『公研』2026年4月号 第673回 「私の生き方」
元アジア開発銀行総裁 国際経済戦略センター理事長
中尾武彦
なかお たけひこ:1956年大阪府生まれ。78年東京大学経済学部卒業後、大蔵省(現財務省)入省。カリフォルニア大学バークレー校にて経営学修士。主税局、国際金融局等で課長補佐、IMF政策企画審査局出向、銀行局金融会社室長、国際局国際機構課長、主計局主計官(外務・経済産業・経済協力担当)、国際局開発政策課長、在米国大使館公使、国際局次長、局長などを経て、2011年8月財務官。13年4月より20年1月までアジア開発銀行(ADB)総裁。帰国後に東京大学公共政策大学院と政策研究大学院大学で客員教授。編著書に『アジア経済はどう変わったか──アジア開発銀行総裁日記』『アジア開発史』『アメリカの経済政策』など。
父の書斎と宇和島への帰省
──1956年大阪生まれです。どのような街で育ちましたか。また、ご両親はどのような方でしたか?
中尾 生まれたのは、東大阪市です。町工場の多い、庶民的なところでした。両親は不動産価格がリーズナブルだったから、新婚の住居をそこにしたと言っていました。近所の子どもたちとカエルを捕ったり、缶蹴りやビー玉をやったり、昭和の遊びをして育ちました。ビー玉に負けて、泣いて帰ってくると、母に「ビー玉で負けたぐらいで泣くなんて情けない」と叱られました。
父は大正14年生まれで、旧制第三高等学校から京都大学に進み、毎日新聞社に勤めていました。母とは、母の兄がやはり京都大学を卒業して医局にいたので、共通の知り合いを通じて出会った恋愛結婚だったらしいです。途中から英文編集の部門に移って、50代の時に女子大の教授に転じました。子どものときの家はそんなに広くなかったけど、庭には砂場があったし、4畳半の書斎には本がたくさんありました。父は昭和のサラリーマンにしては飲み会が好きではなくて、仕事が早く終わる日はすぐに帰宅して夕食を家族と食べていました。
食事が済むと、書斎に引きこもって勉強したり読書したりするので、母は「お父さんの邪魔をしてはダメ」と言っていました。国際情勢に関心があって『Newsweek』を愛読し、クラシック音楽と散歩や山歩きが好きでした。前はそうも思わなかったけれど、大学で教える仕事や趣味も含め、いろいろな意味ですごく父に似てきたと感じています。
母は愛媛県の宇和島の出身で、昭和5年の生まれ、専業主婦でしたが、女学校の成績も良かったので、戦後の混乱がなければ東京女子大学などに進んで新聞記者になりたかったと聞いたことがあります。下に弟が二人いたし、いつも家事に忙しくしていました。
──少年時代を思い返して記憶に残っている風景はありますか?
中尾 毎年夏休みになると、母の実家に帰省し、ひと月くらい過ごしました。宇和島まで鉄道と宇高連絡船を乗り継いで行くのですが、和気清麻呂の出た岡山の和気町の辺りになると、畳の原料になるい草が一面に広がっているんですね。急行の窓を開けると、い草を渡る風が吹き込んでくる。宇高連絡船には船内に讃岐うどんの店があって、それを食べることができるかどうかがすごく気になって、食べさせてもらえた時はすごく嬉しかった。小さな島々の浮かぶ瀬戸内海は、なぜかいつも天気が良くて穏やかで、子供心に天国のように綺麗だと思っていました。私の原風景の一つです。
──小さいころの遠距離移動は記憶に残りますね。
中尾 宇和島では座敷の縁側に寝転がって築山のある庭をながめ、毎日のように1時間ほど離れた島まで船で海水浴に行っていました。まだ日焼け止めも普及していなかったから、母はそばかすだらけになってしまいました。いま考えてみると、贅沢な夏休みだったと思います。
週末には家族で奈良や京都、神戸にもよく行きました。父は生まれも神戸で、若いころに神戸の支局に勤めていたこともあって、親近感があったんですね。小学生の時に神戸にクイーン・エリザベス二世号という客船が停泊していて、父の知り合いに豪華な船内を案内してもらったこともよく覚えています。いまは京都のよさがしみじみわかるけど、子供の時はどちらかと言えば退屈だった。昭和風の遊園地のほうがよほど楽しかったですね。
ただ、当時の両親は経済的には大変だったと思います。父方の祖父は、父の母親と死別したあと再婚して未成年の子どもが二人いたのに、脳梗塞になって十分に働けなかった。父は実家に仕送りをしていました。この祖父は明治学院大学を出てドイツの染料会社に勤めていたのですが、競馬が大好きで家に騎手たちを連れてきて宴会をしたり、ハイカラでシェパードを6頭も飼ったりしていたそうです。戦前の話です。子どもよりもシェパードと馬を大事にしていたと父は不満を漏らしていました(笑)。そういう祖父を見ていたから、逆に父はギャンブルと酔っ払いが大嫌いで、ストイックになったのだと思います。
六甲山全山縦走に挑戦
──少年時代に夢中になったことは?
