2026年は安倍晋三首相が「自由で開かれたインド太平洋(Free and Open Indo-Pacific、FOIP)」を打ち出してから10年に当たる。FOIPとは太平洋とインド洋を結び、アジアからアフリカまでを一つの広域圏として捉え、法の支配、航行の自由、自由で公正な貿易、質の高いインフラと連結性を通じて、力による一方的な現状変更を許さない秩序を築こうとする構想である。その輪郭を安倍は2016年8月、ケニアで開かれた第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)で示した。
10年後の2026年5月、高市早苗首相はベトナムで「進化したFOIP」を発表し、インド太平洋諸国の「自律性」と「強靱性」を前面に掲げた。安倍と高市は日米同盟の強化や防衛力整備などで共通するが、政治的系譜の近さは外交の同一性を意味しない。安倍が日本発の秩序構想を国際社会に浸透させたとすれば、高市に問われるのは、大国間競争が常態化し、貿易や重要物資の供給までが外交圧力の手段となる時代に安倍の遺産を適合させることである。
リベラル国際秩序の揺らぎから 大国間競争へ
第2次安倍政権が発足した2012年、米国を中心に法の支配、自由貿易、多国間協力を柱としてきたリベラル国際秩序は揺らぎ始めていたものの、なお国際政治の基本的な枠組みとして機能していた。中国は急速に台頭し、尖閣諸島や南シナ海をめぐる緊張も高まっていた。それでも、開かれた市場、米国の同盟網、国際機関を通じた協調には強い求心力があった。2013年の国家安全保障戦略も「普遍的価値やルールに基づく国際秩序を維持・擁護する」ことを日本の国益の一つに掲げた。
安倍外交の特徴は既存秩序の維持にとどまらず、日本が望ましいルールや枠組みを自ら提案しようとした点にある。米国が環太平洋経済連携協定(TPP)から離脱した後、安倍政権は豪州などと連携して残る11カ国をまとめ、包括的・先進的環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)の発効を主導した。欧州連合(EU)との経済連携協定も実現し、自由貿易と高水準の経済規範を制度化した。この局面で日本はルール・テイカー(受け手)にとどまらず、ルール・メイカー(作り手)として主導力を示したのである。
もっとも、安倍政権後半には大国間競争が本格化しつつあった。第1次トランプ政権は中国との戦略的競争を鮮明にする一方、TPPから離脱し、自由貿易と多国間協力を柱とする国際秩序から米国自身が距離を置いた。安倍退陣後には、ロシアのウクライナ侵略、米中対立の技術・経済分野への拡大、中露関係と露朝軍事協力の深化が重なった。半導体、AI、エネルギー、重要鉱物、供給網までが安全保障上の課題となり、軍事と経済の境界は薄れている。
高市政権が直面するのは、大国間競争が一時的な異変ではなく、国際政治の常態となった世界である。第2次トランプ政権の対外関与や同盟政策は個別の負担や見返りを重視する取引的な性格を帯び、中国との間では関税や輸出管理をめぐる摩擦を首脳外交によって管理しようとしている。高市自身も2024年の編著『国力研究──日本列島を、強く豊かに。』で「国連安全保障理事会の拒否権を持つ大国が『外交』を制し、核兵器を持つ大国が『軍事』を制し、資源を持つ大国が『経済』を制するという国際社会の現実です。そのいずれも持っていないのが、現在の日本です」と述べていた。
安倍政権後半に本格化した大国間競争が、高市政権期には安全保障、経済、技術を横断して定着したのであり、安倍外交の手法をそのまま踏襲するだけでは対応できない。
FOIPの発展
FOIPの10年は、安倍政権による「構想のFOIP」、岸田政権による「実装のFOIP」、高市政権による「強靱化のFOIP」という三つの段階をたどってきた。安倍は地域秩序の全体像を示し、岸田文雄はそれを多分野の協力事業へ展開し、高市は軍事的・経済的圧力に耐える基盤の整備を前面に出した。ただし、政権交代とともに前段階の理念が消えたわけではなく、三つの局面は重なり合っている。
