岐路に立つ政党政治 日・ラテンアメリカの比較で見る 政治が動く瞬間について【大川千寿】【馬場香織】

B!

『公研』2024年9月号「対話

既存政党への支持が低下し、無党派層が増加し続けている。

この現象は日本だけではない。

背景には何があるのだろうか?

日本とラテンアメリカ諸国を比較しながら考える。

 


おおかわ ちひろ:1981年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科修士課程修了。専門は、政治過程論、現代日本政治。東京大学助教、熊本大学特任准教授、神奈川大学法学部助教、同准教授などを経て2021年より現職。編著に『つながるつなげる日本政治』がある。


ばば かおり:1980年生まれ。東京大学法学部卒、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門はラテンアメリカ政治。日本学術振興会特別研究員、アジア経済研究所 地域研究センター・ラテンアメリカ研究グループなどを経て2016年より現職。著書に『ラテンアメリカの年金政治』、編著に『ラテンアメリカの市民社会組織:継続と変容』がある。


 

1993年の政権交代とメキシコシティの抗議運動

 大川 今日は「岐路に立つ政党政治」というテーマで、政党と有権者の関係について様々な角度から考えていきたいと思います。私は日本、馬場先生はラテンアメリカの現代政治を対象に研究していますから、両者の比較を交えながら話を進めていきます。

 最初に少し自己紹介をさせてください。私が専門としているのは、「政治過程論(政党論)」と「現代日本政治」です。政治過程論は政党、政治家、有権者、メディアなど政治に関わる様々な主体の実態や変容を実証的に研究・分析する政治学の分野で、しばしば統計的な手法も用いられます。私は日本の現代政治を対象に、主に政党や政治家の政策や意識に着目しながら、政党に求められる役割とは何かといったことを現在進行形で研究しています。

 私が政治に深く関心と興味を持ったきっかけは、38年間続いた自民党の長期政権が終わり、細川政権が誕生した1993年の政権交代でした。当時、小学校6年生でしたが政治家たちが侃侃諤諤とやりあっているのを見て、単純におもしろいと思ったんですね。子どもながらに、何かが大きく動いていることを感じとっていたのでしょう。このときの一連の激動が契機となり、大学でも政治や政党について勉強したいと考えて、今に至っている感じですね。あれから30年が経ちました。当時、「自民党政権が38年続いた」と聞いて、ずいぶん長い年月のように感じましたが、30年という年月を自分がいざ経験してみるとあっという間でした。そして、93年の政権交代のような激動は日本においては希少なことなのだということを実感しています。

 馬場先生は、今のご専門にご関心を持たれるきっかけはありましたか?

 馬場 私は比較政治学を専門にしていますが、最初から政治に強い関心があったわけではありませんでした。元々はスペインの歴史を専攻したいと思っていて、スペイン語を学んでいたんですね。ただ割といろいろなことに関心が向くタイプで、漠然とですが途上国への関心を持ち続けていました。

 修士課程への進学を考えていたときに、ある教員から「スペイン語をやっているのなら、ラテンアメリカ研究はどうか」と勧められたんですね。ちょうどメキシコに留学できるプログラムがあったこともあって、「行ってみるか」という気持ちになりました。

 このときに、メキシコシティで目の当たりにした市民による大規模な抗議運動にたいへんな衝撃を受けることになります。今年の9月末で任期が終わるアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール現大統領がメキシコシティの市長だった2005年のことでした。彼は2006年の大統領選挙への出馬を考えていましたが、当時の政権から露骨な妨害を受けます。政権は市長の免責特権を剥奪して、行政手続き違反というかたちで起訴しようとしました。要するに、大統領選への出馬を絶たせる狙いが市民の目に明らかだったわけです。メキシコは2000年に71年続いた権威主義体制に終止符が打たれて民主化した直後でしたが、この措置に対して市民から大きなプロテストが巻き起こりました。

 外務省からは「行かないほうがいい」と止められていたのですが、若く好奇心が旺盛だったこともあって、友だちと一緒に出かけていきました。街頭には非常に多くの人が集まっていて、中央広場まで抗議しながら練り歩いていくわけです。その光景を見ていましたが、本当にすごい盛り上がり方でした。

 結果、市民によるこの抗議運動を受けて、その後に免責特権の剥奪が翻されることになるんです。

 

人々が行動を起こすことで政治が実際に動く

 大川 市民によるプロテストが実を結んだ結果になったわけですね。

 馬場 その通りです。一連のプロセスを目の当たりにして、人々が行動を起こすことで政治が実際に動くことを体験することになりました。初めてのことでしたから、政治というものは本当におもしろいのだなと感じました。ちなみにロペス・オブラドールさんは2006年、2012年の大統領選挙に出馬していずれも敗退しましたが、2018年の大統領選挙に勝利しています。

 メキシコ以外にもアルゼンチンやウルグアイに滞在したことがありますが、ラテンアメリカ諸国はどこも政治が生き生きとしていますよね。自分事として考えて運動にも参加するし、怒り喜ぶといった感情をものすごく明瞭に表現します。日本とはまた違った社会や経済の問題を抱えています。それらの課題は一朝一夕には解決されないし、多くの国民が不満に感じている治安も決して良くなっているわけではありません。けれども、決して諦めようとはしない彼らのスタンスは勉強している者にとっても魅力ですね。ラテンアメリカの政治研究を続けている根底には、そこに惹かれ続けていることがあると思っています。

