃいけない。
震災後の被災地を往来するトラックと何度もすれ違うたびに、気がついたのが堤防の存在です。石巻は『奥の細道』にも出てきます。芭蕉さんと曽良さんが道に迷いながらやってきたところが石巻なんです。そこから今度は平泉に行くわけですが、二人は北上川の堤防を歩いているんですね。
芭蕉さんは、「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。」と書いていますが、堤防しか歩くところがないんですよ。蕪村さんの俳句にも、堤の上を歩く表現がよく出てきます。
小津安二郎さんの『東京物語』にも二度はっきりと堤防が出てきます。最初は、老夫婦がお医者さんの長男の家に行った場面です。子どもたちとデパートに行く約束していたのに、急患の来診があったために取りやめになります。それで、おばあちゃんと子どもたちが遊んでいるのをおじいちゃんが家から見ているんですが、あれが堤防の上でした。それから、邪険にされて追いやられた熱海でも二人が堤防を歩くシーンがあります。
この堤防にどんな解釈をしたらいいだろうか。でも、解釈という言葉じゃないんだな。ほとんど無意識のうちに小津安二郎の直感があの堤防を出しているんですね。
太古から洪水や大河と戦うために我々は堤防が必要でした。英語では堤をbankと呼びますが、人類にとってずっと身近な存在であり続けたわけです。何度も石巻に通ったから、向こうから信号がきていることに気がつく。だけど最初は有効な信号だとは、なかなかわからない。これはもう手間暇がかかりますよ。
僕からも一つ質問したいんだけど、なぜわたくしどものような社会の限界集落に近いところにようやっと棲息している「詩人」をご指名されたのでしょうか。
満島ひかりは稀有な女優
──昨年秋に奄美群島の加計呂麻島を訪れる機会がありました。この島を舞台にした作家の島尾敏雄・ミホ夫妻を描いた映画『海辺の生と死』を観てから、行ってみたいと思っていました。私は主演の満島ひかりさんが大好きなんです。可愛いから(笑)。
ちょうど同時期に、吉増さんの自伝『我が詩的自伝──素手で焔をつかみとれ!』を拝読していたところ、奄美に強い関わりがあることを知りました。「これはインタビューをするタイミングだ」と勝手に考えました。もちろん、『静かなる場所』『黄金詩篇』などの詩集を愛読していた経緯もあります。
吉増 わたくしも新しくできた『海辺の生と死』を監督された越川道夫さんと対話をしたこともありました。満島ひかりさんのことは、その前から観ていて気になっていましたが、とっても驚きました。『海辺の生と死』において島尾ミホを演じている満島ひかりさんが表している空気、光は時空を超えるような魅力がありました。
飛躍させて言えば、島尾ミホ本人が持っていた、あるいは表そうとしたエッセンス、魂みたいなものの輝きを感じました。それは「体現する」という言葉じゃ言えないんだな。「表現する」でもない。そこに「あらしめている」。それが女優であり、女である。満島ひかりさんは、そういう稀有な女優さんとして、何かとても深い感慨がありました。彼女の官能の瑞々しさに驚嘆しましたね。
島尾夫妻がまだご存命だった時に、小栗康平監督が島尾敏雄さんご本人に頼み込んで『死の棘』を撮ったことがありました。この時は松坂慶子さんが、島尾ミホさんを演じました。そのことはある意味では、この作品の世界を存在せしめるために必要であり大事なステップではあったのだけれども、僕には「あれでは足りないな」という気持ちが残りました。奄美まで4半世紀、島尾ミホさんを追い掛けて通いましたからね。
それで、ロシアのタルコフスキーの次を継ぐとも言われるアレクサンドル・ソクーロフに、ミホさんと娘のマヤちゃんの世界を撮ってもらう計画まで立てたんです。それは『ドルチェ 優しく』という映画になって完成しました。
