2010年4月号掲載

 

 
 

 「別荘」というと、一般には、富や権力のシンボル、あるいは静養の場というイメージが強い。しかし、近代日本の政治史を繙くと、「別荘」の意義は単にそれだけにとどまらないことに気付く。優れた政治家にとって、「別荘」は、修養、思索、決断、親交のための重要な場所でもあり、そこには彼らの個性や関心が明瞭に表れた(拙稿「近代日本における政治家の別荘」本誌五百五十号を参照)。

 それでは、近代日本において「別荘」はどのような発展、変遷をたどったのだろうか? 近代日本政治において「別荘」はどのような役割を担ってきたのだろうか? この連載では、これまであまり光を当てられてこなかった「別荘」という場を通して、近代日本とはいかなる時代だったのかを探っていきたい。

 第一回目では、大久保利通(一八三〇~一八七七)を取り上げる。大久保は、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)と共に「維新の三傑」と並び称され、倒幕や明治国家建設で大きな役割を果たした。彼の政治姿勢や構想は、その「別荘」のあり方からも窺い知ることができる。以下、大久保が幕末の京都、維新後の東京に持った「別荘」について順次見ていこう。

 

大久保と幕末の京都

 大久保は、一八三〇(天保元)年に薩摩国鹿児島城下で生まれ、幼少期を加治屋町(現在の鹿児島市加治屋町)で過ごした。加治屋町は、百五十石以下の下級武士が住んだ町で、戸数七十軒ばかりであったが、ここから西郷隆盛・従道兄弟、日露戦争で活躍した陸軍の大山巌、海軍の東郷平八郎など、明治を代表する偉人を輩出したことで知られている。大久保は、一八五七(安政四)年に薩摩藩士の娘・早崎満寿子と結婚して一家を構えたが、やがて藩主島津忠義の父・久光に認められ、倒幕運動のために全国を奔走するようになった。

 幕末最後の約二年間、大久保は京都を拠点として活動した。薩摩藩邸は二本松(現在の同志社大学付近)にあり、大久保も当初は藩邸内に住んでいたが、一八六六(慶応二)年春、藩邸近くの石薬師通寺町東入(京都御苑の石薬師御門の東側)に居を構えるようになった。この年一月に薩長同盟が成立し、以後薩長間の連絡が大久保にとって重要な仕事になったため、人目を避ける目的で、藩邸を出たのであろう。石薬師邸の隣には別に一軒の借家が設けられ、当時入洛が禁じられていた長州藩士が薩摩藩士の名義で居住した他、西郷隆盛、黒田清隆といった薩摩藩士も絶えず出入りした。

 

 

有待庵

 石薬師邸は地坪わずか六十坪であったが(写真①)、来客の出入りが多く、幕府の監視の目が終始光っていたため、邸内の奥に茶室を設け、要談にはそこを用いることにした。この建坪三十坪ほどの茶室(写真②)は、小松帯刀が京都を去って帰藩するのを機に、その邸(近衛家の別邸内にあった。現在の同志社大学新町校舎付近と推測される)から移築したもので、薩長同盟締結の際の密談に使われた場所であった。移築後も各種の密談に使われ、特に岩倉具視は、ここで夜に大久保と会うことが多かったという。大久保が居住中に書いた「有待」という語にちなんで、後に「有待庵」と命名されている(写真③は西園寺公望筆の扁額)。『孫子』に由来する言葉で、「いつ敵が来ても差し支えないだけの用意、すなわち有待を恃まなければならない」という意味が込められている。

【写真1】
石薬師通寺町東入の大久保邸
(昭和初期、『有待庵を繞る維新史談)

 

【写真2】
大久保邸内の茶室「有待庵」
(昭和初期、『有待庵を繞る維新史談』)

【写真3】
西園寺公望筆の「有待庵」扁額
(大久保利泰氏所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 実際、幕末の緊迫した情勢の中で、「有待庵」にはいつ敵が踏み込んできてもおかしくはなかった。そのため、岩倉は大原女に扮装させた女性を介して密書をやりとりし、石薬師邸を直接訪問する際には、頭巾をかぶって変装していたという。また、西郷隆盛が石薬師邸で面会する際には、弟の従道や大山巌が短銃を懐に入れて護衛したという。

