公研2025年11月号「対話」
混迷の時代に辣腕を振るった政治家・原敬。
現代政治は彼の生涯から何を学び、
生かしていくべきなのか。
衆議院議員
齋藤健(画像左)
慶應義塾大学総合政策学部教授
清水唯一朗(画像右)
さいとうけん:1959年東京生まれ。83年東京大学経済学部卒。同年4月通商産業省に入省。91年ハーバード大学ケネディ・スクール留学、修士号を取得。2003年経済産業省資源エネルギー庁電力基盤整備課長、04年埼玉県副知事、09年自由民主党より衆議院議員選挙に出馬し初当選、現在6期目を務める。環境大臣政務官、農林水産大臣、法務大臣、経済産業大臣を歴任。著書に『転落の歴史に何を見るか─奉天会議からノモンハン事件へ』などがある。
しみずゆいちろう:1974年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は近代日本政治。博士(法学)。2007年慶應義塾大学総合政策学部専任講師、10年同大准教授、17年より現職。米・ハーバード大学客員研究員、台湾・国立政治大学客員副教授、ドイツ・ルール大学客員教授として日本研究の国際交流にも努める。著書に『原敬』『近代日本の官僚』『政党と官僚の近代』、編著に『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』などがある。
徹底した努力の政治家
清水 今日は日本の政党政治を切り拓いた政治家である原敬についてお話しする機会をいただきました。
原敬は研究者のなかでは人気が高いのですが、一般にはあまり人気がないと言われます。そうしたなかで、私が『原敬──平民宰相の虚像と実像』(中公新書、2021年)を書いた際に、政治家の中にはごくわずかですが「原敬好き」を表明する方があること、その中でも齋藤さんは格別だという噂を耳にしていました。政治家のリーダーシップや政治家論として、現代的な問題意識を踏まえながら、原についてお話しできればと思います。
さっそくですが、齋藤さんは原のことをどのように見てらっしゃいますか。
齋藤 一言に要約すれば、原敬は一人の優れた政治家の徹底した努力というものがいかに重要かを我々に示してくれています。
原の政友会は自民党の源流と言われており、今でも自民党の幹事長室には『原敬日記』や原敬の揮毫が飾ってあります。ですが「それをちゃんと見てんのか?」と私は常々思うわけです。今の自民党の若い政治家たちが、これほどの巨大な政治家の生涯を勉強することで吸収できるものは絶対にあるはずですから。
私は自民党の中央政治大学院で「背骨勉強会」という企画を主催しています。今年の第1回目では、私が「政治家のための原敬」という講義を行いました。彼の生涯や彼の努力について、80分間ひたすら話したわけです。
清水 具体的に原のどういった努力を伝えられたのですか。
齋藤 当たり前のことですが、まずは徹底した勉強です。たとえば原は山縣有朋の通訳を務められるくらいフランス語が堪能でした。しかも彼はパリの公使だったときに、フランス語で日記をつけたり、ロシアの国政を論じるフランス語で書かれた本を翻訳していたりもしました。
原敬だけかというと、そうではない。陸奥宗光も刑務所にいたときにジェレミー・ベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』を邦訳していて、出所後にそれを出版しています。それから「力の政治家」こと星亨も、移動中の電車の中では英書を読んでいたと言われています。
こうした当時の人たちの勉強に対する気迫を、今の政治家はどう思うかですよね。当時でさえこうだぞ、と。単に英語やフランス語ができればいいわけではないけど、世界を知ろうとするための勉強の量という意味で言うと「俺たち劣化してないか?」と思ってしまいます。
それからもう一つは、情報収集について我々はもっと意識を高めるべきということ。原は外務省にいたころ、公電や手紙で、色々な人から個人的に情報収集していました。香港領事だった中川恒次郎さんという人からは、公電以外に60通も手紙をもらって必死に勉強していたとか。
多様な経験も非常に重要です。原は自分の足で外国へ赴き、自分の目でその国の実情を見ることに心がけていました。そのうえで、たとえばアメリカについてはこんなことを言っています。「将来を考えれば、日米は同盟とまではいかぬとも緊密な連携が必要であり、そうすれば中国問題の解決につながる」──。当時の情況を的確に踏まえた、当時としては実に見事な洞察ですよね。
