『公研』2023年5月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

音楽を聴くことと、食事やワインを楽しむことにはどこか共通点があるのではないか。

パリでの生活経験があるお二人に人生の愉しみについて語ってもらう。

パリでの生活

 玉木 横山さんの経歴を見ていて印象的だったのは、フランス政府の給費留学生としてパリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)に16歳で留学されていることです。音楽の世界は若い頃から海外で才能を磨くことが一般的だとしても、それでもかなり早いですよね。

 横山 ご両親の転勤などで若いときから外国で勉強している方は多いですが、単身留学としては最も早かったと思います。

 玉木 コンセルヴァトワールがまだサン=ラザール駅の裏あたりにあった時代でしょう。

 横山 そうです。昔のコンセルヴァトワールですね。今はラ・ヴィレットのほうに移っちゃいましたが、僕は昔のコンセルヴァトワールで勉強した最後の学年なんです。卒業試験などは試験的にラ・ヴィレットの新しい校舎を使ってやっていましたけどね。

 玉木 パリに16歳で暮らすとなると、カルチャーショックも大いにあったでしょう。

 横山 留学前にすでに海外に3回行っていたんですね。なので、16歳でパリに行ったときは割と勝手知ったる街に戻ってきたという感じでした。僕が最初に海外に出たのが小学校6年のときで1981年だったと思います。ちょうど、オープンしたばかりのシャルル・ド・ゴール空港経由でウィーンにいきました。このときはヤマハ音楽教室に在籍していたんですが、国の文化使節団みたいな感じでウィーンやマドリードで演奏会をさせていただいたんです。2週間以上は滞在しました。その翌年にもアメリカに同じぐらいの期間いっていて、中学3年のときも夏休みに3週間ぐらい、短期留学的な講習会に参加していました。

 玉木 それでも給付された予算のなかで家賃などを払ったりして一人で暮らすとなると、違う風景も見えてきますよね。大人になりかけだし。

 横山 まあそうですね。はるか昔の話ですから鮮明には思い出せなくなっているけど、中学3年でもう海外でも一人で生活できていたので、パリでの留学も楽しい期待でいっぱいでした。日本時代の僕の師匠は、「生ける伝統が健在なうちに海外に行って、そういう才能から早く学んで吸収しろ。日本にいたってしょうがない」と言っていましたから、僕も早く行きたいという気持ちでいました。パリでの一人暮らしは楽しいじゃないですか。

 玉木 高校1年生で、もうそういう期待に満ちて行ったんですか。

 横山 そうです。ヨーロッパやアメリカを経験して、こりゃ楽しいわい、と思っていましたからね。

 玉木 アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』のように、横山さんは若い頃にパリで生活したことが、人生全体に影響を与えていると思います?

 横山 考え方から何から、ものすごく影響がありましたね。

 玉木 それはもう直らない?

 横山 もう無理ですね(笑)。玉木さんの初めての海外での一人暮らしはいかがでしたか?

 玉木 私が初めてパリで暮らし始めたのは1978年、24歳のときでした。もう大人でしたが、驚きの連続でした。パリについてしばらく経った秋の日の夕方パリの街を歩いていたら、街中のカフェに “Beaujolais nouveau est arrivé!”(ボジョレー・ヌヴォー解禁)というワッペンが貼られていたんで何だろうなと不思議でした。そのときはボジョレー・ヌヴォーを知らなかったんです。

 横山 まだ日本でもそんなに有名ではなかった。

 玉木 知られていませんでしたね。カフェに入って「あれは何だ?」と聞いたら、お前知らないのかという顔をされて一杯ドーンと置かれ「これだから飲め!」というのがボジョレーの初めての体験になりました。それが1986年に2回目のパリから帰ってきたときには、東京中がボジョレーの海に浮かんでいるような感じでした。その間たった8年なのにすごい変化でしたね。

 横山 カルチャーショックと言えば、小学校6年生のときにウィーンやマドリードに行ったときのほうが大きかったですね。当時のウィーンには水は炭酸入りのしかなかったんです。しかも、しょっぱい。もちろん「ガスなしをくれ」と言えばあるのかもしれないんだけど、普通に水を注文するとガス入りがくる。それに僕らは小学生だったけど当たり前のようにワインも出てくる(笑)。

 食べ物にも驚きましたね。僕は小学生の頃から食べ物に興味があったので、例えば豚の血のソーセージ──フランスではブダン・ノワールと言います──が出てきたりすると、誰よりも喜んで食べていました。このときの使節団は子どもたちが5人くらいで、スタッフの大人のほうが多い団体でしたが、大人たちは誰も食べようとしないわけです。意外と大人のほうが食に対しては保守的な人が多くて、今まで食べたことないものには手を出さなかったりします。僕はそういった見慣れない料理も喜んで食べていました。