 「ときにより血汐の浪もたたせずば 濁り果たる御代は澄まじ」 当時詠んだという歌からも、大久保の倒幕に賭けた決意が窺われる。

 

革命成就のためのアジト

 一八六七(慶応三)年十月六日、大久保は長州藩の品川弥二郎を伴って、洛北岩倉にあった中御門経之(岩倉の友人で、親戚でもあった公家)の別荘を訪問し、岩倉と面談した。ここで岩倉は、大久保に錦の御旗調製を依頼した。大久保は石薬師邸に戻るとさっそく西陣から布地を取り寄せ、品川と相談した結果、旗は長州藩で調製することに決定した。品川は布地を持って帰国すると、錦の御旗二旒と軍旗二千旒を調製し、半数を長州に留め置き、半数を京都の薩摩藩邸に送った。

 こうしてできあがった錦の御旗は、翌年正月の鳥羽伏見の戦いで、官軍の証として薩長の兵を鼓舞し、戦を勝利に導くことになった。大久保は、祇園一力亭の娘おゆう(杉浦勇)と昵懇になり、石薬師邸で同居していたが、彼女は錦の御旗調製にあたって、西陣に赴いて布地を調達するという重要な任務を果たしたと言われている。大久保にとって、おゆうはいわば同志でもあった。

 このように、大久保の石薬師邸は、まさに討幕運動の策源地として機能していた。それは、静養の場を兼ねる近代的な「別荘」とは異質であり、革命成就のための「アジト」と言ったほうがより正確かもしれない。ただ、「公」的空間(藩邸)の外に「私」的空間が存在し、そこで重要な政治的会見、政策決定が行われたという点で、この「アジト」と明治以降の政治家の「別荘」に共通点、連続性が見てとれることは指摘しておきたい。

 大久保は、明治期に高輪に「別荘」を構えたが、そこは、西郷従道、大山巌といった、かつて石薬師邸を頻繁に訪れた薩摩出身の知友が親しく集う場として機能した。人目につきやすい本宅や公邸を離れて、密かに政治戦略を練り、重要な政策決定を行う場が「別荘」であるとすれば、大久保の石薬師邸もまさしくそうであった。

 

 

西洋化のシンボル

 明治維新以降、大久保は一貫して政治の中枢に位置し、積極的に近代化を推進した。一八七三(明治六)年に岩倉使節団から帰国すると、自ら見聞した欧米を模範として、近代国家建設を加速させた。帰国直後の征韓論政変で、親友・西郷隆盛との対決すら辞さなかったのは、近代化への強い使命感の表れに他ならない。

【写真4】
芝二本榎町の現況(2009年、筆者撮影)

 政変で西郷らが政府を去った約一カ月後、大久保は内務卿に就任し、以後殖産興業政策を推し進めた。この頃、大久保の日記に初めて「高輪別邸」に行ったという記述が登場する。この別邸とは、東京芝二本榎町にあった邸宅のことで、地所は約三万坪もあった。二本榎町とは、日本橋から東海道を進むと品川宿の右手の高輪台に二本の榎が目印のように立っていたことに由来する町名だと言われ、かつては東京湾が見渡せる眺望を誇っていた。現在では大久保邸の正確な位置は分からないが、明治末期以降に大久保家の邸宅が置かれていた場所から、二本榎西町(現在の高輪二丁目周辺、高輪警察署から南にかけての住宅地)ではないかと推定される(前項地図を参照。現在港区によって整備されている二本榎周辺の広場は写真④)。大久保は、欧米巡回中からこの広大な別荘に農場を設けようと考えており、ヨーロッパでリンゴやブドウなど果樹、野菜の種子を蒐集し、日本に送付していた。この後、大久保は別荘内に果樹園、茶畑や桑畑を作り、それは一種の「実験農場」の観を呈した。高輪の別荘は、大久保の唱導する文明開化や殖産興業の手本を示す場だったのである。

 