また原は交渉力にも長けていました。山縣有朋と5、6時間も議論したというのがよい事例ですよね。
あとは総理大臣のときに3年間大臣を変えなかったこともすごいと思います。
清水 そうですね。戦前の内閣は本当によく大臣を変えていましたが、原は変えませんでした。
齋藤 病気になった陸軍大臣・田中義一の代わりに山梨半造を立てたことと、大木遠吉を自分の後釜として法務大臣に任命したことがあったのみ。3年間でたったの2回。こういうところを見ると、参考になる部分がたくさんありますよね。
原敬について私が一番好きなエピソードを紹介しておきましょう。
ある人が入閣をしたかったができなかった。だからせめて議長になりたいという相談が来たとき、原はこう答えました。「君のため運動するものは何人もある。ナントカという3人は盛岡までやってきたが、彼らは実は君には不親切である。大臣というのは運動してなれるものではない。なったとしても運動したと笑われ、入閣に失敗すれば一層笑い者になる。君は狭量の人ではなく、今日まで不名誉なこともなく、誠実に政治のために奔走してきた、いわば篤望の人である。その名声を汚さないでほしい。運動することが最も名声を汚す。君が議長になることに意義はないが、自分が請け負えるものではない。議長選挙まで4カ月あるから、この間一切馬耳東風で過ごせば一般の同情も集まる。切に運動する考えを戒めておくほうが、君に損はない」と。
すごいですよね、この人間力。これなら断られても恨まない。
古今勉学事情
清水 今までのお話を伺っていますと、やっぱり本、読書を通じた学びが齋藤さんの念頭にあるように感じました。昨今の議員のみなさんはそれほど読書をされていないのでしょうか。
齋藤 原敬が司法省法学校にいたころの読書歴を見ると『古事記』のような日本の書物もありますが、基本的には中国の治乱興亡を記した歴史書や思想書が多いんですよ。彼はそういうものを読んで、知らず知らずのうちに「あるべき指導者の姿勢」を学んでいたんじゃないかと思います。中国の歴史書・哲学書は人間の成長にとってきわめて重要なんです。
ただ、私が国会議員になってから、中国のそういう書物について話題になったことは一度もありません。宮澤喜一さんのような昔の人はそうではなかったでしょうが。
清水 宮澤さんは『六韜』の話などをよくされていましたね。
齋藤 原敬が司法省法学校を受験したころは、入学試験に漢文が課されていました。ところが、入学したら授業はすべてフランス語で行われる。これってすごいですよね。中国の古典で受験者の「背骨」の有無を確認して、「背骨」があるとわかったら、今度はフランス語による徹底的なグローバリズム教育。明治ってすごいなと。
清水 東京に正則学園という学校がありますが、この「正則」は本来「英語で教える」という意味なんですよね。明治初期には、英語を通じて学んでいる分野は、翻訳ではなく、直接に英語で学ぶのが正しい方法と考えられていました。それが「正則」です。逆に、日本語で翻訳して教えることを「変則」と呼んでいました。
その後、欧米で専門知識を獲得した青年たちが博士号を取って帰ってくると、日本語で直接にさまざまな分野を専門的に学べる環境が整っていく。そうして「正則」という言葉は薄れていきました。
そう考えると、母国語で専門的な内容を教えられるのは現在においても日本の大学の強みになっています。一方で、齋藤さんがおっしゃるようなグローバリゼーションの必要性も理解できます。
齋藤 私は今こそ英語で教えるべきなんじゃないかと思いますけどね。
清水 学生たちは英語の授業もたくさん取ってくれています。今、私もJAPAN IN WORLD HISTORYという英語クラスを担当しています。16人クラスで10人は留学生や英語話者の学生ですが、残りの6人ほどは日本人学生です。このクラスはMIT(マサチューセッツ工科大学)歴史学部のWORLD HISTORYのクラスとジョイントで実施しているんですが、学生はとても熱心に参加しています。MITの学生よりも日本人学生のほうが積極的にディスカッションを進めています。
そうした状況を見ていますと、若者の英語力は、さほど心配ないと考えています。
齋藤 それは非常にいい。そしたら英語力がないのは国会議員だけかな(笑)。
