「北と南の境界」にみる麻薬問題【馬場香織】

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『公研』2025年9月号「めいん・すとりいと」より

 2025年8月上旬、米国のトランプ大統領は、テロリスト指定の麻薬カルテルに対する軍事力行使の選択肢に向けた準備を国防総省に指示した。具体的な軍事作戦の内容やそもそもの合法性は不明で、本稿執筆時点で情報は錯綜しているが、強まる軍事行動の動きに米南部国境を接するメキシコは警戒を強めている。

 米国では近年、フェンタニルなど合成オピオイドの過剰摂取による被害が急増し、年間死者数は7万人を超える。フェンタニルの原料物質は主に中国などからメキシコに流入し、メキシコ国内の違法ラボで錠剤などに加工され、米国に密輸される。トランプ氏による国防総省への指示の数日後、メキシコのシェインバウム大統領はシナロア・カルテルの要人を含む26人の麻薬犯罪人を米国に引き渡す措置を発表した。公式には一般的な「移送」という用語が使われており、シェインバウム氏は自発的決定であることを強調しているが、事実上米国の要請に応えたかたちである(直前には米国による対メキシコ追加関税措置の延期が決まっていることにも注意したい)。一方で、その後に米麻薬取締局(DEA)が発表した国境地帯でのメキシコ政府との連携作戦(“Project Portero”)については、シェインバウム氏は合意の存在を否定している。麻薬密輸問題の解決は米メキシコ両国にとって共通の目標であるはずなのに、連携がうまくいかないのはなぜなのか。

 麻薬の消費国である米国では違法薬物による健康被害が深刻だが、麻薬の供給国であるメキシコでは、薬物中毒の問題も存在するものの、麻薬は主に治安の問題である。カルテルは麻薬の生産・加工・輸送や資金洗浄のために、土地や港湾をめぐって凄惨な武力衝突を繰り返しており、カルテル同士の抗争や軍・国家警備隊との衝突、市民の犠牲などによって、年間殺人件数は3万人を超える水準で高止まりしている。カルテルは軍隊並みの重装備を有し、メキシコに密輸される武器の7割は米国から流入する。

 米国からみれば、問題を解決するにはカルテルを叩けばよいということになるが、メキシコでは領域内での米軍の単独展開への反発に加え、単なる強硬策には慎重な意見も強い。なぜなら、キングピン戦略と呼ばれるカルテル要人の拘束や殺害は過去にも行われているが、組織の分裂による抗争激化や中小ギャングの乱立による治安の悪化を招き、新たな組織の台頭をもたらしてきたからだ。それに、国際的格差を前提とすれば、「北」に需要がある限り、いわゆるバルーン効果によって「南」からの供給は継続する。1990年代にコロンビアのカルテルが制圧されたのち、メキシコのカルテルが強大化したように。

 トランプ氏がメキシコに対し関税や軍事力をちらつかせてフェンタニルの流入を止めるよう叫ぶたび、ちぐはぐさを覚えずにはいられない。麻薬問題は「北と南の境界」の構造的矛盾を映し出す。「こちら側が被害者で、あちら側が加害者」という構図は短絡的すぎるだろう。同時に、メキシコ国内の矛盾にも目を向けなければならない。NAFTA-USMCAと近年のニアショアリング(近隣国への事業拠点の移転)が「境界」の国メキシコに経済的恩恵をもたらしてきた一方、縮まらない所得格差や地域差は犯罪リクルートメントの土壌を作ってきた。国家の脆弱性と腐敗も問題の根底にある。

 近年、グローバル化や技術発展に伴い犯罪組織の国際化が進み、ラテンアメリカのあらゆる国の犯罪集団が犯罪ビジネスの「サプライチェーン」に組み込まれるようになった。人々の暮らしへの影響は甚大で、移民や難民の問題にもつながっている。「自国優先」の限界を認識し、「境界」のダイナミクスを鳥瞰する視点がない限り、いっそう複雑化する麻薬問題への太刀打ちは難しい。

東京大学教授

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