『海辺の生と死』には監督、女優、スタッフその他の力があるのだけれども、同時に奄美の人たち、あるいは奄美を周りから見ている人たちの力も見えないかたちで働いています。そういうところにまで歴史の波立ちが通過してきたんだな。
そういった感慨もあります。よくぞあの映画の道筋で、加計呂麻へおいでくださいました。見えない方々の黙っているしかないお心を代表して、僕がお礼を申し上げたいと思います。
「剛ちゃん、今度始まった戦争は
大東亜戦争というのだよ」
──それでは、吉増さんの歩みを振り返っていきます。1939年のお生まれですが、覚えていらっしゃる一番古い記憶をお聞かせください。
吉増 母は18歳で僕を産みました。里帰りした博多の東公園で生まれたらしいんですが、博多の記憶はありません。それから当時住んでいた阿佐ヶ谷の貸家へ帰ってきました。畳か土間でハイハイしている記憶が薄っすらとあります。けれども、アルバムにもその写真が残っているし、家で聞いた話と重なっていますから、後から自分がつくり上げた記憶なのかもしれません。
最初の記憶については何度も言語化していて、阿佐ヶ谷駅前に今もある天祖神社(現在は阿佐ヶ谷神明宮)をおばあちゃんに連れられて歩いている場面を何度も書いています。神社だから木がたくさん茂っていて、その木の下でおばあちゃんと一緒にいる人がマッチを擦るんです。
ちょうどその時に「剛ちゃん、今度始まった戦争は大東亜戦争というのだよ」というおばあちゃんの言葉を聞きました。目から見えたマッチの火と耳から聞いたおばあちゃんの声。この二つを鮮明に覚えています。生まれてから1年半ぐらいのことです。
でも、この場面を最初の記憶と書いていましたから、それが小さな妨げになって、もっと古い記憶を思い出せずにいるのかもしれません。頭のなかには、本当は別の記憶がしまわれているのかもしれない。
今日こうしてお話しすると、もう少し隠されたところにある記憶の筋道を探す作業をしなければならなかった気持ちが自分のなかに湧いてきています。
いじめられやすい子どもだった
──幼少期はずいぶんいじめられたそうですね。地元の小学校に馴染めなかったために私立の啓明学園に転校されたとか。
吉増 あの大戦争の最中は、親父の出身地である和歌山市から4キロぐらいのところにある永穂という村里に疎開していました。1944年にここの国民学校に入学しています。6歳の坊やですから、すぐに和歌山弁になりますよね。翌年の夏に終戦になり、一家は多摩の福生に帰ってきて、小学校を転校したわけです。和歌山弁を喋る子が多摩の子どものなかに入ると、異様な感じですよね。
でも、言葉と環境の違いだけが理由でいじめられたんじゃない。わたくしには一歳半違いの武昭さんという弟がいるのだけど、彼はむしろガキ大将で、いじめる側に回るくらい偉いやつでした。
わたくしは閉じ籠るタイプで、病的な言い方をすると自閉症でした。後年、心理分析をしていただいたことがありますが、自己幽閉するような精神分裂的な傾向がある子どもでした。
だから、実にいじめやすいですよね。自分でもそれはわかっていました。「オレはこんなふうだからいじめられるんだ」って。周りはもうハナタレな、聞かん坊な子どもたちですからね。いじめるほうが健康的で、それが正常なんですよ。そういういじめられやすい精神を持った子どもでしたが、それが80歳過ぎまで続いちゃった感じですね(笑)。
昭和飛行機の技士だった父
──お父様とは折り合いが悪かったのですか? 自伝には、亡くなる前のお父様から物を投げ付けられる話が紹介されていました。
吉増 少し狂的な部分のある子どもでしたから、母親のほうにつくんですよね。同時におばあちゃんもいたから、家の中がちょっと複雑でした。