中尾 プラモデルが大好きでした。近所にプラモデル屋があって、お金が貯まったら「今度はあれを買おう」とかいつも思案していました。いま思うとすごく小さい店だったけど、憧れの店でした。お金を貯めて、戦艦大和の大きなプラモデルを買って、夢中になって組み立てました。それから日本中の鉄道の路線を覚えることや、『シャーロック・ホームズ』『名探偵ルパン』などの推理小説や少年文学全集を読むことも好きでした。お絵かきや習字、それにオルガンなどもやったけど長続きはしませんでした。ごく普通の昭和の少年だったと思います。
中学2年生の時に、兵庫県の川西市に引っ越します。西武の開発した郊外の一戸建ての住宅地で、家もずいぶん大きくなり、父は10畳の書斎を占有していました。両親は、私たち兄弟には特別な教育をさせなくても、実力があればいずれそれなりの学校に行くだろうと考えていたみたいです。お金の問題もあったかもしれませんね(笑)。だから私も塾に通ったことはないし、中学までは地元の公立に通っていました。高校はその地域の進学校ということで受験をして、大阪教育大学附属高等学校池田校舎に進みました。
──部活動などはされていましたか?
中尾 高校の時に岡部君という友人と二人で硬式テニス部をつくって、テニスをやっていました。私は下手だったけど彼はすごく上手だったから、申しわけないと思っていました。岡部君はその後、東大に進んでテニス部に入って活躍しました。それから山登りにもよく行きました。岡部君と須磨から宝塚まで踏破する伝統の六甲山全山縦走に挑戦したこともあります。摩耶山や六甲山を縦走するのですが、全部で55キロメートルもあるし、かなりのアップダウンが延々と続くんです。六甲山の山頂まで登ってあとは降りるだけというところで岡部君の足が痙攣し始めて、ケーブルカーで降りることになった。予想していなかったから、お金が足りなくなりそうになってヒヤヒヤしました。
コツコツとやっている人たちが 報われる社会にしたい
──55キロはかなり長いですね。日本の社会についてどのように見ていましたか?
中尾 東大阪にいたころは、同級生にも暮らしに余裕があるとは言えない家の子どもが結構いました。大阪環状線の周りなどは少し戦災の焼け跡が残っていて、社会全体がまだ貧しい時代です。小学校の時に腎臓の調子が悪い同級生が近所の町工場の母子寮に住んでいて、よく学校を休んでいたので、先生に頼まれて給食のパンを持って行ってました。とても綺麗な、繊細な絵を描く子でした。いまも元気にしているかなあと考えたりします。
カッコよく言い過ぎかもしれないけど、社会でコツコツやっている人たちに対する共感は強かったと思います。そういう人たちが 少しでも報われるように、社会を良くしたいという気持ちは小さいころから持っていました。霞が関にはいろいろな出自の官僚がいるけど、ほとんどは普通の家の出身です。しかし、そのなかでも、東京の山の手に育って 私立の中高一貫校を出たような人とは社会の受け止め方が少し違っているかもしれませんね。
──やはり経済にご関心があったのですか。
中尾 高校生のころは、NHKがやっていた「1億人の経済」という番組を毎週観ていました。経済学者で当時は法政大学教授だった伊東光晴先生が出演されていて、日本経済の諸問題について解説する番組です。経済を勉強することは社会を豊かにすることに役立つと知って、新鮮な気持ちで観ていました。
同時に、共産主義や社会主義への期待が世の中にまだ残っていた時代でした。ませた同級生などには信奉者もいて、「中尾君、共産主義国家では働きたい時に働きたいだけ働いて、食べたい時に食べたいだけ食べられるんだよ」なんて言っていました。そんなうまい話はないだろうと思っていたので、共産主義にはまったく興味がなかったですね。
宇沢弘文に渋谷で焼きそばをご馳走になる
──現役で東京大学経済学部に進まれます。お父様がおっしゃるように、特別な教育をせずとも勉強がよくできた。
中尾 もちろん私も受験勉強などは一生懸命やりましたが、二人の弟も東大に進みましたから、知的な家庭だったと思います。私も、じっくりと物事の理屈や仕組みを考えることや、文章でそれを表現することは好きでした。
大学時代は、風呂も付いていない4畳半一間の下宿で、毎日自炊して、畳に寝転がって小説や新書を乱読したり、車を持っている友達とドライブに行ったり、たまにビリヤードもやりました。いま考えてみると気楽な大学生活でした。高校の時と同じようにワンゲル部に入ったのですが、女学生も一緒に「おお牧場はみどり」などを歌いながら軽快に山道を歩くことを想像していたら、何日も藪の中を漕いでいくような合宿が多くて、1年半ぐらいでやめてしまいました。割と安易ですよね(笑)。
講義を聞いて特に影響を受けたのは、小宮隆太郎先生、館龍一郎先生、宇沢弘文先生などですね。それから法学部から経済学部生のために教えに来ていた民法の星野英一先生の「権利の濫用」などの話も刺激的でした。小宮さんの『国際経済学』は丁寧に読み込みました。全体の均衡のなかで貿易や為替レート、国内経済と国際収支の関係をどう見るべきなのかなどが解説されていて、いまでも時どき参照します。
駒場で受けた専門科目の宇沢弘文先生のマクロ経済学の講義は、微分方程式を使う「経済動学」に踏み込んだ内容で、2年生には難しすぎた。ただ、講義のあとに先生に質問に行ったら、そこにいた学生たちに「渋谷に昼飯を食いに行こうか」と誘っていただき、美味しい焼きそばをご馳走になりました。
──講義より焼きそば(笑)。
中尾 町中華ではない、きちんとした中華料理屋だったから(笑)。先生は大ジョッキでビールを飲んでおられて、偉い先生はこんな感じなのかと印象に残りました。ゼミは、浜田宏一先生(東京大学名誉教授、イェール大学名誉教授)のところにお世話になりました。鎌倉の自宅にも呼んでくださるなど、ゼミ生のことは大事にしてくれました。
学生運動とバブルのあいだの時代の空気感
──アベノミクスの理論的支柱とされた浜田先生ですね。
中尾 いわゆるリフレ派で、デフレ脱却のためには大胆に拡張的な金融政策や財政政策を実施することを主張されていて、私とはちょっと立場が違いましたが、最近は政策の規律を重視するほうに少し変わってきておられるようです。
普段はそんなに勉強するわけではないけれど、試験のひと月前になると、講義を受けた先生たちの教科書は熱心に読み込みました。せっかく授業料を払って大学に通っているのだから、試験の機会に勉強をしないとずっとできないし、損をすると思ったのです。この時期に学んだことは、その後も役所や国際機関の仕事に取り組む際の考え方の基本になり、そのうえに積み上げてきたので、大学時代に勉強したことはあまり役に立たないという人がいますが、私はまったく逆の印象を持っています。
大学時代を振り返った時にもう一つ思い出深いのは、映画をよく観たことですね。そのころは名画座と呼ばれるミニシアターがあちこちにあって、2本立てが300円くらいで観られた。渋谷パレス、池袋文芸座、テアトル新宿なんかに通っていました。
──印象に残った作品は?