 ですから私は、政党政治の外側で展開している抗議運動や社会運動などが関心の始まりにありました。運動が暴動に発展してしまうと、政党政治のフォーマルな側面が危うくなる危険性も抱えることになります。しかし同時に、選挙と選挙のあいだにおける応答性の確保という点では重要な役割を担っているのだとも考えることができる。日本では、こうした運動が良くも悪くもあまり大きくならないという特徴がありますよね。

 大川 確かに今日の日本では、政治への不満があったとしても、暴力や大規模なプロテストというかたちでは顕在化していない状況がありますね。

 馬場 逆にメキシコの場合はエスカレーションしがちです。過激化する背景を探る上でも今日のテーマである政党政治との関連は無視できませんから、そのメカニズムを把握しようと常に関心を持ってきました。ポピュリズムの台頭、あるいは大規模なプロテストの頻発によって政党政治が危機的な状況を迎えている現状も気になっています。ラテンアメリカを含めて、途上国では民主化した直後は政党が政治のド真ん中にいてまさに主役だったわけですが、今は多くの国でその存在感が低下していることが指摘されています。

 大川 確かに日本でも政党の存在感は低下していて、政党政治は危機的な状況にあると言えます。今年7月に行われた東京都知事選挙では様々な問題がクローズアップされましたが、やはり政党政治のあり方に大きな影が生じていることを象徴する選挙になったということが一つの重要なポイントであったと思います。今日の対談を通して、ラテンアメリカの例も参照しながら、政党政治が良いかたちで力を取り戻すための解決策を示せればいいなと思っています。

 

東京都知事選挙の結果をどう見るか?

 大川 それでは政党政治の仕組みや政党と有権者の関係について考えていきたいと思います。日本では従来から、主権者である国民からの政治システムへのインプットが弱いと指摘されてきました。政党は選挙などの機会に有権者の要望を取り入れて(インプット)、それを受けて政策を打ち出すわけです(アウトプット)。提示された政策を受け止めるという意味での有権者の応答性は一定程度ありますが、さらに一歩進んで政治に対して要望を伝えるという点では弱いのです。この日本の特徴は根強く、伝統的とも言えるところがあります。そして今日に至るまで経路依存を伴って、大なり小なり続いてきてしまっている。

 代表制民主政治を謳う以上は、政党政治の善し悪しを規定する要素として、有権者によるインプットが極めて重要です。もちろん、政党あるいは政治家の側にも問題があることは否めません。しかし、このインプットのプロセスがうまく機能していないことは、現状の日本政治の限界を端的に物語っているのかなと思っています。

 先ほど馬場先生からメキシコシティの元市長(現大統領)への政権からの弾圧と、それに対する市民のプロテスト行動をご紹介いただきました。この事例は、国政と地方政治の関係性という観点から見ても重要な示唆があると思います。国政と地方では文脈が異なることもあるし、国政政党の影響力がどの程度地方まで及ぶのかといった点には留意が必要でしょうが、今回の東京都知事選に関して言えば、国政政党が存在感を示せなかったことは明らかだろうと思います。

 馬場 政党が民意をインプットできていないというご指摘がありましたが、まさに今の政党政治が抱えている問題の根幹なのかもしれません。日本は国政では議院内閣制ですが、地方自治体においては直接選挙で首長を選ぶことができることも大きな特徴になっています。そこを踏まえたうえで、都知事選ではインプットのあり方に関して、これまでの国政選挙とは違ったところは感じられましたか?

 大川 今回は前回と比べて投票率が伸びました。国政レベルで派閥の裏金事件、すなわち政治とカネをめぐる問題で自民党への批判が高まり、岸田政権の支持率が下がっていましたから、有権者としても何らかの声を上げる機会を欲していたタイミングだったのでしょう。首都のリーダーを決める都知事選は国政にも一定の影響を与え得る位置付けにありますからね。ただし、繰り返しになりますが、だからと言って選挙を通じて各政党の存在感が示され、活性化したということではありませんでした。

 当選した小池都知事は自民党の支援を受けましたが、政権の支持が低迷していたこともあって、ステルス的支援に留まり、党派性はあまり表には出さずに選挙戦を戦いました。一方の野党は、蓮舫さんが出馬して立憲民主党や共産党の支持をかなり前に示しながら戦ったわけですが、うまくいかなかった。

 その中で石丸伸二さんが2位に入る躍進を見せた。彼はそれまでに安芸高田市長を務めており、地方政治の経験がある方でした。つまり既成政党が十分な役割を果たせていないなかで、地方から既存の政治への「待った」をかけたという文脈で捉えることもできる。もちろん石丸さんがSNSを駆使する戦略をとった点などは、注目すべき新しいポイントではあります。

 ただ構図としては、90年代半ばに既成政党への不信感から東京で青島幸男さん、大阪で横山ノックさんが知事に当選したことや、その後も改革派の首長が登場したことと流れとしてはよく似ていますよね。このように政党政治が機能不全に陥るなかで、地方から異議申し立てをする構図はこの30年を振り返ってみても何度か起きています。今回の都知事選でもそうした異議申し立ての票が、既成政党に行かずに石丸さんに向かったのだと思います。