親父は割と家柄も良くて、旧制高校出身から九州帝国大学の造船科に進んで流体力学をやったインテリさんでした。戦時中に勤めていた昭和飛行機工業では、零戦なんかをつくっていた技師をしていて、会社でも相当偉い立場にあったんです。
インテリさんだったせいもあってお友だちたちにも東大の法科を出たアララギ派の歌人なんかもいて、親父経由でそうした人と知り合ったりしたこともありました。
けれども戦争に敗北しましたからね。戦後は親父の苦労をずっと見て育ちました。もちろん仕事がなくなるし、進駐軍がきて、価値観も完全に転換した。それでも一家は食べていかなきゃいけない。その窮地を救ってくれたのが、昭和飛行機の下請けとして小さい工場をやっていた土地の人たちでした。
八王子や青梅は昔から織物の産地ですが、戦時中は織物工場の人たちが軍需産業の手伝いなんかをしていたんです。町工場の親父たちが、「吉増さんもたいへんだろうからオレたちのように、織物工場でもやったらどうか」と声を掛けてくれた。
それで2、3台の織り機をガチャガチャ言わせながら機織りを始めたんです。親父は下請けの町工場に対して、威張り散らしていたのでしょうか。だからね、一から機織りを始めることになったたいへんさ、果敢さは痛いほど知っています。
それにも関わらず、親父に対する反発は、ものすごいものがありました。心の底では認めつつも、それでも反発するという何か火の出るような力の関係を僕は自分の中でつくり出した気がしています。
あの時代の価値転換の激しさの傷を、違うかたちで僕自身も父親から受け継いでいる可能性があります。自伝では親父に対する反発を強調していますが、そんなに簡単なものではなかったですね。
実家の一室を間借りしていたオンリーさん
──自伝にご実家の一室を米兵相手の売春の場として提供していたとありました…。
吉増 そうです。当時は「パンパン」と呼ばれていたけど、米兵を相手にとる女性がたくさんいました。そのなかには特定の米兵の一人だけの専属の愛人だから、オンリーさんと呼ばれていた人もいました。お座敷みたいな部屋をパンパンさんやオンリーさんに間借りさせていたんです。そうでもしないと、収入がないわけですからね。
しかしそれを心底、苦々しく思っているらしい親父の心はわかりますからね。複雑な反発はあったな。でも、その世界の中で相手になっている若いアメリカ兵への反感なんかはまったくないんです。なかなか快活で気分のいい子たちが多かった。
それにね、彼女たちに対する反感もない。パンパンさんもみんなたいへんだったんですよ。そりゃあ女たちのほうが生活力はありますから。何とかして生きていかなきゃいけないからね。人からどう見られても、生活をつくっていきます。
──吉増さんがいくつの頃ですか? そこで男女の営みが行われていることは理解されていたのですか?
吉増 7歳から9歳くらいですね。ある情景を鮮烈に覚えています。お座敷にベッドがあって、昼日中オンリーさんと若い米兵が、ベッドの上で何かしているんです。しかもそれが、それまでに見たことのないベッドでした。畳と布団じゃなくてね。その周りの状況は、散文的にしか覚えていません。
そのシーンに自分自身がたいへんな衝撃を受けている痕跡があります。きっと詩の中にはあの場面が刻み込まれているのだと思いますが、それがどこにどう書かれているのかは、自分でもよくわかっていません。
だからそれはね、後年どなたかが僕の詩を精査されると、浮かび上がってくるのかもしれない。
欲求不満の穴が裏返ったような輝き
──慶應義塾の文学部に進学されます。キャバレーでボーイとして働いたり、家出をして大阪のドヤ街で暮らしたりと、一言で言えば「慶応の不良」だなという印象です。一連の精神的流浪は反抗だったのでしょうか?