安倍政権期は「構想のFOIP」であった。その原型は、第1次政権期の2007年、安倍がインド国会で太平洋とインド洋という二つの海を結びつけたことにある。第2次政権ではアジアとアフリカも視野に入れ、法の支配、航行の自由、市場経済、連結性を共通原則とする地域像へと発展させた。中国の海洋進出や一帯一路を意識した構想だったが、単純な対中包囲網にはしなかった。日本は2018年頃から「戦略」という呼称を前面に出さず、「構想」などの表現を用いるとともに、特定国を排除しない包摂性やASEANの中心性を強調し、幅広い国が参加しやすい枠組みに調整した。
岸田政権は2023年、FOIP協力に「平和の原則と繁栄のルール」「インド太平洋流の課題対処」「多層的な連結性」「『海』から『空』へ拡がる安全保障・安全利用の取組」の4本柱を掲げた。気候変動、食料安全保障、国際保健、防災、サイバー、インフラなどを取り込み、安倍が示した理念を多分野の協力事業へ展開した。その意味で岸田政権期は「実装のFOIP」と位置づけられる。
高市による「強靱化のFOIP」は、海洋安全保障や防衛協力と、供給網、エネルギー、重要鉱物、AIなどを対象とする経済安全保障を一体的に扱う。経済安全保障とは、供給途絶や技術流出などから国民生活と産業基盤を守る政策である。この発想は首相就任後に生まれたものではなく、高市は経済安全保障担当相だった2024年に著書『日本の経済安全保障──国家国民を守る黄金律』で「安全保障と経済を切り離して考えることが難しくなっている」と述べていた。高市は2026年5月にハノイで行った演説で「進化したFOIP」の重点分野として、エネルギー・重要物資の供給網の強靱化を含むAI・データ時代の経済基盤づくり、官民協力による成長機会の共創とルールの共有、地域の平和と安定を支える安全保障協力を掲げた。
高市は2024年に編著『国力研究』で資源の「特定国への過度な依存」を大きなリスクとし、供給国が「禁輸の可能性を示唆するいわゆる『経済的威圧』によって強い外交力も手にすることができます」と論じていた。高市版FOIPが掲げる自律性は、大国から一方的な選択を迫られず、自ら進路を決められる能力を指す。強靱性は軍事的圧力や貿易制限、重要物資の供給制限によって他国に政策変更を迫る経済的威圧を受けても、社会と経済を維持し、回復できる力である。
ただし、ルール形成から強靱化へと理念が交代したわけではない。宇宙政策についての記述ではあるが、高市は2024年の『日本を守る 強く豊かに』で、同盟国・同志国との協力を通じて「規範形成に主体的な役割」を果たし、「国際的な規範・ルールづくりを主導していくべき」と述べていた。高市版FOIPも法の支配とルール共有を基礎に置く。変わったのは重点である。FOIPが時代の変化に応じて内容を広げてきたことは強みだが、AI、鉱物、エネルギー、インフラ、開発協力、安全保障までを盛り込めば、何でも入る概念となり、その輪郭がぼやけるリスクもある。高市外交には、多岐にわたる政策メニューに優先順位を与え、制度、投資、協力案件として定着させることが求められるだろう。
日米同盟と同志国ネットワーク
FOIPは構想だけでは動かない。それを支えたのが、日米同盟の強化と同志国ネットワークの拡大である。安倍政権は2015年の日米防衛協力指針と、集団的自衛権の限定的な行使を認めた平和安全法制によって、自衛隊と米軍の協力を制度的に広げた。トランプ大統領との個人的な信頼関係は目を引いたが、オバマ政権期から同盟協力を再設計し、米国の政権交代後も機能する制度を築いていたのである。
そのうえで安倍は、豪州、インド、英国、フランス、ASEAN諸国との安全保障協力を進めた。なかでも柱となったのが、日本、米国、豪州、インドによる4カ国協力のクアッドである。安倍は第1次政権期にその原型をつくり、第2次政権で再生させた。日米同盟を中核に置きながら、その外側に複数の協力の層を重ねたのである。