古典が顧みられなくなった理由
清水 ただ、齋藤さんのおっしゃるような「バックボーンとしての読書」の経験を多くの人が持っているかと言われると、微妙なところですね。
齋藤さんはいつそうした教養を身につけられたのですか。
齋藤 私だって全然身についてないですよ。読むと言っても解説本ばかり。だけどそれでも、大変参考になる。
たとえば『貞観政要』にこんな趣旨の話があります。「天下を取る過程において貢献した人物は、天下を取った後の統治で地位につけてはいけない」と。天下を取るまでに必要な能力と、取った後の統治能力は違うということです。だから天下統一に貢献してくれた人にはあくまで金と名誉で報いるべきであって、ポストで報いてはいけない。総裁選はポストで報いてしまっていますが(笑)。こういう「統治のありかた」みたいな教養は、明治時代の政治家はもっと持っていたのではないかと。
清水 なぜ変わってしまったんでしょうか。『貞観政要』は江戸や明治の政治家たちも読んでいました。
齋藤 武士が絶対読まなければならない本の中に入っていますよね。旧制高校のころまではそうした「必読書」をみんなが読んでいたんじゃないでしょうか。
しかし戦後、「武士道や中国の古典のような考え方が軍国主義につながった」といった短絡的な考えが広まり、古典が顧みられなくなったのではないかと私は推測しています。
清水 そこにパラダイムシフトがあったと。面白いですね。
齋藤 こればかりはもう少ししっかり研究してみないといけないですけどね。
清水 外国語の話に戻りますが、原敬が学んだ司法省法学校はフランス語で授業を行っていました。ここでも授業についていけない人がたくさん出ています。面白いことに、なかでも決して優秀ではなかった人材が、その後外交官になります。条約改正交渉が喫緊の課題となるなかで、外務省はフランス語話者が少なく、難渋していました。このため、外務卿であった井上馨が人材を探していたところ、司法省法学校の卒業生に山のようにフランス語話者がいることに気が付いたのです。当時はすでに国内法の整備が進み司法官における語学のニーズは下がっていました。そうであるなら外交官に回してくれ、となるわけです。
原が外務省で存分に力を発揮できた背景には、司法省法学校時代のフランス語を話せる仲間たちが、ヨーロッパをはじめとする各国へ外交官として現場にいたことがあります。彼らとの密接な相互協力関係は、原にとって大きな力になりました。
齋藤 当時の原は官僚として15年ぐらい経験を積み、今で言う事務次官まで上り詰めました。その他にも、内務省大臣、大阪毎日新聞社長、北浜銀行頭取、そして内閣総理大臣までをも歴任したわけです。政で上り詰め、官で上り詰め、マスコミで上り詰め、ビジネスで上り詰め、本当にあらゆる分野で経験を積んだ人物でした。
清水 原は内務大臣として豊富な経験がありますからね。今年4月に、私は仲間の歴史家と共同で『内務省──近代日本に君臨した巨大官庁』という本を出版しました。当時の内務省が持つ力は絶大だったんですよね。閣議では、内務大臣は必ず総理の隣に座っていました。
齋藤さんは農林水産大臣も経済産業大臣も務められていますが、閣僚応接室において農水大臣・経産大臣はどのあたりに座られるんでしょうか?
齋藤 端の方です。戦後になっても内務省の後継組織である総務省や司法省の後継の法務省の大臣が総理と官房長官の両脇を固めているんですよね。未だにその序列なのかよ、と法務大臣のときに改めて感じましたね。
人事と成長
齋藤 私は通産省(現在の経済産業省)で、30~40代くらいまでの課長補佐クラスの人事の責任者をやっていました。人事の責任者というのは、単に適材適所だけではなくて、意図的に不適材不適所の人事をやることもあります。「この人には少し難しいかもしれないけど、これを契機に成長するかもしれない」と。だから人事っていうのは、職員がどうしたら成長するかということを試行錯誤する仕事でもあるわけです。そこで発見したことは、成長には多様な経験をすることがきわめて大事だということでした。
我々の人生は乗り越えなくてはならない難局の連続です。しかし多様な経験を積んでいれば、全く新しいできごとに直面してもある程度の見当がつく。これはあの人に話を聞いてみたらいいヒントがあるんじゃないか、とか。
清水 原敬はまさにその体現者だった。