その一方で吉増さんの詩を読んでいていつも感じるのは、苛立ちや欲求不満な印象があまりないことです。そこが読み進めていて心地良いと感じています。
吉増 社会的な反抗とか反発じゃないんですね。きっと。もう少し根源的なものだったと思います。僕は家出じゃなくて、蒸発に近いんだよね。人間存在に大きなクエッション・マーク(?)、エクスクラメーション・マーク(!)をくっ付けて、どうしていいのかわからない一種の自殺行為に近いような蒸発として家出がありました。
60年安保のあの激しかった街に、僕は居合わせています。それなのに決してデモやシュプレヒコールには行かなかった。自分の実存にあれでは答えていないと思ったんです。わたくしの心にはそのシーンがあります。精神分析から、あの時期の自分を解いていくような試みを一昔前にはやっていましたが、そんなことでは届かないと感じるようになりました。
だから、単純に反社会的とだけは言い切れない。あるいは単純に狂気とだけは言い切れない。もう少し深い孤独があったんです。
欲求不満という言葉で言い表されたものに近いと思うのは、おそらくそれは人間の存在を超えちゃって動物にも通じていく、あるいは植物にも通じていくような途方もない孤独感みたいなものでしょう。
まさかブッタはそこまで考えて、「天上天下唯我独尊」と言ったわけじゃないでしょうが、まったく空なるところへ行きました。わたくしなりの解釈だけど、おそらくはブッタの心の確信みたいなものは、そういう欲求不満の穴が裏返ったような輝きね。そういうものがあったかもしれないですね。
ジャンル崩壊現象の始まり
──50年代、60年代の時代の変化、空気感についてお伺いします。以前、歌人の岡井隆さんにインタビューした際に、戦前には大歌人だった斎藤茂吉さんが戦後の変化についていけず、衰えていったことをお話しされていたことが強く印象に残っています。
吉増 いま名前の出た斎藤茂吉さんは精神科のお医者さんでもあったけど、確かに明治以来のインテリさんの姿が急に過去のものと見なされた時代ではありました。僕は茂吉さんも大好きだけれども、戦後の時代はそういう好き嫌いの基準では、到底割り切れない世界に入ってきているなと感じていました。
思想や哲学、ジャーナリズムだけではなくて見えざる文化にまでも共通して言えるところがあるんですが、生活の非常に深い地盤みたいなものの鳴動がまったく変わってしまったんです。あの時代は、そうした価値転換が起きていたのだと思います。
したがって、詩歌や文学あるいは学問をやるときに、専門分野だけを掘り下げていって純度を高めていくようなことは、ほとんど不可能になっていったところがあります。それはよくわかりますよね。プレスリー、ビートルズ、ボブ・ディランは聞こえてくるようになるし、ゴッホ、パウル・クレーを観るようになる。
これは芸術思想に限って言えばね、今に至るまでずっと続いているジャンルの崩壊現象が起きていたわけです。文化現象ばかりではなくて、僕たちが日々目にして感受するものがまったく変わってきている。
そういうことの始まりが1950年代から60年代に起こっていました。メディアが変わってしまっただけではなくて、科学文明、機械などの発達によって、我々の感受性の総体の奥底みたいなものがまったく変わってきてしまった。
60年代あたりだったらマクルーハンが言ったように、一種のメディアの革命ぐらいで済んでいました。それが今だと間違いなくコンピューターの時代に接しているから、深い文化資源に即座に触れていくようになっていますよね。
イェーツの声を聞く
──吉増さんの詩には、よくアイルランドの情景が出てきますね。アイルランドにご関心を持たれた経緯は?