高市政権は、すでに制度化が進んだ重層的ネットワークを引き継いだ。現在のクアッドは、海洋安全保障に加え、重要・新興技術、人道支援・緊急対応、エネルギー安全保障、重要鉱物などへ対象分野を広げている。2026年5月の外相会合では、エネルギー安全保障に関する声明と、重要鉱物協力の新たな枠組みも発表された。
日豪、日印、日米韓、日米比、欧州との協力も並行して進んでいる。高市政権は2026年、豪州やインドとの間で、従来の防衛・海洋安全保障に加えて、エネルギー、重要鉱物、先端技術などを含む協力を深めた。必要なのは新しい会議体を次々に作るのではなく、それぞれの枠組みに固有の役割を与え、相互に連動させることである。
多層的連携の目的は、米国に代わる選択肢を探すことではない。高市自身も2024年の編著『国力研究』で日本の国防について「行き過ぎた他者依存」を戒める一方、米国や同志国との「防衛協力の深化は不可欠」であり、各国の政権方針は国内世論や経済状況によって変わり得ると指摘していた。米国の関与が揺らぐリスクに備えつつ、米国にインド太平洋への継続的な関与を促し、地域秩序を支える能力を同盟国・同志国の間で補い合うことにある。米中が2国間の合意や摩擦管理を優先する可能性があるからこそ、日米同盟の強化と多層的連携を同時に進めなければならない。
近隣外交の明暗
安倍と高市の違いが最も鮮明に現れるのは近隣外交である。対中関係は安倍政権後半の改善から高市政権下の緊張へ、対韓関係は安倍政権後半の悪化から高市政権下の好転へと、明暗が逆転した。
安倍の対中外交を一言で表せば、「抑止と関与」である。FOIP、クアッド、平和安全法制によって中国を牽制する一方、関与の回路は閉ざさなかった。靖国神社参拝を2013年の1度にとどめ、福田康夫や二階俊博らの対中パイプも活かした。2018年には首脳往来を再開し、習近平の国賓訪日も準備した。中国を警戒しながら、対話と経済関係を通じて競争を管理しようとしたのである。ただし、こうした関与を東シナ海における中国の行動変化へ結びつけることはできなかった。
高市も就任直後の2025年10月に習近平国家主席と会談し、「戦略的互恵関係」を包括的に推進して「建設的かつ安定的な関係」を構築すると確認した。ところが翌11月、高市は台湾有事で武力行使を伴う場合には日本の「存立危機事態」になり得ると国会で答弁し、中国は強く反発した。
高市答弁が対日圧力の引き金になったにせよ、日中関係の緊張には構造的な要因があり、その根は以前から深かった。日本では、台湾海峡の平和と安定を自国の安全保障と切り離せないとの認識が強まっていた。高市自身も経済安全保障担当相だった2024年に著書『日本を守る 強く豊かに』で「軍事面だけではありません。経済安全保障においても、『台湾有事は日本有事』なのです」と記していた。
一方の中国は台湾を「核心的利益」と位置づけ、台湾周辺や東シナ海で軍事・海警活動を拡大し、台湾問題への他国の関与を排除しようとしている。中国は高市答弁後、訪日自粛の呼びかけ、日本産水産物の事実上の輸入停止、文化交流の縮小、軍事用途などを対象とするデュアルユース品の対日輸出規制などを段階的に用いて対日圧力を強めた。さらに中国側は、日本の防衛力強化や台湾をめぐる姿勢を「新型軍国主義」と批判している。その背景には、カイロ宣言とポツダム宣言を対日戦後処理の基礎とし、中国が参加しないまま成立したサンフランシスコ講和条約を台湾の戦後処理の法的根拠と認めない秩序認識がある。
こうした圧力は日本に政策変更を迫るだけでなく、台湾問題への介入を図っていると中国がみなす国々を牽制する意味合いもある。また、米中が通商摩擦を部分的に管理する局面では、中国が対米関係の悪化を避けながら対日圧力を続け、日米同盟に楔を打つ狙いもあるだろう。日本は、台湾情勢と対中政策をめぐる認識を米国と緊密に擦り合わせるとともに、中国との対話と危機管理の回路を確保せねばならない。
安倍が中国への抑止と関与を併用したのに対し、高市は軍事・経済両面の圧力に耐える基盤整備と多層的連携に重心を置く。だが、強靱性は関与の代わりにはならない。高市外交の課題は、抑止を維持しながら偶発的な衝突を避けるため、危機管理の枠組みを整えることである。