 

石丸現象の背景には既存政党への不信感がある

 馬場 有権者のなかに、既成政党や政治システム全体に対する拒否感が広がっている印象があります。石丸さんはいわゆる「政治屋」を強く批判しましたが、今の社会の空気感にそれがうまくマッチしたのだと思います。彼は安芸高田市での首長の経験がありますが、日本の場合は既存の政治に「ノー」を突き付ける政党や新しい動きが地方から起きてくるパターンがあることはおもしろいと思いました。

 それに加えて、石丸さんを30代以下の若年層が特に支持した点も大事なポイントだと思います。彼の躍進が、既成政党に反対することで支持を伸ばすポピュリスト──この表現を使うのが適切なのかどうかは難しいところがありますが──的な側面があるのかどうかも関心があるところです。

 大川 私が教えている大学でも、選挙の最中に石丸現象を取り上げている学生がいました。もちろん今の若者と言っても、どういう政治意識を持っているのか、その傾向を一概に判断するのはむずかしいところがあります。ただ学生たちと話をしていても、既存の政党に対する見方はかなり厳しいものがあると感じています。現状に不満があるのであれば、政権与党ではなく野党に期待が集まっても良さそうなものですが、野党の中でも、立憲民主党や共産党といった政党には「改革への意欲を見出せない」という捉え方をする若者が多い印象があります。自民党もイヤだけれども、旧来型の野党もイヤなわけです。

 維新の会が出てきたときに第3極的な立ち位置から支持を広げていきましたが、今回の石丸さんの躍進も同じような背景があるのでしょう。それに加えて、SNSなどを用いた戦術が今の若者たちの関心を掴むことに成功したのは間違いないと思います。石丸さんは、安芸高田市の市長時代に地方議会の現場のやり取りを、SNSなどを通じて発信し、それが大きな注目を集めることになりました。そもそも若者たちが地方の政治そのものに関心を寄せているのかと言えば、大いに疑問です。2019年に私が『神奈川新聞』と共同で実施した高校生調査の結果を分析しても、若者たちの地方政治への関心は国政に対する関心と比べて明らかに低いわけです。

 地方政治においては、政治家はより有権者の近くにあってやり取りをし、政策を訴えかける民主主義の実践の場、「民主主義の学校」であることが期待されています。しかし、現状そうしたつながりを持てているのかと言えば、決して褒められたものではないですよね。そんな中で、発信力を通して地方政治の現実の一側面に注目させることに成功した石丸さんの戦略は、注目すべきところがあるのだと思います。

 効率的に自身の政策や考え方、その優位性を訴えかけようと思えば、SNSのほうが訴求力はあるのかもしれません。さらに、国政よりもむしろ地方政治のほうが距離の近さを反映してSNSが大きな影響力を持ち得る可能性があります。石丸さんは、そうした特徴をうまく突いたところがありました。まったく地盤のない東京においてもあれだけの票を獲得したことには国政を主たる研究対象としてきた一人として非常に驚きましたが、以上のような要因が重なったことが背景にはあったのかなと今は考えています。

 

無党派層が8割に達したメキシコで起きたこと

 馬場 メキシコも数年前から既存政党への不信感が政治のシステム自体を大きく動かすことが起きています。ただし、それは必ずしも地方からの動きではなくて、国政のド真ん中から変化が生じました。現職の大統領はいわゆるマーベリック(異端者)と呼ばれる、元々は既存政党のなかにいた人物です。彼はそこを離れて新興左派政党を立ち上げます。この政党は、与党も野党も同じように拒否すべき既存政党と見做すことを徹底しました。このスタンスが有権者に支持されて大きく票を動かした結果、大統領選挙に勝利して政権を獲得して議会でも多数派を維持しています。今年6月に大統領選では、与党候補のクラウディア・シェインバウムがメキシコ初の女性大統領に選出されたのに加えて、同日実施された上院、下院の議員選挙でも与党連合は圧勝しています。

 必ずしも若い世代の経済的な不満だけではなくて、メキシコの場合は全世代的な不満があります。それが治安や政治の腐敗の問題などが引き金になって、既存の政治システムへの不満として一気に噴出することになりました。メキシコでこうした政変が起きた前提には、既存政党への評価がどんどん下がっていたことがあります。ラテンアメリカのなかでもメキシコは比較的政党への帰属意識が高かったのですが、この15年ぐらいのあいだに無党派層がどんどん拡大していき、約8割に達していました。こうした状況で何か引き金を引くような事件が起きると、そこに出てきたアウトサイダー的な人物や新たな政党に票がワーっと流れる現象が顕著に見られるわけです。

 このあたりは、今回の自民党の裏金問題に端を発した政治不信にも似たところがあると感じています。日本にもすでに似た状態にあって、同じような事態が起こる準備は整っているのかもしれません。

 大川 今年前半までの世論調査結果によれば、地方を中心に長年基盤を築いてきた自民党の支持率が大きく下がりました。だからと言って、野党側も伸びていない。無党派層がかなり増えていますから、メキシコの状況と似ていると言えますね。