吉増 最初の出会いは1970年から71年にかけてのことです。アメリカのアイオワ大学の国際創作科に世界中から詩人や作家が呼ばれて講義をするプログラムがあって、僕もそこに呼ばれたんです。ちょうど三島由紀夫さんが亡くなったときで、まだベトナム戦争の余燼があった状態でした。
そこには、ほとんど英語もできないような物書きなんかがたくさんいました。僕はそこで、もう毒虫のように何もすることなくモジモジと暮らしていたときに、フィリピンのヘラシオ・グレルモという若い詩人と付き合うようになるんです。ものすごく戦闘的で、反抗的なことばかりをやっていたやつなのですけどね。
ある日酔っ払って、彼が廊下に寝ているのを私が毛布を被せてやったことを恩義に感じたのか、あるいは何を直感的に感じたのか「ゴーゾー。お前、詩を書くんだったら、ここまで行かないと許してやらないぞ」と言って聞かせてくれたのが、当時ドーナツ盤だった45回転のレコードでした。それはアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツの朗読する声でした。
その声は、いわゆる日常的に聞いている英語とはまったく違うものです。もちろんイェーツが節を付けていますし、詩の持っているオーラもあります。その声を聞いたときに、わたくしの心がケルトの声、あるいは英語の底の底の声を聞いたんです。
それ以来、何度もアイルランドに戻っていくし、帰っていく。友だちもいっぱいできて、アイルランドについて映画もつくるし、文章も書くようになったんです。
──詩というと活字のイメージが強いですが、吉増さんにとっては声が重要であると。
吉増 ベンガルのラビンドラナート・タゴールの声も聞いたし、T・S・エリオット、あるいはディラン・トーマスの声を聞きました。これまたアイルランドの作家だけど、ジェームズ・ジョイスの声に僕はだいぶ惹かれましたね。
日本だと、萩原朔太郎は残っているけど、中原中也や宮沢賢治は残っていない。ロシアは割合残っているんだな。トルストイから残っているからね。パステルナーク、マヤコフスキー、エセーニンの声も聞きました。
僕は詩人としてはめずらしいことに、東京国立近代美術館で展覧会を開いたことがあります。その時のタイトルが「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」でした。「マ」とカタカナでタイトルを付けた保坂健二朗という学芸員の洞察力には驚きました。僕の家にきた時に彼に「わたくしがとり貯めているカセットですよ」と見せたの。500本ぐらいあったかな。そしたら彼の顔色が変わったんです。「これで展覧会ができるな」と直感が働いたらしいんだな。
音楽とは別の「声の大陸」をつくり始めた
──今日もICレコーダーで録音されていますね。
吉増 そう、いつも録音しているんです。こうして様々な詩の声を聞くようになりました。それ以来、半世紀、僕のなかではいわゆる音楽、ジョーン・バエズやボブ・ディラン、あるいはプレスリーの声を聞くのとは違う別の「声の大陸」をつくり始めたんです。
それを基軸にして考えると、なかなか普通の散文的な更新が難しい思考の状態になるんですよ。だから僕自身も、外国へ行って、詩の朗読を始めてみたんです。別にピアノを弾くわけでもバイオリンを弾くわけでもないし、舞踏もできないからね。
そうすると、まったく通じないけれども伝わることが、はっきりとわかった。そんなことを続けているうちに、まったく別次元の言語がそこに存在していて、それが詩への道であることをそこで掴んだのですね。その最初の体験がアイルランドでした。
アイルランドは、ケルトの文化が一番残っているところですよね。ケルトの世界は言葉も違うし、人類が始まって以来、別のルートを歩んだらしい人たちの魂の重なりがあります。そのケルト文化の色濃さの深さを保持していたイェーツたちが、ベンガルのタゴールを発掘して、ノーベル文学賞に繋がっていくんですけどね。社会的・文化的には辺境と言われるような、忘れられたような異文化から、突然ものすごいものが飛び出してくることがあるんです。