韓国では反対の動きが起きた。安倍政権は2015年に慰安婦合意を成立させたが、文在寅政権下で空洞化し、日韓関係は元徴用工判決、輸出管理、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)をめぐる対立によって悪化した。他方、高市と李在明大統領は、奈良と韓国・安東を相互に訪問し、シャトル外交を進めている。
この改善は、両首脳の個人的な信頼だけでは説明できない。岸田・尹錫悦両政権が修復し、石破・李両政権が維持した関係を、高市・李が安全保障、エネルギー、供給網など幅広い実務分野でさらに深化させたものである。北朝鮮の核・ミサイル開発と露朝軍事協力は、日韓および日米韓の連携を不可欠にしている。李政権が前政権の対日政策を大きく転換せず、協調路線の継続を選んだことも大きい。
1942年に日本人と朝鮮半島出身者計183人が亡くなった長生炭鉱では、発見された遺骨の身元特定に向け、日韓両政府がDNA型鑑定への協力を進めている。保守派の高市と進歩派の李のもとで日韓関係が好転していることは、首脳の政治的立場だけで外交の帰趨が決まるわけではないことを示している。
ロシアでは、比較の前提そのものが変わった。安倍はプーチン大統領と27回会談し、領土問題と平和条約交渉に大きな労力を投じたが、成果を得られなかった。ロシアによるウクライナ侵略後、高市政権は対露制裁とウクライナ支援を続けており、安倍型の対露首脳外交を進める条件は失われている。北朝鮮では、安倍も高市も拉致問題の解決を最優先課題に掲げるが、核・ミサイル能力の増強と露朝軍事協力の下で突破口は見えない。近隣外交は、首相の信条だけでなく、相手国政権の選択、国際情勢、国内政治、交渉条件の組み合わせによって動く。
高市外交の試練
高市が示した外交構想はFOIPを軸に防衛・海洋安全保障と経済安全保障を結びつけ、日本と地域諸国の自律性と強靱性を高めるものである。その成否を測る試金石は四つある。
第1に、「強靱化のFOIP」に戦略的な優先順位を与えられるか。重要鉱物、AI、エネルギー、インフラ、安全保障協力を列挙するだけでは不十分である。どの国と組み、どの制度を用い、どの政策分野に人的・財政的資源を集中させるのかを明確にする必要がある。FOIPの対象が広がるほど、何を優先し、何を見送るかという選択が重要になる。
第2に、日米同盟と同志国ネットワークを、実効的な役割分担へと発展させられるか。第2次トランプ政権と緊密な意思疎通を保ちながら、米国のインド太平洋への継続的なコミットメントを促すとともに、米国の関与が揺らぐリスクに多層的連携で備えなければならない。高市は衆議院議員に初当選する前年の1992年に著書『アメリカ大統領の権力のすべて』で、共和党と民主党について「どちらが政権をとっても対応できるシナリオ作りをすることも大切な国家の『危機管理』」と論じていた。トランプ政権との関係を安定させるだけでなく、将来、米国で政権が交代しても機能する日米同盟と同志国ネットワークを築けるかが問われる。
第3に、近隣外交で対立を管理しつつ協調を根付かせられるか。中国の軍事的・経済的圧力に備えながら対話の回路を確保し、日韓関係の改善を首脳同士の信頼にとどめず、政権交代や歴史問題にも耐える制度へと発展させる必要がある。ロシアと北朝鮮についても、首脳会談の実現だけを目標とするのではなく、危機回避、人道問題、実務協議など、達成可能な中間目標を設定しなければならない。
第4に、高市後にも残る外交資産を形成できるか。安倍外交の真価は、外遊や首脳会談の多さだけではなく、安倍退陣後にもFOIP、CPTPP、クアッド、平和安全法制、同志国連携が機能し続けたことにある。高市外交も首脳間の合意を、政権交代後も実効性を保つ制度や協力枠組みに定着させられるかによって評価されるだろう。
高市外交を測る基準は、安倍外交にどれほど似ているかではない。安倍政権期とは前提条件が異なる以上、その手法をなぞるだけでは足りない。FOIP10年の先に問われるのは、安倍の遺産を大国間競争の時代に適合させ、高市後の日本外交に何を残すかである。
中央大学教授