 ただ、自民党は非常にしぶとい政党ですよね。派閥という党内の非公式な組織の連合体でもあるし、個々の政治家が緩やかに集うかたちで成り立ってきたところがあります。ですから政党としての組織や結束はもともと強力なわけではありませんが逆に言うと柔軟性があり、長年与党であり続けたあいだに築き上げた地方でのネットワークは今も生きています。いわゆる「地盤」が自民党にとって他党を凌駕する資産になっています。その強みも最近では弱体化が指摘されていますが、そんなに簡単に崩れることはないでしょう。

 一方で、昨年末から今年にかけて露見した政治とカネをめぐる一連の騒動で腐敗したイメージが拡がっています。政治倫理に関わる問題に関して様々な不正が露呈したことは、政権や自民党政治の正統性に関わる事態であり、有権者の不満や怒りが大きくなっている。冒頭で触れた30年前の政治改革のときから、積み残してきた課題が今になって現れているとも言えるわけです。こうした状況もあって春の衆議院の補欠選挙では、自民党不戦敗も含めて野党が勝利しました。自民党にとっては憂慮すべき事態が見え始めている。

 そういうなかでまもなく自民党は総裁選挙を迎え、野党側も立憲民主党の代表選挙があります。自民党は相変わらず「党の表紙を変えればいい」という発想の議員が少なくないようですが、これまでの成功体験だけにすがっていては足元をすくわれるのかもしれません。もう少し根本的な見直しが求められる局面にきているように感じています。

 自民党の基盤や正統性が一気に流動化して、メキシコで起きたようなことが日本でも起き得るのかと言えば、今の段階ではもう少し様子を見る必要があるでしょう。ただ、背景を考えるとやはりメキシコと共通している点はたくさんありますね。

政党と有権者のつながりに注目する

 馬場 今の政党政治の問題点を考えるうえでは、政党と人々とのつながりにあらためて注目するのは重要だと思います。自民党は今までは総裁を変えることで、低迷した支持率がまた上昇することを繰り返してきました。ある種ごまかしてきたわけですが、さすがにそれだけでは難しくなっているのかもしれません。根本的な変化を求めるのであれば、有権者と政党の新たなつながり方を模索する必要がありますよね。派閥が元々持っていた機能は、業界団体など様々な中間団体を通じて有権者と党とのつながりを明確化するところにもあったのだと思います。ただ今ではそうした結び付きはだいぶ失われてしまっている。

 大川 今度の自民党総裁選は、告示前から10人以上の出馬が取り沙汰されるという過去に例を見ない状況が生じました。派閥の連合体として成り立ってきた自民党ですが、今回、これまでの安倍派(清和会)や岸田派(宏池会)など伝統ある派閥が解散を表明したことで、ある種フタが外れて、党内が流動化しているのを反映しているのでしょう。

 そもそもなぜ政党ができるのかと言えば、議会運営や民意の調達に際して一定のグループをつくらないと効率的に政治が回らないからです。そして派閥は、様々なところから民意を吸収しつつ、政党内にある多様な意見をある一定の方向に集約する単位としての役割を担ってきました。ですから、派閥には大政党のなかにできる政党という側面があるわけですよね。そこが流動化している今、新総裁はもちろん首相として国の舵取りに相当な労力を注がなければならないわけですが、その前に党内統治に苦労することになるのかもしれません。

 新しいリーダーによって支持が上がることはプラスではあるのでしょうが、党としてまとまるための要でもあった派閥のない自民党を統治するという経験を初めてすることになる。短期的には風が吹いたとしても、中長期的に安定したリーダーシップを発揮するのはそう簡単ではない可能性があります。

 派閥は裏金事件の舞台となったこともあり、大多数の国民から厳しい目で見られています。なので、そこは是正をしなければいけない。ただ、政党の運営や統治のあり方を考えたときには、意外と重大な問題を孕んでいるように思います。これまでも自民党では派閥解消が何度も謳われながら復活してきた歴史があるわけですが、総裁選でどのような議論が展開されるのか興味深く思っているところなんですね。

 ラテンアメリカ諸国の政治を見たときに、政党と派閥の関係あるいは党内統治を考えるうえで参考になるような事例はありますか?

 馬場 ウルグアイの例は、参考になるかもしれません。今のラテンアメリカで唯一、政党政治が活発に機能していて支持されているのはウルグアイです。ウルグアイには左派の「拡大戦線」という政党連合があって、その中に政党や派閥を抱えています。労組や年金受給者団体などのいろいろな団体も活発に参与していて、それぞれが自立的に存在しています。これらの諸団体は政党内の派閥ともつながっています。加えて、草の根の地方のコミッティーがあって政策論議が活発に行われています。活発な草の根の党員がいることも大きな特徴です。

 緩やかな集合のようでありながら帰属意識が強くて、システムとして安定した政党連合になっている。この事例では、派閥は各集団の利益を集積して調整する役割を担っています。政策をつくるうえでは、そうした派閥からの要望を反映させるかたちになっている。この機能がきちんと果たされていれば、派閥自体は悪い存在ではないですよね。先ほども指摘しましたが、おそらく過去の日本でも派閥はそうした機能があったのかなと想像します。

 

自民党は政策を軸に成り立ってきた政党なのか

 大川 確かにそういう面はあったとは思います。派閥が政党政治において果たす役割が大きく、だからこそ派閥の領袖同士がそれぞれ自分たちを支持してくれる集団の代表として、総理大臣の座をめぐって激しく競い合った。派閥が多様な利害を調整するという、ある意味では健全な機能を果たしてきた面もあると思うんですね。しかし、往々にしてそこにお金が絡んでいたことで腐敗の温床にもなっていたわけです。