中尾 邦画ではATG(日本アート・シアター・ギルド)の作品が好きでした。商業的ではなく芸術性が高くて、実験的な作品を中心に公開していた映画会社です。『サード』『もう頬づえはつかない』『祭りの準備』などはインパクトがありました。学生運動も終わり、ノンポリ的な社会になっていた世代です。でも成長して豊かになっていく社会に対してちょっと斜に構えるようなところがあって、ATGの映画はそういう時代の雰囲気をよく掴まえていたと思います。アンニュイな感じとか、言いようのない焦燥感。この後に来るバブルの時の熱狂や、調子に乗る感じではもちろんなかった。
自分には役所が向いていた
──大蔵省を志願した理由は?
中尾 ゼミの先輩に大蔵省や通商産業省に行っていた人が結構いたし、大所高所から経済理論を活かせる職場ということで、役所を意識するようになりました。ただある商社からも内定をもらっていて、「役所に落ちたらでいいから来てください」と言ってくれたのは本当にありがたかった。あとでお礼に行きました。父は狭い日本を出て海外に雄飛したいという気持ちがあって、オーストラリアとかブラジルに移住しようと考えていた時期がありました。実際、オーストラリアの大学の先生になる話もあったのだけど、家族持ちは余分に経費がかかるということで条件面で折り合いが付かなかったようです。私が小学校の5年生くらいのときのことです。
そんな父の影響もあり、商社には親近感がありました。毎週日曜に三井物産が提供する『兼高かおる世界の旅』を観ていたことも影響していたと思う(笑)。
振り返ってみると、やはり自分には役所が向いていたと思います。私のように理屈っぽい人間は、ビジネスは多分あまりうまく行かないような気がします。経済官庁のなかでは、通産省のほうがリベラルな印象があったから第一志望だったのですが、先に内定が出た大蔵省に進むことにしました。結果的には、自分の嗜好にあっている国際金融を中心に職業人生を送ることができてラッキーだったと思います。
大蔵省の個性的な先輩たち
──1978年に大蔵省に入省されます。若手のころに影響を受けた先輩は?
中尾 大蔵省の面接で「国際金融に興味があります」と言ったからなのか、国際金融局(現在の国際局)調査課に配属されました。課長が行天豊雄さん(元東京銀行会長、元財務官)で、1年先輩はゼミの先輩でもある藤井真理子さん(東京大学名誉教授、元駐ラトビア大使)でした。最初はコピー取りや資料の読み合わせのような単純労働、夜12時すぎまで働くのが当たり前で、当時は土曜日も半日勤務があり、なぜか深夜に及ぶこともありました。
組織に自分を同化させるのは良くないという気持ちが強かったから、夜遅くなるのが当たり前、お酒の付き合いも当たり前のような文化には抵抗がありました。私が課長になったころ成立した公務員倫理法やその後の働き方改革でだいぶ変わったのはよかったと思います。実際、私が課長や主計官の時は二人の幼児を抱えて共働きをしていて、ほぼ毎日夕食は私が作っていました。
理不尽なこともあったけど、大蔵省の先輩たちは個性的で尊敬できる人がたくさんいました。3カ月だけ重なった行天さんは、おしゃれで大らかな上司でした。夕方6時になると、よくオーデコロンを身にまとってどこかに出かけていました。その次に課長だった宮本一三さん(元衆議院議員)は、淡路島出身、ハーバード大学で博士を取っている人ですが、就職前に病気で1年遅れた経験から、「健康は自分で守るしかない。働き過ぎて健康を害しても『気の毒に』と言われて、それで終わっちゃうんだから」といつもおっしゃっていました。本当にその通りだと思いますね。
それから大橋宗夫さん(元関税局長)ですね。大橋さんは、育ちの良さそうな、余裕を感じさせる人でした。私がまだ2年目の時ですが、課長だった大橋さんと一緒に局長のところに説明に行ったことがありました。当時は、第二次石油ショックで経常収支が急激に赤字になってました。経常収支の赤字は、国民経済計算のISバランス(投資貯蓄バランス)からすれば国内の生産よりも消費、投資、財政の国内支出の合計が多い状態ですから、いわば大きすぎる国内支出が問題であって、財政を切り詰めなければならないということを局長がおっしゃっていたそうです。大橋課長の指示を受けてペーパーを書くことになりました。
国内支出の各項目を価格と実質に分解してみると、石油ショックの影響で国内の価格が上がっているから消費や投資が増えているように見えるけれども、実質ベースではむしろ減っているということがわかります。だから、ここで財政を締めたりしたら余計に景気が悪くなるというのがペーパーの結論でした。
大橋さんと二人で局長のところへ行って、私が自分の書いたペーパーを説明しました。その時はそうも思いませんでしたが、いま考えてみると入省2年目が局長に直接説明するなんて異例のことだったと思います。大橋さんは私のことをそれなりに見込んでくれていたのかもしれませんが、そういう機会を経験させたいという考えがあったのでしょう。大橋さんは亡くなっていますが、いまでも恩義に感じています。
私の同期は男ばかり26名いました。同じような学校を出た同質性の高い集団だから、多様性の観点から言えば褒められたものではないし、弊害もあると思います。けれども若衆宿のような一種のコミュニティのよさがあり、先輩たちは後輩を育てようという意識がありました。
──1980年からカリフォルニア大学バークレー校に留学されています。当時の米国は憧れの対象だったのではないですか?