本邸は二階建ての木造洋館 

 一方、大久保の本邸は、一八六九(明治二)年の上京以来、霞ヶ関にあった(現在の衆議院第二別館の辺り)。 広さは約二千五百坪あり、眺望が良く、 遠く品川の海が望めたという。この辺りは江戸時代には藩邸や旗本屋敷が建ち並んでおり、当初は古い建物をそのまま邸宅として使っていたが、外国使節との交際や政府部内の折衝に忙しい大久保にとって、昔ながらの日本屋敷を使い続けることは、非常に不便だった。そこで大久保は、一八七四(明治七)年に新邸の建設に着手する。 

 一八七六(明治九)年に完成した新邸は、二階建ての木造洋館であった。外観は写真⑤の通りで、写真だけを見ると豪華な作りにも見えるが、実際は簡素な建物であった(霞ヶ関邸はのちにベルギー大使館に譲渡されるが、この写真は譲渡後に増改築されたものと推定されている)。もっとも、まだ洋館が非常に珍しい時代であったため、広く注目を集めたようである。大久保は、欧米滞在中にしばしば政治家から招待を受け、プロシアでは、ビスマルクの邸宅で開かれた歓迎宴に出席している。また、パリでは街の美しさや家屋の壮麗さに感銘を受け、友人達にその様子を知らせていた。大久保は、欧米の政治家の邸宅に倣い、欧化政策の先頭に立つという決意をこの洋館に込めていたに違いない。

【写真5】
霞ヶ関の大久保本邸
(1900年頃、ベルギー王立文書館所蔵)

 

 興味深いのは、本邸と別荘の関係である。本邸は、大久保の「公邸」のような役割を果たしており、政府関係者を招いて懇談する場となっていた。大久保は常に来客に忙殺されていたため、客間や応接室にばかり居たという。一八七八(明治十一)年五月に紀尾井坂で暗殺される直前にも、早朝六時から部下と面談し、自らの政治構想について語っていた。大久保はきわめて多忙であったが、子煩悩な家庭人でもあった。本邸には一八七四年に鹿児島から呼び寄せた満寿子夫人、三男利武らが同居していたが、東京大学の寄宿舎に入っていた長男利和、次男牧野伸顕も含めて、週一回は家族一同で夕食を共にするよう努めていた。

 

週末を別荘で過ごす

 これに対して別荘は、公務から離れた、くつろぎの場として使われた。大久保は、在京中には定期的に高輪の別荘を訪れるのを常とし、家族やごく親しい友人達との団欒を楽しみ、趣味の碁に興じた。また、広い邸内に馬車で乗り回せる道を作り、よく子供達を連れて行楽していた。別荘が、肩の凝らない純和風の家であったことからも、この雰囲気は察せられよう(写真⑥)。この別荘には、満寿子夫人が上京した後、おゆうが住んでいたようであるが、いわゆる「妾宅」という言葉でイメージされる場所ではなかった。大久保は、満寿子夫人、おゆうを共に愛し、それぞれの間に儲けた子供達も親しく往来、交際していたし、高輪の別荘は、多くの友人たちに公開され、接待や交際の場として活用されていた。

【写真6】
高輪の大久保別荘(建物)
(1889年、大久保利泰氏所蔵)

 

 当初大久保は、決まって一と六が付く日に別荘に通っていた。これは、当時官庁の休日がそのようになっていたからである(一八六九年、諸役人の休日は一の日、六の日と定められていた)。しかし、日本に西洋人が数多く来訪するようになると、西洋に倣って、一八七三年に太陽暦が実施され、一八七六年には土曜日を半休、日曜日を全休とする週休制が官庁において実施されることになった。興味深いことに、週休制の実施以降、大久保の別荘訪問は一と六の日ではなく、日曜日が原則となった。別荘を訪問するサイクルにも、大久保の欧化政策が反映されていたわけである。大久保は岩倉使節団でイギリスを訪問した際に、有名な別荘地ブライトンの見学を行っており、週末を別荘で過ごすという生活スタイルについても、西洋に倣っていた可能性が高い。

 