齋藤 一方で、何らかのできごとが起きたときに、自分のどこが良くなかったんだろうか、と内省する力が欠けている人は絶対に成長しません。こうした力はもしかしたら中国の古典や日本の歴史書・伝記などから身についてくるものなのかもしれません。「内省力のある人が多様な経験をする」ということが成長にとって一番重要です。
持論ですが、原は国内外を問わず多種多様な経験を積んでいたからこそ、大局的な判断で大きな道の間違いをしないで済んだのではないかという気がしてなりません。
清水 直接的、身体的な体験をすると読書経験もより活きてきますし、ネットワークが広がることでいろんな情報が入ってきて、新しい局面に対応できるようになる。政治家には欠かせないスキルですね。
「多様な経験」を積む方法
清水 他方、たとえば世襲で議員になられたり、官僚から議員になられたりといった確定しているルートを歩むことが政治家として成功する方法になっているようにも思われます。こうした状況下で政治家はどのように多様な経験を積んでいくのでしょうか。
齋藤 意図的に積んでいくしか方法はありません。自分で海外に行くことや、いろんな人と会うということ、あるいは本を読むことも十分多様な経験です。そうしたアクションを通じて、知らないうちに吸収していくものも多い。だから政治家はそれを徹底してやっていかないといけません。
清水 齋藤さんの場合は、具体的にどのようなことをされたのですか。
齋藤 たとえば議員連盟への参加。私は今、オランダの議員連盟の会長をやっています。だからオランダとの関係に興味が湧けば、自分でコネクションがつくれます。政治家はそういうことが割と簡単にできるんです。背骨勉強会ではその役得を生かすことがいかに重要かということを強調しました。
清水 さきほど原の海外経験の話がありましたが、アメリカに渡航している際の彼の日記を読むと、ある特徴が浮かび上がってきます。彼は著名人にほとんど会ってないんです。会おうと思えば会えたはずなのに、大統領にもアンドリュー・カーネギーにも会っていない。むしろ彼は工場を見学したり、新聞社を訪れたりしました。政治家の外遊ですから、市長や大統領に会うのが定石だと思うんですが、原はちょっと外れています。どう見られますか。
齋藤 それって昔からですよね。彼が記者の頃から。古河鉱業の副社長になったときも、彼はすべての鉱山を自分の目で見ていますしね。そもそもそういう人なんですよ。
彼が秋田の尾去沢銅山などの視察に行ったときの話なんですが、彼はその敷地の面積、労働者数、賃金、主要都市の人口、生産物の量、士族の動向、住民権、地方議会の様子、農園工場とその中心人物、人情、女性の旅行の危険度、博打、刑罰、地形、道路、そして歴史に至るまで全て書き留めていました。アメリカに行ったときもそのときと同じノリだったんじゃないですかね。
日記を通じた内省
清水 今、書き留めるというお話があったのは重要だと思います。原でいえば、82冊に及ぶ長大な『原敬日記』がそれに該当しますよね。
実は『東京人(2025年11月号)』の「日記特集」で政治家の日記について書かないかと言われたので、原の日記を軸に書いたんです。
齋藤 政治家の日記といえば原ですからね。
清水 あれは全部で8500ページほどあるんですよ。恐るべき積み重ねですよね。
彼は平日にメモを書いて、週末に腰越の別荘で休息する際にそのメモを元に日記をまとめていました。以前、御厨貴先生の主宰で原敬日記の研究会を行っていたのですが、そこでは『原敬日記』は原が翌週の自分に向けて書いた戦略書であるという理解に辿り着きました。原は休日を内省の時間と捉え、腰越で休みながら翌週の仕事の準備に勤しんでいたというわけです。
今の政治家には日記を書いたり内省をしたりするような時間はなかなか確保しづらいですよね。
齋藤 内省する力も、自分の時間を取ることによってはじめて鍛えられてくるものですからね。
清水 私たち研究者の場合は、かろうじて夏休みと春休みがあります。そこで調整をすればなんとか研究と内省の時間が取れますが、政治家には難しいですよね。
齋藤 私は今でも毎週地元に帰って、駅でビラ配りなどもやっています。休んでばかりいたら落選してしまいます。
原の時代は国会議員であっても半年間の外遊等が容易に許可されていましたが、今同じことをやろうとしたら大変です。海外に行くだけで毎回許可を取らなくちゃいけない。多様な経験が重要なのに、それをするなという方向にどんどん規制が強化されていく。
