『公研』2023年6月号「めいん・すとりいと」

 

 河野広中という人物をご存じでしょうか。福島県出身の自由民権家です。「土木県令」三島通庸と対立して福島事件を起こし、投獄されたことで知られますが、ご存じない方も多いかもしれません。それにもかかわらずここで取り上げるのは、彼がこれからの日本の議会政治を考えるうえで大きなカギを握っているように思われるからです。

 一八八九(明治二二)年、憲法発布に伴う恩赦によって獄を出た河野は、翌年の国会開設に向けて議会政治の確立に奔走します。政党の組織から政務調査、議事手続き、個別具体の政策から遊説による政治理解の促進まで、実に幅広く、深く調査と検討を進めていました。

 その努力を知る郷党から強く推され国会に出た河野は、綿密な調査に加え、猛烈な精力で初期議会に臨み、議会政治の充実に尽くします。しかし、その過程で星亨ら自由党主流派との溝を深め、ついに同党を離脱します。

 もっとも、それは政府への接近を嫌った離党ではありません。板垣退助の入閣を推し進めたことに見られるように、河野は政権与党となる必要性を自覚した現実主義者でした。

 対立の焦点は、党と議員の関係と議会政治の運営にありました。党議拘束をかけて党を一体として動かすことで政府との協議を有利に進めたい星らに対して、河野は議員が議場でそれぞれの意見を討議して結論を見出すことが議会政治の本旨と考えていました。河野が主流から離脱すると、議場における討議は政党によって制度化され、縮小していきます(白井誠『政党政治の法構造』)。

 議員間の討議に代わる役割を担ったのは、皮肉なことに、かつて河野が力を入れた政務調査でした。本来であれば院内で交わされるべき議論が各党内部の政務調査会で行われ、党議が固められ、幹部はそれをもって政府と交渉します。政権運営は安定しましたが、政治は見えにくくなり、国会は不活化し、国民から遠ざかりました。

 そうしたなか、河野は第二党の議員でありながら衆議院議長に選ばれました。三七六票中三五〇票という空前絶後の得票率での当選でしたが、それは河野自身への支持ではなく、第一党とのあいだでの高等政治の結果でした。

 河野はこれを奇貨として、開院式の勅語に対する奉答文に政府を弾劾する内容を織り込みました。形式化、制度化された議会政治を生きる議員も政府もそれに気づかず、政府は解散を余儀なくされます。志を同じくする尾崎行雄らと企てた、個を失った議会政治への痛烈な批判でした。

 しかし、日露戦争に向けた挙国一致の流れを前に、河野らの声が力を持つことはありませんでした。議会では各派協議会が創設され、事前審査の祖型とされる予算交渉会が開かれるようになります。政党のシステムは整備され、ついには政党政治が実現しますが、議員間の討議は霧消しました。没するまで実に一四回の連続当選を重ねた河野も、その流れを変えることは叶いませんでした。

 戦後、新憲法のもとで国会は本会議中心主義から委員会中心主義へと変貌しますが、国会運営はさらなる定式化の途を辿りました。

 この四半世紀、日本政治は、他国であれば数次の憲法改正に相当するほどの改革に取り組んできたと理解されています。しかし、そのなかでも、議会制度改革は、公務員制度改革と並び積み残された課題のままです(待鳥聡史『政治改革再考』)。自らが変わることが最も難しいようです。

 奇しくも今年は河野の没後一〇〇年に当たります。福島では、三春町の資料館と福島市の県歴史資料館で特別展が開かれ、河野の考えが再び脚光を浴びています。震災から一二年を経た同地では、尖った個をはぐくみ、その強みを繋ぐ仕組みが技術開発や人材育成の場で動いていました。個の力を伸ばすか、党の力を強めるか、繋の力を広げるか。同地には明確な答えがありました。

慶應義塾大学総合政策学部教授

 

                

 

 

 

 

 

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