海外で自作の詩を朗読する
──外国でも日本語で詩を朗読されていますが、気持ちいいのでしょうか? 日本語はマイナーな言語ですから、意味が伝わらないのが当たり前ですよね。
吉増 自作の詩を朗読するときには、相当集中して自分が書いた作品を読み込んでから発声しなければなりません。その純度には手応えを感じています。
それから、外国でその言葉をわからない人の前で、その状態を出しています。それを最初から自分で納得していますから、意味、内容、思想を伝えるのではなくて、違うものを聞いているに違いないという確信がある。その手応えもあります。
これはついつい忘れられがちになりますが、これは言語のまったく知られざる側面を提示することでもあるんですよ。不思議なことに、意味、思想、物語を聞こうとしている人たちにはそれは聞こえない。けれども、見えないものが、振動のようなものが異言語の人たちの前では明らかに立ち上がっている。
今かろうじて僕なりに言えた気がしました。これはそうそう簡単には言えないことですね。はっきりと納得ができてお話しできるまでに、やっぱりね、50年くらい掛かっていますからね。
──意味ではなくて、振動なのですね。
吉増 止むに止まれぬ心の信号が出てくるときは、まったく別の振動を受け付けていて、別のシグナルを受け取っています。それが共振するんです。
僕は写真を撮るときには、二重重ねの写真を撮ったりします。それで盲目の写真家とか狂気の写真家みたいに言われるけど、そうじゃなくて一種の知られざる世界との共振現象なんです。共に触れるような現象で、それは電気的な現象かもしれない。昔はそれを直感とかインスピレーションなんて言いました。
今は情報が複雑に大量に行き交っていますが、スマホに代表されるように機械がこれだけ発達していますから、いずれは至るところで共振現象が働いていることがわかるようになるかもしれない。
そうすると、いわゆる論理や筋道だけでは到底届かなくなりますよ。西洋的な思想はソクラテス、プラトン以来、対話で成り立ってきているでしょ。科学もそうだし、論理もそうです。しかし、そうではないところに何かもう一つ命の芯があるんです。
我々は今の時代を生きているけど、あと100年、200年、1000年経ったらそういう共振現象が無尽蔵に重層化してくるんじゃないかな。
──アイオワ大学では、ブラジル人の歌手でもある奥様のマリリアさんと出会われていますね。マリリアさんも共振するものを感じたのでしょうね。
吉増 そうでしょうね。特に学生だったマリリアさんが、僕の「古代天文台」という詩をもちろん日本語で、剛造が読むのを聞いて心に何かを感じたのだと思う。恋心というのは、不思議なもんでね。それが彼女の人生を決めちゃったんですね。
マリリアさんに秘密にしていること
──普段もやり取りは英語ですか?
吉増 うん、そうですね。未だにそうです。僕の英語は下手ですけどね。マリリアさんは日本語もけっこうできますが、あまり覚えさせないようにしている。彼女はポルトガル語、ラテン語、フランス語、イタリア語までできるような人だから、僕は「日本語までやらなくていいよ」って。これはマリリアさんには聞かせたくないけど、自分の表現領域を秘密にしているんです。それは、僕の狡さだね。
石川啄木に『ローマ字日記』という作品があります。これはローマ字で書かれているのですね。なぜローマ字なのかと言えば、本心を隠すためです。ライバルの北原白秋が『邪宗門』を書いたときに、それを読んだ啄木はもう一瞬にしてショック受けてしまった。素晴らしい作品だからです。
でも、自分がショックを受けたことは、人に隠したい、自分にも隠したいと思った。〝美しい詩だ、幸福な人だ、…〟なんて自分の言語では書けない。だから、ローマ字で書いて秘密の大陸に、天才の啄木は突っ込んでいった。これはなかなかできないことです。
同じようにマリリアさんにも僕の創作の領域を隠すためにも、日本語は上達させないようしているところがありますね。
──詩人の生活についてお伺いします。本が売れなくなっていると言われて久しいですが、詩人はこれからも職業として成り立っていくのでしょうか?