中尾 私が初めて外国へ行ったのは1978年で、大学を卒業する一カ月ほど前に、バスでシアトルからロサンゼルスまでホームステイしながら下っていく旅に申し込みました。米国の豊かさと米国人の善良さが身に沁みました。なかでもサンフランシスコはすばらしいところで、留学先にその郊外にあるバークレーを選びました。
統計学や計量経済学、会計などを実務に使えるようなレベルまで勉強し直したのはよかったです。外国人の友だちも含めて、すき焼きの会をよく開きました。ゴールデンゲート・ブリッジが見える丘の上のアパートで、ジャズを聴きながら夕陽を見るのはなかなかの青春でしたね。
28歳で勤めた泉大津税務署長
──1984年7月から泉大津税務署長をされています。20代の若さで署長を務める心境はいかがでしたか?
中尾 28歳の時に1年間、90人ぐらいの署員のトップになりました。車も付いていました。組織の上に乗っているだけで、業務の中身まで把握しているわけではないから、象徴的な存在ですよね。50代の副署長がいて課長たちもいるから、何か指示を出したりといった記憶はありません。
納税協力団体の年次総会などに顔を出して、「いつも納税ご苦労様です」と挨拶することが署長の大事な仕事でした。総会が終わると決まって宴席に呼ばれるのですが、私はそんなにお酒は強くないし、署長時代はすごく楽しかったと振り返る同僚は結構いるけど、正直言えば、私は本省での勤務のほうが充実して楽しかったですね。
──いまでも、若くして税務署長を経験することは、財務省の一つの典型的な人事のラインになっているのですか?
中尾 以前はほぼ全員がやっていましたが、いまはだいぶ減ったらしいです。昔はいわゆるエリート教育だとされていましたが、そこまで必要な教育なのかどうかはわかりません。でも、署長の経験は、組織や人間について考えるきっかけになりました。メンツであるとか、人は50代になっても偉くなりたいと考えているとか、口は上手だけど成果を出していない人がいる一方で地味に見えても坦々とよい仕事をしている人がいるとか。どこの組織でも同じようなことが言えるのでしょうが、そうした機微を学ぶ貴重な機会だったと思います。
貧しかった時代の中国からの訪問者
──ご経歴を見ると、40代に掛けてほぼ2年ごとに様々な業務に関わられています。印象に残るお仕事をいくつかご紹介願います。
中尾 自分の基礎を固めてもらったのは、税務署に出る前に主税局調査課で外国調査係長をやっていた時です。課長が濱本英輔さん(元国税庁長官)で、4年後輩の1年生にはフランス税制を担当する片山さつきさんがいました。財務大臣になられたときに久しぶりに大臣室に挨拶に行きました。
濱本さんはとても勉強熱心な人でした。私は米国税制を担当していたのですが、ちょうどレーガン税制(レーガノミックス)の時期だから、濱本さんがいろいろなことを聞かれるわけです。米国の税制改革の詳細に加え、付加価値税のすぐれている点や法人税と比較した際の違いとか、各国の税制の歴史などなど。毎朝のように濱本さんは出勤すると私を呼んで、ポケットから折り畳んだ紙を取り出して、そこには五つから十の質問が書いてある。それを元にすごく丁寧に質問をされるのです。そのうち半分はその場で回答して、半分は少し調べて答えていました。
このときに税制の原理を理解して、各国の租税のあり方や歴史を勉強できたのは大きかった。英語の税法を読み込むことで難しい英語の訓練にもなったし、充実した毎日でした。濱本さんの下で働いたことのある同期は、「宿題が多くて大変だぞ」と助言してくれていたけど、私にとっては、20歳ほど上の課長に直接質問をされて、それに答えていくことは率直に光栄だったし、やりがいを感じていました。
──年齢差は関係なく、日々真剣勝負という感じですね。
中尾 その言い方は正直恐れ多いです(笑)。1987年から主税局国際租税課で課長補佐をしていた時には、1983年に締結された日中租税条約に基づいて「みなし外国税額控除」の適用を行ったことがあります。中国から、財政部の人たちが女性をトップに数人で交渉に来ました。みんな人民服のような質素な服を着ていましたね。中国は深圳を始めとした四つの経済特区で、日本企業を誘致するために減免措置を与えることを考えていま した。日本でもそうですが、企業が国外で法人税を支払った場合、国外所得について二重課税にならないように、自国の法人税額か ら外国税額を控除する制度があります。この制度では、海外で減免を受けて外国での法人税が減額されたら、その分自国での税額控除が減って、減免の効果がなくなってしまいます。
そのため租税条約には、外国で減免されたとしても、その分は法人税を「払ったとみなして」外国税額控除を適用することにより、減免措置の効果が法人に及ぶようにする仕組みがあります。私は中国の財政部の人たちの話を聞いてペーパーを書き、課長、局長まで了承をとって、四つの経済特区はみなし外国税額控除の対象にすることにしました。そのころの中国は1978年の改革開放から時間が経っておらず、まだ遅れていて貧しかったから、日本には中国の発展を助けようという機運がありました。中国が日本を非常に頼りにし、関係もすごく良い時代でした。
「それじゃ国で入れるか?」
──課税対象を増やすほうが大蔵省的には評価されるのでしょうか?