清水 アンビバレントなところですよね。
昨年、政務調査会の歴史的展開を紐解く共同研究を行いました(奥健太郎・清水・濱本真輔編『政務調査会と日本の政党政治』(吉田書店、2024年)。政務調査会が通年化していくのは原内閣からなんです。政党政治が本格化するから政務調査会が力を持ち、いろいろ意見できるようになる。そうすると、閉会中も政務調査会が行われて、そこでどれくらい意見を言うかが、選挙区との関係でも大事になる。政党政治が充実すると政党政治家は忙しくなるという、なかなか悩ましいところですよね。
齋藤 現在、政務調査会はいちおう一年中活動しています。国会が開かれていれば活発だけど、閉会後は基本的にそれほど動かない。ただ選挙が行われるようなことがあれば、閉会後でも動きます。
清水 閉会中はそこまでではないですか。
齋藤 閉会中はほとんど動いていません。なぜかといえば、国会議員がみんな地元に帰っているから。
清水 私は一度閉会中に伺ったことがあります。農林部会でしたね。
齋藤 農林は閉会中にもやることがあります。ただ、珍しいケースだと思いますね。
原敬と安倍晋三
清水 現代において原を考える意義はどこにあるとお考えですか。
齋藤 抽象的になりますけど、原が活躍した時代っていうのは、ちょうど日本の転機だったんじゃないかと思っています。その後、1920年代に突入すると、手の施しようがないような勢いに時代が流されていく。あの頃の歴史のうねりの局面と、現代日本の情況は似ている気がしています。
原は1921年に亡くなりますが、その後の1920年代がきわめて難しい時代になって「原が生きていれば……」という声がほうぼうから上がるわけですよ。今でこそ原敬より高橋是清のほうが有名ですが、彼の存在は日本の政治史のうえで非常に重要な位置を占めています。しかし今の人はほとんど原のことを知りません。
原と安倍晋三さんを重ねるわけじゃないですが、困難な時代における彼らのような政治家の存在は、我々政治家に対してある種の重要な意味を持っているんじゃないかなと思います。
原が殺害されたちょうど100年後の同日時、つまり2021年11月4日の7時20分に、私は彼が暗殺された現場である東京駅丸の内南口へ赴きました。現地にはすでに十数人の人がいたんです。年配の方ばかりではなく、中年の方もいらっしゃいました。ファンなんでしょうね。ちなみに、国会議員は私だけでした。
清水 最近は若い方にも少しずつ人気が出てきましたね。
齋藤 それ先生のおかげでしょ(笑)。
清水 原と同郷の横澤高徳さんは、毎年11月4日に盛岡で行われる原の法要のために帰省される際に、東京駅の暗殺現場で手を合わせてから新幹線に乗られるそうですが、意外に若い方がたくさん、手を合わせていらっしゃるんだそうです。今でも慕われる方がいるのは、心強いことです。
齋藤 安倍さんが銃撃された現場へ、100年後の同時刻にいったい何人くらいが行くのかな、とか考えたりしますね。
ジェネラリストにもスペシャリティが必要な時代
清水 政治家として、あるいは人としてどう育っていくかという点について、齋藤さんが書かれた『転落の歴史に何をみるか──奉天会戦からノモンハン事件へ』(増補版、筑摩書房、2021年)を踏まえて伺わせてください。
同書ではスペシャリストとジェネラリストの話が出てきます。なかでも面白かったのが、帝国陸海軍の軍人は優秀だったにもかかわらず、スペシャリストになったことによって失敗したというくだりです。コロナ禍の際にも専門家と政治家の役割が議論になりましたが、スペシャリストとジェネラリストの関係、ジェネラリストのありようというのは、原の生涯からどのように見えてくるでしょうか。
齋藤 そういう意味では、原はあまり参考にならないと思います。原は指揮官でもあり、参謀でもあり、何でもできちゃうスーパーマンなわけです。そこから何かを抽出することは非常に難しい。
ただ、現代はジェネラリストにもある程度のスペシャリティが必要な時代だと言えます。経産省で半導体関係の仕事をしていたときにも感じたことですが、専門的な知識がなければわからないことが本当に多い。そういう部分に関しては、どこまでを誰に担当させるかを明確にすることが一番重要です。一切合切部下に丸投げするのも、自分一人で背負い込むのもいけません。適切な塩梅を判断すること。それに尽きます。