 その反省から1990年代以降、政治改革や行政改革が断行されることになりました。一連の改革を経て、首相や官邸の権限が強化されることになります。つまりボトムアップ型からトップダウン型へと政策形成のあり方が大きく変わったわけですが、それによって派閥の政策形成の機能が弱体化した側面もあったのだろうと思います。

 ただ、そもそも自民党という政党は政策を軸に成り立ってきた政党なのかという根本的な疑問があります。結党当初は冷戦という状況もありましたし、社会党の政策的な対立軸となることが期待されていた面があったのですが、高度成長のなかで自民党はいわゆる包括政党化していきました。自民党を成長させ、その政権が長期政権化する源泉となったのは、利益の誘導です。イデオロギーを超えて高度成長の果実としての利益を分配して、その見返りとして支持を調達していきました。自民党は利益に媒介されたかたちで、政党政治を優位に展開していったわけです。

 言ってみれば、自民党はアメーバのように日本社会の中に基盤を広げていきました。ウルグアイでは草の根コミッティーで様々な政策の検討がなされているとご紹介いただきましたが、どうも日本はそうした側面が弱いですよね。結局、利益分配も高度成長が終わると難しくなっていきました。しかし日本の場合は、自民党が一度築いたネットワークを脅かすような野党は存在しなかった。そのルートが今も残っていて、惰性的にそれが続いてしまっているのが現状だろうと思います。地方のコミッティーから有権者の意見を草の根的に吸い上げる流れがあるウルグアイは、確かに理想的だと感じました。ただ利益配分にまつわる汚職などに有権者が反発することは、ラテンアメリカの政治でもあるのではないかと思います。

 

政党政治が機能不全に陥ったエルサルバドル

 馬場 ウルグアイの事例は例外中の例外で、あとの国はほぼすべてうまくいっていないですね(笑)。例えばエルサルバドルは、政党政治が機能不全に陥った国です。今ナジブ・ブケレという若い大統領が2期目を務めています。ブケレは憲法で禁止されている大統領の連続再選を、自身に近い判事を任命した最高裁による判断によって可能にするなど、権威主義的な傾向があるとされています。彼が頭角を表してきた背景にも、既存の政党政治に対する若い世代からの反発がありました。エルサルバドルは内戦の当事者同士の二大政党制でしたが、内戦を知らない若い世代のボリュームが増えてくると、政権が治安や雇用などの問題を改善する政策ができていないことに不満を募らせるようになり、そこに政治家の汚職問題が重なりました。

 自民党のようにアメーバー状に政策スタイルを変えることで課題に対処できれば良いのですが、それができなければ政治システム自体が行き詰まってしまいます。そうしたタイミングでブケレのような既存の政治を強く批難するリーダーが出てくると、一気に支持を集めるという現象がラテンアメリカでは見られます。

 けれども日本の場合は、比較的若い世代が現状の政策に不満があっても、それが政権与党への批判には向かわないという不思議な特徴がありますよね。前回の衆議院選挙でも若い世代は、自民党に投票した割合が高いことが報道されていました。若い人たちは雇用、経済、ジェンダー平等、子育てなどのイシューに関心がありますが、おそらく若い世代の意見にすべて合致する政党は今のところないわけです。ですから日本はそうした状況のなかで、ねじれのようなかたちで投票先が決まっていくことが起きている。世代ごとの関心や利害が変わってきているなかで、政党の側はどのように対応していくべきなのか。政党政治のシステムが今後うまくつながっていくためにも、ここはとても重要ではないかと見ているんです。

 大川 確かに、2012年の自民党の政権奪還以後は、若い世代はより自民党に投票する傾向があると言われてきました。ジェンダー平等などはどちらかと言えば、立憲民主党や共産党が強く主張しているのでイシューを重視するのであれば、それらの野党に投票するはずです。しかし、立憲や共産党投票者は高齢層が厚いという現実があって、若い層からの票は十分獲得できていません。

 それでは若い人たちはなぜ自民党に入れるのか。それは結局のところ、自民以外の政党はあまり知られていないという現実があるのだと思います。報道も基本的には与党を中心になされますからね。この9月の立憲民主党代表選挙では、現職の泉健太さんが再選出馬をめざしていますが、巷で彼の知名度がどのくらいあるのかと言えば、心もとないところがあります。そもそも野党の存在が知られていないのです。

 自民党は今日、選挙プロフェッショナル政党、すなわち選挙至上主義的な政党としての性格を強め、いかに選挙で票をとるかに常に力点を置いています。最近は特に憲法改正などを通して保守的な価値観を重視する姿勢を示してはいますが、選挙のときにそれを前面に押し出すのかと言えばそうではない。党内の議員の政策的志向も多様であって、景気の低迷がそのときの課題になっていれば、構造改革や財政規律を先送りしてでも経済や雇用を回復させる政策を優先させるというある意味では現実的な判断をしていて、それが功を奏しています。時代とともに政党のかたちを変えながら、それなりに有権者の要求に敏感であろうとはしてきたのでしょう。