中尾 みなし外国税額控除は、もともと租税条約に基づき中国に進出する日本企業に対してインセンティブを与えるものだから、税収を増やすことが目的ではありません。主税局は大蔵省の中でも伝統のある強力な部門であり、非常に理屈を重視しているところがあって、私には居心地のよいところでした。
1989年からの主税局の税制第一課課長補佐時代には、所得税制に加え、土地税制の見直しに関わりました。バブルのころですから、投機的な土地所有が増えて、地価が高騰していたことが問題になっていたのです。固定資産税による保有課税が弱いことが、土地の利用ではなく値上げを期待する所有につながっているという指摘がありました。私は30代半ばでしたが、各課の案をまとめて政府税制調査会の土地税制小委員会報告のもとになるペーパーをつくったり、報告に添付する「土地税制の経済効果」の原案を書いたりしました。
ある日、課長の長野庬士さん(元証券局長)と一緒に自治省に行って、「(地方税の)固定資産税をもっと上げられないのか」という議論をしたら、「適切な理由がない」と言われたことがありました。固定資産税は資産としての市場価値ではなく、地方自治体のサービスの対価として土地の使用価値を基準に課税するものです。資産価値が市場での取引で上がったとしても、そのまま使用価値が上がるわけではないので、固定資産税を引き上げる理由にはならないというわけです。まったくその通りですよね。それに、100個の土地があったとしても、その年に取引されているのはせいぜい2、3です。ところが市場価値は、それ以外の土地も同じと考えます。
自治省からの帰り道に長野さんは、「それじゃ国で入れるか?」と突然つぶやかれた。そのあといろいろの調整、交渉、法令の準備、国会審議を経て、一定規模以上の土地保有者を対象に、国税としての「地価税」が課せられることになりました。もっとも、導入してすぐにバブルが弾けて土地の価格は下落したから、地価税は停止されましたが。この経験を通じて、社会の必要性があれば制度を変えていくのが官僚の仕事であるという意識を強く持つようになりました。すでにある法律を前提としてそれを執行するだけでは、何のための中央省庁の官僚なのかわかりません。
各国の「通貨マフィア」たちの素顔
──その後1991年には国際金融局に移り、IMFやG7を担当する国際機構課の補佐、1994年にはIMF(国際通貨基金)に出向され、1998年には国際機構課長に就かれます。1991年以後、主に国際畑を歩まれていますね。
中尾 国際畑の醍醐味は、同じ分野で仕事している世界中の人たちと交流を持てることです。課長、次長、局長、財務官とそれぞれの時代に、同じような人と交渉するから、お互いに性格や考え方なんかもわかってくる。1993年のG7東京サミットの財務大臣代理による準備会合のことをよく覚えています。その年の4月に京都の都ホテルで開かれた会議には、財務官の千野忠男さん(元アジア開発銀行総裁)、それぞれ各国の次官級であった米国のローレンス・サマーズ(元財務長官)、フランスのジャン=クロード・トリシェ(元欧州中央銀行総裁)、イタリアのマリオ・ドラギ(前イタリア首相、元欧州中央銀行総裁)、ドイツのホルスト・ケーラー(元ドイツ連邦共和国大統領、元IMF専務理事)といった錚々たるメンバーが参加していました。
日本は議長国なので、私は7人のほかに1人だけ書記として加わっていたのです。各国の「通貨マフィア」とも呼ばれる官僚が一堂に会するわけだから、議論はもちろん大事ですが、彼らの素の表情を垣間見ることができたのも興味深かった。食事の時にサマーズさんは小さなお櫃からそのままご飯を食べていたし、会議中もダイエット・コークばかり飲んでいました(笑)。私よりはずっとシニアな人たちですが、トリシェさんもドラギさんも私の顔は覚えてくれていて、今でもたまに会うと声を交わします。一昨年の秋に上海で開催された国際経済関係のフォーラムでは、先進国の産業政策の復活の問題が取り上げられ、横に座っていたトリシェさんと、日本の自動車産業と欧州のエアバスは、世界的な競争を促したという意味で「産業政策の成功例ですね」という話をしました。
ロシアのIMF参加とパリクラブ
──世界経済の重鎮たちの素顔を間近で見られるのは貴重ですね。
中尾 1990年代初のソ連の解体に伴い、ロシア支援という大きなテーマにも取り組みました。ロシアがそれまで入っていなかったIMFへの参加に際して、投票権にも連動するロシアの出資比率はどうするのかが問題になりました。ロシアは経済的な実力以上の比率を要求してきました。局長の江沢雄一さんと一緒に宮沢喜一総理のところに説明に行ったことがあります。宮沢さんは「なんでロシアがそんなことを言う資格があるんだ」と怒っていました。日本がシェアを上げていくのには、IMFの最貧国向け基金への拠出など、相当の国際貢献をしてやっとの思いということがあったからです。結局、ロシアのシェアは確か2・8%で決着しました。ちなみに日本は6%強でした。ロシアの市場移行を助けるためにIMFや各国からどのような支援をするのか、G7で一生懸命議論しました。ロシアは市場化して自由主義、民主主義の国になっていくだろうという期待があったのです。