吉増 斎藤茂吉のような大歌人がいた時代とはまったく違ってきていますよね。だから、詩人は皆さん大学や学校で教えたり何かしたりしながら、それぞれに職業を持つようになりました。僕も早稲田大学や多摩美術大学などで、講座を持ちましたけどね。かろうじて職業として成り立っているのは、小説家くらいでしょうか。だから身過ぎ世過ぎをしながら、複雑な生活様式を織り重ねて生活している。そうしなければ、表現活動を続けていくことが難しい社会ではあります。
社会の変化もあるんだな。風来坊やヤクザ者もいなくなってきちゃったしね。それこそ中原中也なんて、「あいつは詩人だから」で済まされていたところがあったけど、今ではそういう言葉はもうほとんど通用しなくなってきている。過ぎ去った時代を懐かしくも思います。
ただし、はっきり言えるのは、身過ぎ世過ぎと共になければ、表現というのは成り立たないとも思っています。創作に専念できる恵まれた環境にあるからと言って、表現が現れてくるわけでもありません。宮沢賢治も学校の先生だったわけだしね。これは誰しもが、プラスマイナスじゃなくて仕方なく思っていらっしゃることじゃないかな。
船ぎわの生活
──冒頭のお話にもありましたが、奄美にご関心を持たれたきっかけお聞かせください。
吉増 僕も生きていくために家賃を払ったり食費を稼いだりしなきゃいけないから、集英社が主催していた高校生のための講演会を引き受けていました。年2回くらいあって、講演旅行に出るんです。講演料が良かったので、それでなんとか生活が成り立っていたんです。とてもありがたかった。
だけど、たいへんはたいへんなんだ。15、16才の女の子2000人相手に45分しゃべるのはたいへんだよ。進学校に呼ばれることが多かったけど、進学校のほうが面白くないんだな。商業高校とか農業高校のほうがおもしろかった。
ある年に鹿児島のラ・サール高校に呼ばれたことがあって、その機会を利用して、鹿児島から沖縄までいろいろな島に立ち寄る旅をしたことがありました。この時に島尾敏雄さんの『名瀬だより』という本を片手に持っていたんです。島尾敏雄さんという作家は、とても律儀で丹念で日本のカフカみたいな人なの。感心してそれを読んでいたことを未だによく覚えています。
それで奄美の島々も訪れることになりました。奄美大島、徳之島、沖永良部、それから与論島にも止まりました。船の時間というのは、とても良くてね。当時は、冷蔵庫や洗濯機をロープかなんかで降ろして陸揚げしていたんだよね。時々は牛なんかもぶら下げている。その船ぎわの生活の具合が、ほとほと好きでね。
二等船室は、広々として寝転ぶこともできる。それから揺れるけれども、書けるじゃない。あの船の感覚が好きでした。この時のことは1979年に出た『青空』という詩集にも収めてあるからよく記憶しています。
こうして奄美や沖縄に関心を持つようになっていきました。それで、今度は島尾敏雄さんの奥さんの島尾ミホさんの世界に入っていったの。なんとも不思議な感じですよ。
「あ、島の娘だ!」
──島尾ミホさんとの最初の出会いを覚えていらっしゃいますか?
吉増 現代音楽の作曲家で、東京藝術大学の作曲科の先生だった柴田南雄さんが新しいオペラをつくろうとされていたときに、いろいろな声が集められたんですね。
僕は現代詩の突端にいる変なヤツとして呼ばれて、ミホさんは奄美の島の歌を入れるために呼ばれたんです。敏雄さんも一緒にいらしていました。当時、島尾夫妻は茅ヶ崎にお住まいでした。
収録を終えて島尾夫妻とは信濃町の駅でお別れしましたが、その場面が鮮烈でしたね。僕が乗る黄色い電車が先に来たんですね。島尾夫妻はプラットフォームからこっちを見ている。電車のドアが閉まって僕がお辞儀したら、向こうから島尾ミホが一所懸命に大きく手を振っているの。それを見てぶっ飛んじゃってさ。「こんな女がいるのか」とびっくりしました。
女の人にあんなに手を振られたのは初めてだと思った次の瞬間、「あ、島の娘だ!」と気がつきました。別れの感じが激情的なんですね。この時のことは、『オシリス、石ノ神』に書いています。
もちろん特攻隊の隊長だった島尾敏雄のこともあるし、いろいろ複雑な思いもありますよ。そこには深い世界がある。でも、出会いはそうでした。それから奄美の加計呂麻島にも通うようになるんです。
ピンで留めたようにして死があるとは考えない
──最後に死生観についてお聞かせいただけますか? 3・11は死を身近に感じる契機でもあって、あれ以来「死ぬのは怖いな」と考えるようになった気がしています。
吉増 単純にピンで留めたようにして死があるとは考えないで、「怖い」「怖くない」という感情と死を結び付けないほうがいいと思っています。
「怖い」それから「死」という言葉を、もう少しいろいろな言葉に言い換えてみることをやってみる手もあるな。怖いという感情はものすごく大事。死というものものすごくたいへん。その間に違う世界、違う楽器、違う装置を常に、間断なく投げ込んでいくことでしょう。
──ありがとうございました。本誌・橋本淳一