 ただし、選挙至上主義的な性格はかつての民主党にも言えることです。民主党の場合はマニフェストを主導して有権者に耳触りの良い政策を打ち出しましたが、それを実行できなかったこともあり、その後の大きな失望につながりました。最終的には「政権担当能力を持った政党ではない」という評価につながっていきました。政党政治の充実を考えるなら、日ごろの政党と有権者とのつながりをもとにしたボトムアップ型の政策形成が理想的です。政党は多様な声を拾い上げ、それを踏まえて政策を打ち出す。

 ところが今は、選挙で政党の側がバーゲンセールのように政策を陳列して消費者である有権者をいかに惹きつけるか、といった発想になってしまっている。折々にトップダウンで政策が降りてきて有権者がそれを選ぶという構図は、政党政治の根っこを不安定なものとし、その持続可能性を毀損しているとも言えます。これは、今の自民党にも同じような側面を指摘することができます。政党は、様々な声を反映するかたちで政策を打ち出すべきですが、十分耳を傾けることができていない現状があるのではないかと最近考えています。

有権者が政党や政治家のやる気を引き出すことも大事

 馬場 トップダウンで降りてきた政策だとしても、社会の側のニーズを汲んだものになることは可能だと想像します。けれども、往々にしてそうはなっていない。「このタイミングでなぜこの政策なのか?」と疑問に感じるようなことが多々あるわけです。今日のインターネット社会においては、マニフェストがどのくらい実行されたのか、あるいは政権が打ち出した政策がどの程度の成果を上げたのかを過去に遡って検証できる状況になっています。そうした情報を駆使することで、政治を評価するようなスタンスが有権者にも根付くことは難しいのでしょうか。

 大川 その辺りはこの10年ほど充実が叫ばれてきた「主権者教育」とも関係することで、いわゆる政治リテラシーの問題になってくるのだと思うんです。確かに、最近ではボートマッチと言って、選挙の際にはアンケートに答えることで自分の考え方が、どの候補者に近いのかを数値で示すプラットフォームなども出てきています。あるいは研究機関が過去に遡って、マニフェストや政策の成果を検証できるようなかたちで公表したりもしています。しかし残念ながら、それが広く行き渡っているわけではなく、活かし切れていないですよね。

 逆に今は、選挙で政党や政治家の側が主導して有権者の意欲をいかに引き出すのかといった競争になっています。それだけではなくて、有権者の側からどう政党や政治家のやる気を引き出すのかといった働きかけも重要ですよね。何だかんだ言っても、政府や政治家にとっては市民が何か声を上げたときには、それを聞かざるを得ないところがあります。自らのキャリアを左右しかねない、非常に重要な存在ですからね。冒頭でメキシコでのプロテストが実際に政治を動かした事例をお話しいただきましたが、その辺りの力は日本ではまだ弱いですよね。改善するための一つの手段が主権者教育ということになるのかなと思っています。いずれにせよ、日本では政治リテラシーの抜本的な向上に向けた課題は少なくありません。

 馬場 私が気になっているのはラテンアメリカ諸国でも先進国でも、選挙プロフェッショナル化の帰結的として、極右あるいは逆に極左的な政党や政治家が支持を集める現象が起きていることです。日本でもそうした兆候は見られますが、あまり大きな支持を集めていないことは特徴的だと見ています。

 

日本人のお行儀の良さと議院内閣制であることは関係している?

 大川 日本の場合は議院内閣制をとっているので、一回の選挙だけで大きく躍進して、既存の政党を脅かすことがむずかしい仕組みになっています。それに、仮に極端な主張を掲げる政党が伸びてくることがあったとしても、自民党は彼らが掲げる政策やその支持層を部分的に取り入れるような危機管理を行っているのも特徴だと思います。

 馬場 確かに大統領選挙の場合は、議会に基盤がなくてもいきなり当選することが可能です。ブラジルのジャイール・ボルソナーロ元大統領もそうですし、先ほどお話ししたエルサルバドルのナジブ・ブケレ大統領は、大統領になってから彼がつくった政党が議会で多数派を占めるという順番でした。そうしたことが可能なのが大統領制の大きな特徴だろうと思います。

 日本ではプロテストが大きくならないことと、議院内閣制であることには何らかの関係がある気がしています。ざっくりと言えば、日本の政治文化と言えるような要素についてもきちんと検証すべきではないかと私は考えています。外国では広場に人々が集まって、デモを繰り広げる光景をよく見かけますが、日本では抗議活動自体があまり良いこととはされていませんよね。このあたりの政治に対する日本人の意識は、諸外国とはずいぶん異なっている印象があります。

 大川 日本人はお行儀がいいですよね。確かに、選挙など公式に認められた制度を通して意思表示することについての信頼度は高いのだけれども、デモや署名などへの参加度は国際的に見ても低いとされています。そもそも、自分たちが声を上げることで政治や社会を変えられるという意識が低いんです。逆に、ラテンアメリカをはじめ海外では声を上げてプロテストしようという意識がしっかりとあり、私などは映像や写真でその様子を見て「すごいな」と感じて眺めているのですが、何が彼らを活動に駆り立てているのか気になっています。