政治家の「別荘」の原型

 大久保は、晩年になって平日を洋館の本邸で、週末を和館の別荘で過ごすという生活スタイルを確立した。このような生活のあり方は、近代日本の政治家における一つの典型的なパターンとして以後定着していく。例えば、後に本連載で取り上げることになるが、大正デモクラシー期を代表する政治家、原敬と加藤高明は、いずれもこのパターンを踏襲している。大久保は、欧米をモデルとした別荘生活を日本で初めて実践し、定着させた政治家と言えるだろう。

 大久保がこのような生活スタイルを確立する上で、ヨーロッパの邸宅のあり方を模範としていた可能性が高いことは、既に指摘した。もっとも、当時の日本とヨーロッパの政治家の邸宅のあり方に、大きな相違があったことには注意が必要であろう。大久保が岩倉使節団で接したヨーロッパでは、貴族が政治を担う中心であった。貴族階級に属する政治家達は、自らの領地を本拠地としつつ、議会や社交のシーズンに活用するための邸宅を、本邸とは別に首都に持つというのが一つの典型的なスタイルであった。これに対して、明治日本の政治において中心的存在となったのは下級武士出身者であり、彼らは当然ながら領地など持たなかった。その結果近代日本では、首都東京の藩邸や旗本屋敷の跡地に豪壮な本邸を構え、東京近郊に別荘を持つというのが、政治家の邸宅の典型的なスタイルとなっていった。

 また、明治新政府が旧来の武士の特権を切り捨てる政策を採ったため、薩長出身のリーダー達が自らの出身地と敵対ないし緊張関係に立たされることになった点にも留意が必要である。大久保は、不平士族との対立関係の中で、晩年は薩摩に帰ることができず、故郷に別荘を持つことなどできなかった。木戸孝允、松方正義、伊藤博文など薩長出身の政治家には、類似する問題を抱えていた者が多かった。明治期、東京近郊に政治家の別荘が発展した背景には、彼らがいわば故郷を喪失していたという事情も影響していた。故郷と似た風景を別荘に求め、離れた故郷を想うというモチーフが、別荘にはある。大久保の場合、高輪の別荘に故郷を投影するという意識は稀薄だったようにも思われるが、故郷にではなく、元来縁もゆかりもない東京近郊に別荘を有したという点では、大久保の別荘はその後の原型となったと見ることが可能であろう。

【写真7】
高輪の大久保別荘(庭園)
(1889年、大久保利泰氏所蔵)

 

 いずれにせよ、大久保以後の政治家達は、彼に倣うかのように別荘を所有、経営し、関東一円には次第に多くの別荘地が形成されていった。那須では、薩摩の後輩である松方正義、三島通庸らが「実験農場」にとどまらない本格的な農場の経営を試み、「農場別荘」を持つに至った。他方で、東京の人口が増加し、鉄道が発達すると共に、高輪周辺は別荘というよりも本邸の所在地へと変貌していき(現新高輪プリンスホテルに位置した後藤象二郎邸、現三菱開東閣に位置した伊藤博文邸などがその代表)、「臨海別荘」は、葉山、大磯など湘南地域に拡大していった。そして、いずれの「別荘」も、政治家同士が親交を深め、交歓する場として機能することになる。大久保利通が先鞭をつけた近代日本の「別荘」文化は、後輩達によって脈々と継承され、 発展していくことになるのである。

 

【主要参考文献】

・『大久保利通日記』『大久保利通文書』(日本史籍協会、一九二七年)

・『大久保侯爵講演 有待庵を繞る維新史談』(同志社、一九四四年)

・桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(南日本新聞社、二〇〇九年)

・佐々木克『志士と官僚』(講談社学術文庫、二〇〇〇年)

・佐々木克『大久保利通』(講談社学術文庫、二〇〇四年)

・奈良岡聰智「駐日ベルギー大使館の百四十年」(二)(『日本・ベルギー協会会報』七十四号、二〇〇八年)

*史料の利用にあたってご高配を賜った大久保利泰氏、松田好史氏に厚くお礼申し上げます。

*大久保利通の写真は共同通信提供。

 

奈良岡聰智・京都大学准教授
ならおか そうち
1975年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了。現在、同大学院准教授。『加藤高明と政党政治 二大政党制への道』で吉田茂賞を受賞。

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