国際交渉の場として印象に残っているのは、パリクラブですね。パリクラブは、アフリカなどの途上国に対して公的債権を持っている先進国の代表がフランス財務省に集まって、債務の再編交渉をする場です。日本で言えば、国際協力銀行(JBIC)や国際協力機構(JICA)を通じた途上国への貸し付けが返済できなくなることがあります。債権の繰り延べや最貧国には免除までして、途上国経済の再建を図ります。
パリクラブは1956年のアルゼンチン向け債権の再編が始まりです。国際収支上の困難があるときに、IMFがつくる経済改革プログラムを前提にし、抜け駆けして債権を回収したり、単独で緩い条件で合意したりすることはしないなどのルールがありますが、どの債権国も自分の債権を簡単にまけたり、返済を先延ばししたくないから調整はたいへんです。
私も2002年から2年間、開発政策課長の時に何度も日本の代表として参加しましたが、インドネシアの再編交渉など金額の大きな難しい案件では、よく夜中の3時ころまで交渉して疲労困憊になりました。パリクラブは非公式な集まりなのですが、いったん結論を出したらみんなそれに従います。フランスは、優秀な官僚たちがパリクラブの運営に携わっています。各国の首席代表だけが集まって、セーヌ川を望む食堂でワインを飲みながらランチをする時間もありました。フランスのソフトパワーを感じました。
ちなみに、中国はまだパリクラブには入っていません。中国は先進国が途上国を支援するのとは違って「南南協力だから入る必要がない」と言っているのですが、途上国の多くに多額の貸し付けをしているから、パリクラブに入っていないのは本来おかしいのです。日本は第2次世界大戦の前も、もちろんあとも、先進国のメンバーに早くなりたい、先進国としての責任を果たし、途上国を支援したいという意識を強く持ってきた。それに対し、中国は自分たちはまだ途上国だと主張しています。あれほど大きな経済力、金融力、軍事力を持った途上国というのは歴史上例がないのです。中国はそうした先進国の協調から離れて、無秩序に巨大な貸し付けをしてしまうので返済できない国が出てくる。
個人の経験や能力が重要になる世界
──「債務の罠」は「一帯一路」の負の側面として、ますます顕在化している印象があります。こうしてお伺いしていくと、国際畑だけに交渉される相手も多彩ですね。
中尾 貸している側も損をするので、「債務の罠」を意図しているとは思えませんが、結果的には債務問題を起こしています。国際金融などの分野には政治家もそこまで強い関心と専門性があるわけではないから、各国の官僚による専門領域と言えます。G7もパリクラブもクラブ的な集団だから、それだけに相手のことをよく知っておく必要があります。
G7の大臣代理会合などで電話会談をするときは、最初は名前を名乗っても、議論がヒートアップしてくると声だけで誰が話をしているのか聞き分けられなくてはなりません。場合によっては、3時間も電話で議論することがあります。的確なことを言わないと聞いてもらえないから、英語力を大前提として個人の経験や能力が重要になる世界なのだと思います。もちろん財務省という組織の一員なのだけど、自分で考えて一人で交渉する機会が多いから、常に自分を鍛えていく努力が求められます。他国の参加者も、国益をかけて交渉する相手であると同時に、国際金融、援助などの領域で協力する仲間という気がしてきます。
思えば、G7あるいはG20との関係だけでも、課長補佐時代の日本のバブル崩壊後の米国からの財政拡大圧力、ソ連の解体への対応、課長時代のアジア通貨危機の後始末とIMFによる危機対応の仕組みの改革、米国大使館での公使から戻ってから次長、局長、財務官時代のリーマン危機、欧州公的債務危機への対応など、さまざまなことがありました。G7の議長国も、課長補佐の1993年、課長の2000年、次長の2008年と何度も担当しました。いま俯瞰して振り返ると、各国の力関係や国際通貨制度、経済政策の基本的な考え方の変化を身をもって経験してきたと思います。
1990年代からのアジアの存在感の拡大により、ASEANとの関係も強くなり、二国間の協議や日本とASEANとの会議も増えていきました。アジア通貨危機後には、日中韓とASEAN諸国が外貨準備を融通しあうチェンマイ・イニシアティブという仕組みができました。中国、韓国を含むアジアの高官たちとの交流もよい思い出です。外国で教育を受けて英語でコミュニケーションをとる人たちなので、価値観は似ていると思うことが多かったですね。
超円高時代に財務官に就任
──2011年8月に財務官に就任されます。中尾さんが財務官をされていた2011年10月には1ドル75円まで円高が進み、大規模な為替介入を行っています。
中尾 1ドル75円は明らかに行き過ぎでした。米国やヨーロッパが金融危機が起きたあと拡張的な金融政策を続けていたとは言え、日本は3月に東日本大震災が発生したばかりで、経済が強いとは言えない状況でした。私が財務官になった直後と10月末からの2度のドル買い円売り介入をあわせて、外国為替特別会計で13兆6000億円を投じて1700億ドルを買いました。平均して1ドル79円ですから、ドルをすごく安く買ったことになります。どうにかそれ以上に投機的な円高に行くことは止めることができたと思います。