 馬場 ラテンアメリカの若い世代を見ていて感じるのは、やはり学生運動が盛んだということです。いま日本でも大学の学費が高いことが問題になっていますが、チリでは学生運動に端を発した抗議活動が全世代的なうねりにつながったことがありました。2011年のことですが、大学の無償化を求めた学生運動が盛り上がり、それだけで終わらずに労働組合や年金受給者団体などの他の世代、他のイシューと組み合わさってどんどん大きな流れになっていきました。

 チリの政党システムはとても安定していました。しかし実際は、その安定は制度によるところが大きくて、第3の政党が勢力を拡大させにくい選挙制度だったことが背景にはありました。ですからフォーマルな政党政治のなかで声を聞いてもらえていないと感じている世代の人たちやセクターは、街に出て声を上げることになるわけです。

 チリは実際にその後選挙制度が変わり、そしてガブリエル・ボリッチという若い大統領が誕生します。彼は、元々は学生運動のリーダーだった人でした。そういった社会運動とフォーマルな政党政治との行き来がとても活発というかスムーズなところは、日本との大きな違いだと感じています。ある一つの世代の運動に留まらずに、他の世代も巻き込んでより大きな社会全体の問題にしていくことは、実は大事なのかなとも思うんです。

 大川 日本は中間団体が弱いとよく指摘されていますよね。もちろん、野党の主な支持基盤は労働組合ですし、公明党は宗教団体が支持母体である。いろいろなかたちがありますが、今日では中間団体自体が政党を立ち上げるぐらいの勢いを持って活動をすることはあまりないわけです。労組も年々組織率が下がってきていて、各種団体加入者の高齢化が指摘されるなど、むしろ衰退していく方向にあります。中間団体と政党を取り巻く環境を考えると、この辺りのことが大きな違いになっていると思います。

 

就職氷河期世代はなぜ自分たちを代表する政党をつくらないのか?

 大川 今日は編集部から、「就職氷河期世代はなぜ自分たちを代表する政党をつくらないのか」というテーマについても考えてほしいというリクエストがありましたので、少し考えてみたいと思います。馬場先生はどのような印象を持たれていますか?

 馬場 政党をつくる具体的な制度は国よって違うわけですが、おそらくことさら日本がむずかしいわけではないのだと思います。日本では私的に困っていることを公的なものとして捉える発想が弱いですよね。就職氷河期世代の問題がこれだけ大きくクローズアップされるようになったのは、2010年代後半くらいからですよね。自己責任論とか言われますが、それまでは気づかないうちに自分自身の責任として内面化してしまっていたのだと思います。

 自分は仕事を得るのに苦労したけど、みんな苦労しているしうまくいった人もいる。だから、そこを公の問題として捉える発想が弱くなっている。構造的な問題があるのにもかかわらずです。ラテンアメリカを見ていると、私的な問題も必ず公的なものにつながっている、あるいはつながろうとする動きやダイナミズムがあります。ここは日本とは大きく違う面なのかなと見ていました。

 大川 日本の社会は公私を明確に峻別しようとする傾向が強くありますよね。また、自助という概念もそれなりに力を持っている。けれども極端なことを言えば、身近で起きていることのすべては、政治につなげようと思えばつなげられるわけです。政治(学)的な考え方やノウハウで解決できることは、たくさんあるわけですが、日本では「え?それがつながるんだ」と思っている人が多いという印象を私も持っています。

 加えて、自分が抱えている問題を政治的に解決しようとする自発性に乏しいところがあります。それが日本の政治文化になっているところがありますから、政党をつくるなどということはずいぶんハードルが高いことのように感じられてしまう。逆に政党も、有権者が置かれた状況に根ざしたかたちで政党をつくってこなかったということがあります。自民党は「国民政党」を標榜してきましたが、元来幹部政党という性格を持っています。つまり、地方の有力者(幹部)とそれを囲む人々の緩やかな集まりとしてできあがっていったわけです。

 野党第一党も戦後で言うと、社会党や民主党、今の立憲民主党を含めて、結局は自前の組織はそんなにしっかりとしていなくて、理論的な活動家や労組に頼ってきたところがある。共産党は日本における大衆政党の一つと言われますが、昨今少し話題になったように、民主集中制というかたちをとっていて組織の論理が構成員の自由な考え方より優先するところがありますよね。

 いずれにしても、自分たちで何らかの目的を立てて自発的に政党をつくるという経験にそもそも乏しいわけです。政党の成り立ちの側面で、ボトムアップが十分なくてトップダウン的なあり方が長く続いたことで、どんどん政治と有権者との距離が広がっていきました。そして先に指摘した利益分配型の政治が経済成長の鈍化で限界を迎えて終焉するなかで、人々はいっそう脱政治化していきました。

 また、就職氷河期世代も結局自民党政権を少なからず支持していたという見方もあります。本来であれば、就職などで苦しんでいる人たちは、2000年代前半の小泉首相のような新自由主義的な改革路線には否定的であってもおかしくないわけです。けれども小泉さんの「自民党をぶっ壊す」といったキャッチフレーズに現状の打破を一定程度期待した層があったということです。こうして、自分たちで何か行動を起こすのではなくて、結果的には既存の政党の枠組みのなかでの課題解決を選び、就職氷河期世代が直面していた問題意識も吸収されていったという背景があったのではないかと考えました。やはり日本の現代政治を見たときに、何か新しいものをつくっていくことのむずかしさは感じざるを得ないですね。

 馬場 おっしゃる通りだなと思います。日本のこれまでの政党政治の性格を考えると、就職氷河期世代に限らず下からの動きや要求に根差した大衆政党のような存在はほとんど見られなかった。そのため特定の世代が困っていたとしても、政党がそれを汲み上げて解決に向けて政策が打ち出されることもなく放置される結果になった。

 これからは、すでに社会に存在している私的と思われていることが、実は公的な問題になり得るような課題を政党の側が開拓していく必要があるはずです。しかし、実際にはボトムアップ型の政党を新たにつくることがむずかしいとなると、既存の政党がそうした課題をすくい上げていく流れを模索することが望ましいのかなと思います。日本でそうした道筋ができることに期待を寄せることは可能なのでしょうか?