私が経産大臣だったとき、次官や局長などは、みな勝手知ったる後輩たちでしたから、そういう意味でやりやすかった。
清水 たとえば原内閣の場合、床次竹二郎を内務大臣に任じています。床次は原が内務大臣だったころの部下であり、内務官僚です。床次が就いたことで内務省のガバナンスは安定しました。
齋藤 しかし、あのときは床次さんもびっくり仰天だったでしょうね。
清水 齋藤さんも通産省の出身で、経済産業大臣になられましたね。どうでしたか。
齋藤 私の場合、人事をやっていたという経験が活きました。私、かつては部下の全員に対して点数を付けていたんですよ。それもあって、非常にやりやすかった。
経済産業大臣の任期終了時に、周りの職員が寄せ書きをしてくれたんです。その中に「あらゆる面で過去最高の大臣でした」と書いてありました。普通であればもっとわかりやすいおべんちゃらを書きますよ。だけど「あらゆる面で過去最高の大臣」というのは、本当にそう思ってない限り出てこない表現ですよね。嬉しかった。
清水 省庁の人たちは、自分に甘い大臣にはそんなこと言わないですよね。
優秀な官僚は絶対に必要
清水 さきほど、原内閣が同じ人材を使い続けたことを評価されていましたね。彼は当初からそれを目論んでいました。むやみに人事を変えると内閣の求心力が弱くなりますし、発信力も下がってしまいますから。
そのために原が考えたのが、しっかりした次官をつけることでした。当時の次官は政治任用職です。ですので、たとえばのちに舌禍事件を起こす中橋徳五郎文部大臣には、西園寺内閣の内閣書記官長を務めた内務官僚・南弘を充てました。元内務官僚を文部に充てたんですね。同様に、野田卯太郎逓信大臣のところには秦豊助という優れた内務官僚を任じました。
齋藤 人事ですね。人事。それがやっぱりジェネラリストに一番必要なことです。弱いところはある程度自分でカバーするにしても。
清水 米価政策についても、たとえ高橋是清が取り仕切る大蔵財務系が山本達雄の農商務系に介入しても、いざというときには原自身が仲裁に入る。そういう調整をしますよね。
齋藤 原は自分で調整できましたからね。内部事情にも詳しかった。しかし現代は原の時代の何倍も勉強しなくちゃいけないことがある。しかも使える時間は少ない。
私は大臣になって非常にやりやすかったけど、私の部下がやりやすかったかどうかはわからない(笑)。私は簡単に騙されないですから(笑)。
清水 そうだとすると、彼らもその状況に合わせた付き合い方をされるんじゃないですかね。
齋藤 実は私は、国会議員になってからは経産関係の仕事を一切しませんでした。経済産業委員会に所属をしたこともないし、自民党の経済産業部会で発言をしたこともない。確かに私は他の議員よりは気の利いたことも言えるし、目立つこともできる。でもそれってイージーな道じゃないですか。だから国会議員になってから十数年間、一度もそういうことはしてない。
2023年、経産大臣就任にあたって18年ぶりぐらいに経産省へ戻ったわけですが、やっぱり経産官僚は本当に優秀だなと感じました。ダントツに優秀です。世の中にはあまり理解されていないですが、よくやってもいます。なぜ私が彼らの仕事ぶりの素晴らしさをパッと理解できたかというと、私に経産省での経験があったからです。
そう考えるとたとえば、事務次官経験者で優秀な官僚を大臣に充てたほうが、日本のためにはよっぽどいいんじゃないかと思わないわけではない。
清水 かつて先生方とよく議論していたことですが、戦前の政治家はそれほど大臣になりたがっていなかった、と私は理解しています。むしろ党の総務委員として力を握りたい政治家が多かった。当時、総務委員は幹事長より格上でした。
齋藤 原の時代を見ていると、総務委員になりたかった政治家は多いですよね。
清水 大臣になると国会で答弁をしなければいけませんよね。当時の国会議員にとって答弁に立つ不安は相当なものでした。政策に対する理解に自信がない議員たちは、大臣になって恥をかくリスクは避けたい。そうすると、党内で権力を掴もうとする。ですから、彼ら党人にとっても官僚出身で有能な人物が大臣をやってくれればウィンウィンなわけです。それが政党政治の一つのかたちだったのだろうと思います。
齋藤 だとすると「末は博士か大臣か」みたいな言い回しが当時流行っていたのが不思議ですよね。
清水 しかし、それは政党政治家を通じてではありませんよね。
齋藤 一般の人から?