米国は基本的に介入には反対の立場ですから、理解を得ることに苦労しました。日本の単独介入に対し米国が「円を安くするような介入はけしからん」といった声明を出したりすると、介入しても効果がなくなりかねません。米国はラエル・ブレイナードという女性の財務次官が相手で、何度も電話会議で交渉をしました。行き過ぎた円高には対応せざるを得ないと言っても、「市場に任せるべきだ」という原則が強くて、完全には説得することはできなかったのですが、ガイトナー財務長官と安住淳財務大臣の電話会談をセットしてくれました。米国に一応仁義を切ったうえで、ドル買い介入に踏み切りました。
アベノミクスの舞台裏
──2012年12月には民主党から自民党が政権を奪い返して、一転円安が進みます。
中尾 首相が安倍晋三さんに代わって、いわゆるアベノミクスが打ち出されました。政権交代前から公約で「大胆な金融緩和によりデフレ・円高から脱却をする」と標榜し、実際急速に円安方向に進んだので、海外からは金融政策で円安を誘導するのかと強い非難を受けました。一方、デフレ脱却という国内目的のための金融緩和ならわかるし、その結果としての円安なら容認するというのがブレイナードさんからのメッセージでした。それを受けて、自民党や政府の文書から「円安是正のために日銀の政策を変える」といった表現はすべて「デフレ脱却のため」に統一するように変更しました。
そのような過程で、菅義偉官房長官の秘書官から電話があり、官邸に来るように呼ばれたことがあります。長官からは、リーマンショック後に米国が大胆に金融緩和して円が強くなったことを日本はだまって受け入れていたのに、なぜ円が少し安くなったぐらいで文句を言われなければならないのだとお叱りをいただきました。まったく正論ですよね。
私からは、「長官のおっしゃる通りですが、米国もデフレ脱却の政策のいわば副作用としての円安であればよいと言っているのだから、どちらが得かで考えるべきです」と説明し、何とか納得いただきました。深夜に及んだ激しいG7代理の電話会議を受けて、2013年2月12日に発表されたG7財務大臣・中央銀行総裁の緊急共同声明でも、日本への非難は避けることができました。
ブレイナードさんは、敵ながらあっぱれという優秀で立派な女性でした。電話口で小さな娘さんの声がすることがあったので、あとになって面会の機会に日本のお菓子を持って行ったら大変喜ばれました。
──今とはまるで逆の状況ですね。
中尾 今のように円が安すぎるのも深刻な問題です。欧米やアジアから日本にやってきた観光客は、日本の物価を「安い、安い」と喜んでいる。こちらは海外旅行にはこわくて行けない。シンガポールはもちろん、上海でもソウルでも物価は日本より高い。日本はアジアでは圧倒的な先進国だったのに、今や中間層に限っては相手国のほうが豊かな人が多くなっている印象です。背景には複合的な理由があるのでしょうが、極端な円安が一つ要因になっていることは間違いないでしょう。
米国のFRB(連邦準備制度理事会)や欧州のECB(欧州中央銀行)がコロナ後のインフレ率の上昇に応じて政策金利を上げているのに、日銀だけがまだデフレ脱却を確実にするためと、慎重な姿勢を続けています。米欧と日本の中央銀行のスタンスの違いが、最近の極端な円安を招いています。物価、そしてその前提になる為替の安定は、本来金融政策の責任です。円が安くなると株が上がる傾向はありますが、それは輸出志向で海外に資産がある大企業が有利になるからで、一般国民は輸入物価の上昇に苦しんでいます。日本人の購買力や存在感が小さくなることは、国益に反すると思います。
アジア開発銀行総裁として743日間出張
──2013年4月から2020年1月まで、黒田東彦さん(前日銀総裁)の後任としてアジア開発銀行(ADB)の総裁を務められています。
中尾 アジア開発銀行は、1966年にアジアの途上国に対して政府によるインフラ整備の資金を融資するために設立された機関で、本部はマニラです。発電所や道路を建設するための資金を貸し付けることが主な事業でしたが、教育や保健のプログラムへの融資、経済政策の改革を条件にする政策融資などに分野は広がっていきました。今では、気候変動対策などが重要なテーマになっています。
総裁の仕事は思ったより大変でした。私は、第1に、貸し付けや債券発行による資金調達についての政策と実施、第2に、68からなる加盟国(アジアが日、豪を含め49か国・地域、欧米先進国が19か国)や12の理事からなる理事会、メディアやNGOへの対応、第3に、3000人以上の各国から来ているスタッフからなる組織に関する予算、人事などの内部管理、の三つの役割があると考えてきました。スタッフは出身国に関わらず途上国の開発への意欲と専門性を持ち、ADBの目的、あるいは総裁の私に対して忠実だったので、そういう点で嫌な思いをしたことはありません。
──アジア各国にずいぶん出張されていますね。
中尾 総裁を務めた7年間で743日間出張しました。出張の際は、各国のリーダーたちや大臣たちと面会し、プロジェクトを視察し、各国のメディアや現地のADB事務所のスタッフと話をするので、朝から晩まで目の回るような忙しさでした。でも、各国への訪問は本当に得難い経験でした。もちろん、インドやインドネシアなどの重要貸し付け国への出張、モディ首相やウィドド大統領などトップとの面会は大事ですが、キルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタンなどの中央アジア、それからジョージアやアルメニアなどのコーカサス地方はなかなか訪れる機会がないところです。