既存政党が生まれ変わるチャンスがきている

 大川 そういう意味では、今の自民党の状況はご指摘のような政党に生まれ変わるチャンスなのかもしれません。政治とカネの問題をきっかけに派閥の存在意義が批判的に問われ直すことになりましたが、これは、党全体の構造を点検する絶好の機会でもあります。今は有権者からの支持調達のあり方、あるいは国政と地方議員との関係などを見直す局面にきているのだろうと思います。もちろん、党の構造を変えるにはたいへんな労力を払うことが必要で、自民党は経験したことのない領域に入ることになるのでリスクは小さくありませんが、そこに踏み込むことができれば、民意調達の新しい手段が見えてくる。そのときにはさらなる進化を遂げられるのかもしれません。

 一方で自民党だけではダメで、他の政党も同じように党のシステムを変えていく必要があるでしょうね。特に立憲民主党は、野党第一党でありながら党のかたちがまだまだボンヤリとしています。まずは党内の意思決定やガバナンスのあり方をきちんと考えて提示できなければ、浮上のきっかけを掴むことはむずかしいのではないか。政権与党だった民主党時代には政務調査会をなくしたり、また戻したりするなどして意思決定システムが動揺し迷走しました。そもそも政党として一体性を保てなかった。どうしてもそのときの不信感が今日に至るまで残ってしまっている。もちろん政党というのは元々プライベートな組織なので、政党法などの法的な規制がない限り、どういうふうに運用しようと自由です。

 しかし、有権者に根ざしたしっかりとした基盤をつくろうとするのであれば、党首のあり方・存在感も含めて、党のガバナンスを明確にすることで信頼を醸成しなければなりません。そういう面でも立憲民主党は自民党に立ち遅れてしまっています。

 日本の衆議院は小選挙区制を主とした選挙制度ですから、政権の不満が高まったときには受け皿となり得る野党の存在が欠かせません。今年4月の韓国の総選挙でも与党はたいへん苦戦して、想像以上に野党が躍進しました。今回の立憲民主党の代表選挙では、他の野党との距離感も論点となりそうですが、様々な戦術を駆使することで、思いのほか野党側が議席を集める可能性もあるわけです。そのときに準備不足で党内の体制も整っていないようでは、絶好の機会がめぐってきたとしても有権者は頼りなく感じてしまう。だからこそ野党、特に第一党にはしっかりしてもらわなければなりません。

 馬場 私は既存政党の枠内だけで自浄作用を求めることには、悲観的なところがあります。ラテンアメリカの例を見ていると、第3党やアウトサイダーの躍進によって、既存政党は自分たちが民意を掴まえられていないことにようやく気づくところがあります。議席を大幅に失って初めて、これではマズいと考えて党内改革を始めるという流れがある。往々にして遅すぎますが、ポピュリズム的な動きや大きなプロテストは、既存政党に変化を促すきっかけにはなっている。そうした変化が政治と人を繋げ直すきっかけになる作用も実はあると見ています。日本の場合も都知事選の石丸さんの躍進といった外からの挑戦が、既存政党が変わっていく一つのきっかけになるかもしれません。国政においては、そうした作用を期待することはむずかしいのでしょうか?

 

自民党総裁選挙と立憲民主党の代表選挙は注目すべき

 大川 民主党政権が崩壊した後に維新が伸びた背景には、そうした期待が託されていた側面もあったのだと思います。けれども結局、今日に至るまで維新も全国政党として成熟するところまでは行っていない。むしろ直近では少し低迷しています。自民党が大きな傷を負い、一方で野党が存在感を示さなければならない局面で十分にそれができていない。国政でそういう状態が生じていたところで、都知事選で石丸さんが躍進したことは既存政党にとっては脅威であると感じたと同時に発奮材料となり得る部分もあるのだと思います。

 やはり選挙というものは、有権者の政治に対する姿勢が示される最も重要な機会であって、そこで示された結果は政党や政治家にとっては何よりも薬になる。今後それをどのように活かしていけるのかが課題になりますが、まずは今度の自民党総裁選挙と立憲民主党の代表選挙に注目したいところですね。

 馬場 確かに今度の総裁選挙は興味深いところがあります。また以前と同じように党の表紙を変えるだけなのかと思っていたら、党内の若手が出馬を表明しています。派閥だけではなく、若手の候補者がどのような政策上の立場を打ち出してくるのか、このあたりには注目しています。経済や安全保障以外だけでなく、選択的夫婦別姓など幅広いイシューを含め、メディアは政策の違いに注目した報道をするとさらにおもしろいのではないかと思います。

(終)

 

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