清水 いや、大学を出て、官僚となり、その末に大臣になっています。
政党政治家が大臣になることが定着するのは、原のように政党プロパーであった政治家たちが総理大臣になってからのことです。そこが転換点でした。
ポピュリズムと「国民のための政治」の懸隔
清水 民主主義とポピュリズムの関係について、齋藤さんはどうお考えでしょうか。原の時代と引き合わせてみるとどう考えられるでしょうか。
齋藤 政治とは国民のためのものである、ということがまずは大前提ですよね。ですが、国民のための政治が、国民の人気取りをすることによって実現できるのかという点に関しては疑問符が浮かびます。国民中心で国民のための政治を実現することが民主主義であるとするならば、それはポピュリズムと一致するものではないのではないでしょうか。
自民党が下野していた2009年は、私の初当選1年目だったのですが、当時、与謝野馨(故人)さんに「長期政権が敗北をして野に下った後で、再び政権にたどり着いた事例を調べ上げろ」と命じられました。最も適当だったのがオランダのケースでした。76年間政権を維持した後に敗れて、そこから政権を奪取するまでに8年かかっていました。その間に何が起こり、いかにして政権に返り咲いたかという研究に、私は必死で取り組みました。果てはオランダまで赴いて、さまざまな意見交換をしてきました。そこで最も印象に残った言葉は、「今やポピュリズムへの対応なくして選挙で勝つことはできない」という一言でした。だから、ポピュリズムへの対応は必要なんです。しかし一方で、ポピュリズムそれ自体になってしまってはいけない。
清水 ポピュリズムの要素は国民の側にあるわけですが、それが政党そのものになってしまってはいけませんね。
齋藤 一歩間違えると「国民のため」を錦の御旗にして、ポピュリズム的な政策をどんどん推進していく方向に流れてしまいますからね。
男子普通選挙法という難題
清水 原はポピュリズムに対してはどのように対応したと見ていますか。
齋藤 普通選挙制に対する彼の対応を見ていると明らか ですよね。ポピュリズムは大事である一方で、何でもかん でも民衆の言う通りやればいいというものでもない、とい うことを原は理解していたんじゃないかな、という印象です。
清水 漸進的ですよね。原が衆議院議員選挙の被選挙権の制限を直接国税10円から3円に下げるに留めたという点だけを取り上げて、原は普選に否定的だったと評する人もいますが、最後のメモには「余の後は普選」と書かれています。普選の意義について原はよく理解していました。
齋藤 そもそも選挙制度を変えるということは、そんなに単純な問題じゃない。
清水 野党が男子普通選挙法案を出したのは明らかに選挙戦略でした。原はそうではないかたちで、段階的に普選を実現していく方法を考えていた。一方で普選を待ち望んだメディアは、原のことを保守的だ、理解がないと糾弾しました。もちろん、原にも国民とのコミュニケーションを重ねていく必要があったことは否めません。
1921年の元日の新聞に、原は第一次世界大戦後の時代には国民の理解と自律が必要であると訴えますが、やや遅かった。
なぜ原敬は殺されたのか?
齋藤 背骨勉強会のときに、素晴らしい質問をした人がいました。彼女は勉強会の予習として、朝早くに東京駅の丸の内南口を訪れたそうです。そのときちょうど岩手県出身の観光客の方がいらっしゃって、お話をしたのだと。その方は「なんでこんな立派な方が殺されちゃったんだろうね」とおっしゃったそうです。彼女は私にこう質問しました。「日本政治史上屈指のスーパーマンでありながら、なぜ原敬は暗殺されてしまったのか?」と。
確かに政治家には業績やスター性も大事ですが、それ以前に大衆の支持が絶対的に必要不可欠なのではないかと彼女は言いました。原は大衆の心理を読み間違えたのではないかと。たとえば、当時の物価上昇に対する大衆の不安を軽視していたとか、普通選挙法や社会主義活動に反対していたとか。大衆に支えられてこその政治家だけど、原はその部分で何かを読み間違えたのではないか、というのが彼女の質問でした。
清水 それはどなたですか。
齋藤 茨城6区の国光あやのさんです。非常にいい質問をしますよね。でも、答えるのは難しい。
おそらく原は普選そのものに反対だったのではなく、時期尚早だと考えていたように思います。国際関係が荒れている状況下で普通選挙制を施行しても、いたずらに政治が混乱するだけだろうという判断ですね。当時の元老である山縣有朋も、民主主義政治ではいけない、官僚がしっかりすべき、という立場で政党とたたかっていました。事実、当時の政党はまだまだ未熟でした。
清水 原はある意味で山縣と民意の板挟みになっていたとも言えますよね。