中央アジアはソ連に吸収されていたことで苦労した時代もあるし、コーカサスはローマ、ペルシャ、トルコ、ロシアとの複雑な歴史がある。ウズベキスタンのサマルカンドはかつてティムール帝国の首都で、15世紀までは欧州をしのぐ文明を誇っていました。こうした国々を訪れると、それぞれの国家の成り立ち、異なるアイデンティティ、文化、それらへのプライドがよくわかります。
ちなみに、台湾は、1986年に中国が加盟したあとも、Taipei,China(なぜかコンマのあとにスペースがない)という名前で、別のメンバー「地域」として残っています。当時の藤岡真砂夫総裁の功績です。もっとも、ADBの総会には財務大臣や中央銀行総裁が来ますが、中国との関係で総裁として台湾を訪問する機会はありませんでした。
訪れる前には、その国の経済と政治の状況、歴史や文化をしっかり勉強しました。日本に面会に来た外国政府の人が、明治維新のことも何も知らなかったらがっかりだし、逆に豊臣秀吉や徳川家康のことを知っていたら好感が持てますよね。各国首脳は何を言い出すかわからないところがあって、外交関係で困っているとか、そういう話も出てくるので、多少緊張しました。
中国は尊敬される国になってほしい
──中央アジアなどは民主的とは言えない国もありますが、印象はいかがでしたか。
中尾 確かに、言論や結社の自由が制限されている国はあります。地域ごとの部族が強かったり、過激派の脅威があるような国では、強い権力を奮って統治しなければ安全が保てず、国が分断したりします。そうしたなかで、独裁的な傾向が強くなる国はあると思います。ある国では、大統領が話し出すと、中央銀行総裁や財務大臣も起立して直立不動で黙って聞いているのです。そんなことも実際に訪れてみないとわからないですよね。
ただ、どこの国を訪れても国のトップや財務大臣は、教育やインフラの整備、国の財政や成長の戦略について明確な考えを持っていると感じます。特に大臣たちは、ADBに対してどう支援してほしいのかといった要求も具体的でしたから、実りある議論ができました。
──2016年1月には中国がアジアインフラ投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank:AIIB)を設立します。中国が経済超大国になっていく過程をマニラから見ていらしたわけですが、中国の行方についてご見解をお聞かせください。
中尾 私が実際に会った中国の要人たちの多くが、経済分野のエキスパートで、客観的な視点を持つ立派な人が多いと感じていました。ADB時代に中国を16回訪問し、その度に財務大臣や中央銀行総裁と長時間の面会をしましたが、大変有益な時間でした。李克強総理や何人かの副総理にも会いました。今はだいぶ減らしていますが、ADBが中国を貸し付けで支援してきた歴史があるからです。
私はAIIBについては、日本が多額の資金を拠出してまで入る必要はないと考えていましたが、だからこそADBとAIIBが協力を進めることは意義があると思っていました。特に金立群総裁は中国の財務省の国際畑で私とキャリアが似ているので、何度も会って意見を交換しました。
中国は経済力が強くなっていくに連れ、対外的に自己主張が強くなってきた。特に習近平国家主席が「中華民族の偉大なる復興」を目標に掲げるようになってからは、その傾向が前面に出るようになりました。中国は自分たちの理屈で自分たちの行動を説明していますが、相手の国や世界でどう見えているのかあまり考えてこなかったのではないかと思います。私は中国の高官に会うたびに、「中国が偉大であることはすでにみんなわかっているのだから、できるだけ穏やかな政策を採ったほうがかえって尊敬されるのではないか」と伝えてきました。
こんなに知的で刺激的な仕事はない
──最近では国家公務員をめざす学生が減っているとか、働く環境が良くないのではないかといった報道に接することが増えました。最後に後進へのメッセージをお願いします。
中尾 確かに待遇の改善や、国会の質問の準備などに時間を取られ過ぎるといった問題への対応は必要だと思います。ただ、中央官庁の官僚には、民間企業にはない面白さがあります。学者のように勉強しながら、それを政策として実践できるわけだから、こんなに知的で刺激的な仕事はないとも言えます。仕事は面白くて、退屈している暇はなかった。優秀で公平な先輩や同僚、後輩に囲まれ、私自身の役人人生は本当に充実していました。
これからも有為な若者に、是非官僚をめざしてほしいと思います。何と言っても国の制度や政策を見ている中心的な企画部門です。ここが弱くなったら国民の利益にはなりません。同時に、政治や国民の側でも、官僚の中立性や専門性を尊重する姿勢が必要だと思います。それに、国家公務員も人間だから、民間企業の処遇やオフィス環境がどんどんよくなっている時に、いつまでも君たちは慎ましくやっていろと言われても、それではなり手がいなくなります。
言うほど簡単ではないけれど、国家公務員には、政治的なプロセスに巻き込まれすぎずに、知識の府としての矜持を持って、引き続き国民の長期的な利益のために頑張ってほしいと願っています。
──ありがとうございました。
聞き手 本誌:橋本淳一