齋藤 選挙で当選することだけ考えれば、大衆に迎合したほうがいいことは明白です。当時、原の普選に対する見解は国民の理解を得られていませんでした。だから当時の野党はそこを徹底的に攻撃したわけです。
原は国のためを思って愚直に仕事をしていたのに、世論からは少しずつ嫌厭されるようになっていきました。そして総理就任3年目に入ると、国民の不満が行き場のない怒りと化して原に牙を剥いた。だから原は死んだ、ということなのではないかと私は質問者に答えました。
普選問題の他には、皇太子外遊(裕仁親王の欧州訪問)の件も世間に悪く捉えられてしまいましたよね。
清水 その件に関しても見解が分かれていましたよね。外遊経験ができたことで、皇太子が広い視野を持つことができたことを評価する見方もある。
齋藤 裕仁親王自身は外遊経験ができてよかったと言っているんですよね。
原のやろうとしたことは日本にとって間違っていなかったけれど、ポピュリズム的な世論には受け入れられなかった。一方で、原をよく知っている者からは極めて高い評価を得ている。本当に難しいところですよね。
原敬を暗殺した中岡艮一は、失恋や文学賞落選といったごく個人的な不満を抱えた、一介の若者に過ぎませんでした。しかし中岡の不満は少しずつ世間に漂う反原内閣の風潮と結びついていき、彼は原をしつこくつけ狙うようになりました。何度か暗殺に失敗したものの、最終的には成功したという点では、安倍さんのときと似ていますよね。また、日本が失ったものの大きさという点でも。
今、我々国会議員にできることは何か。それは我々が原や安倍さんのような「失ったもの」とのギャップを埋める努力をし、少しでも彼らに近づこうと奮闘することではないでしょうか。
政治が取りこぼし続けてきた層
清水 齋藤さんにお話を伺っていく中で、明治維新という言葉が思い浮かびました。「万機公論に決すべし」で知られる五箇条の誓文ですが、その第2項には「上下心を一にして盛んに経綸を行うべし」、第3項には「官武一途庶民に至るまでおのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とあります。
私はこれこそが明治維新の精神だと理解しています。人々に「夢を描いていいんだよ、あなたたちの夢を実現できるような社会をつくるから」という政府の決意表明ですよね。したがって、藩閥政府はたとえ自分たちに不利益であっても、さまざまな政策を推進しました。それが新政府としてのレゾンデートルだったからです。
第一次世界大戦の後、人々が自己実現を果たしていく社会の中では、逆説的に自己実現ができてない人を極端に蔑んでしまう風潮がありました。したがって中岡のような、頑張ってはいるけれどうまくいかない人たちが、思い悩んでいくことはある意味では必然です。しかし原の持っていたネットワークの中では、彼らのような存在はなかなか見えなかったのではないかと思います。
齋藤 先ほど歴史のうねりの話をしましたが、今の自民党もそういう重要な局面にさしかかりつつある。これだけ選挙に負けているし、中岡みたいな人が再び出てきてしまったわけですから。まあ、安倍さんのケースは宗教が絡んでいるから、少し違うんですけど。ただ、思うような生活ができ ない、夢がない、という人が増えてきていることは事実です。
清水 第一次トランプ政権の誕生をアメリカ政治研究者が予見できなかったのも、まさにそうした点が見えてなかったからだと、同僚の中山俊宏さんから伺ったことがあります。確かに、今回の参議院選で参政党に投票した人たちも、私たちからはあまりよく見えていない人たちでした。一人の視点からは見える人と見えない人がいるという事実を改めて突きつけられた気がします。
齋藤 一方で、トランプ支持者と参政党支持者の類似性を強調しすぎるのもよくないと思いますけどね。
清水 先ほど齋藤さんが挙げられたオランダの例のように、ポピュリズムとの適切な距離感の取り方こそが、これからのリーダーシップや政党政治のあり方において重要なファクターになるのでしょうね。
齋藤 そういう意味では原敬の例から学ぶことは多い。55年体制の確立から70年間、自民党はほとんど政権を維持してきました。しかしポピュリズムを乗り越える力を身につけなければ、これからの時代は厳しい。
清水 政権交代できる、しっかりした野党がいないという状況も、55年体制以降の自民党の大変なところですよね。少数与党のなかで、どのように責任政党としての役割を果たしていくか。少数与党が常態であった戦前の政党内閣や、そのリーダーシップから学ぶところは多いように思います。
齋藤 何にせよ、自民党は新しい局面に入りそうです。高市政権がそこをうまく舵取りできるかどうか。野党はバラマキ的政策の実現を迫ってくる。少数与党としては応えざるを得ない。ポピュリズムとの戦いは、原の死後100年経っても政治の最も大きな試練なのではないでしょうか。(終)