 玉木 ブダン・ノワールは今でも日本人の多くは抵抗感があるでしょう。

 横山 僕はみんなの分まで一人で全部食べていたという感じでした。スペインでは生ハムやオリーブに初めて出会いました。今では日本でも当たり前に食べられているけど、当時はなかったんです。生ハムなんて誰も食べたことがなかったし、火の通っていない食肉の扱い方も知らなかった。オリーブの実そのものを日本人はみんな食べたことがなかったですよね。オリーブオイルにしても、強すぎて胃がもたれたりしていました。スペインにいたときに、僕はそういうお酒のつまみ系のようなものを喜んで食べていました。今みたいにインターネットの時代じゃないですから、後からガイドブックに載っているのを見て「これだったのか」と知るみたいな感じでしたね。

 玉木 八百屋でアルティショー(食用のアザミ)なんて売っていると、何だろうとずいぶん不思議に思いました。

 横山 サボテンみたいなかたちですからね。

飽きもせずに毎日同じワインを飲み続ける

 玉木 日本の音楽高校や音楽大学は同世代の人が集まっていますが、パリのコンセルヴァトワールには幅広い世代の人がいますよね。

 横山 しょっちゅう規則が変わるんですが、僕が行ったときは確か下が14歳からで上は21歳まででした。僕は16歳で行ったから若いほうで入ったんですが、日本の大学を卒業してからでは間に合わない年齢になってしまうんです。そこまでのバックグラウンドも違うし、いろいろな年齢層の人たちが世界各国から集まっていておもしろかったですね。

 玉木 もしもそのとき、例えばニューヨークのジュリアード音楽院に行っていたらだいぶ違っていたと思いますか? もっと音楽に集中していたとか。

 横山 違うんじゃないかな。どうだったんだろうね。ニューヨークには何度も行っていますが、暮らしたことがないので、あそこで留学生活を送るとどういうことになるのかはちょっとわからない。

 パリは、食べ物も飲み物も文化的なことにしても楽しいことが多いですよね。当時はバブルの絶頂期で、日本からの駐在員の方もすごく多かった。僕は若い年齢で行っていたこともあって、すごくかわいがっていただきました。美味しいものを食べに連れて行ってくださったりとか。

 玉木 当時はシャンゼリゼに沿ったビルに日本企業のパリ事務所がずらっと並んでいて、7月14日の行進があるときなどは、「うちの2階から観ませんか」とお誘いがきました。パリにも豪華な日本料理屋がいくつもありましたねえ。自分では行けないけれど。

 横山 そうなんですよね。僕は和食の美味しさをパリに行ってから知りました。もちろん家庭料理として食べていますが、いわゆる本格的な和食なんて子どものときには食べたことがないわけです。パリに行って「和食って美味しいんだ」と気がつきました。

 フレンチは、当たり前にどこでもありました。学食だってフレンチだし、ビストロ系から高級レストランまでいろいろなところがありますが、何と言っても量がめちゃくちゃ多い。当時から比べると今のパリなんて3分の一ぐらいの量じゃないかな。

 玉木 驚くべき変化ですよね。みんな昼からたらふく食べて飲んでいた時代でした。

 横山 僕もその頃の習慣からか、肉を食べるにしても頭の中の単位がキログラムなんですよね。0・5キログラムとか0・8キログラムみたいなイメージです。

 玉木 「フォー・フィレ──英語で言うサーロイン──を厚めにステーキ用に切って」と言うと、800グラムくらいのボリュームが来る。それとサラダとワインがあれば、それでもう大満足でした。

 横山 あのフランス人もそんなに食べなくなっちゃいましたよね。

 玉木 当時はパリでジョギングをしている人なんて外国人以外滅多に見なかった。夏はみんな外のテラスで日光浴を兼ねてワインを飲みながら、3時近くまで昼飯を食べていましたよね。

 横山 かたちだけオフィスに戻るけどあまり働かない(笑)。

 玉木 久しぶりに2011年から3度目のパリ暮らしで気が付いたのは、酒屋にフランス産以外のワインが増えたことです。70年代、80年代は酒屋の棚の95%くらいがフランスで、イタリアやスペイン、ドイツなどのワインもまとめて「その他」でしたよ。

 横山 フランス人がフランス以外のワインを飲むなんていうことは、ちょっと考えられなかったですね。

 玉木 ちょっと歳を取ったオヤジたちは、飽きもせず同じワイン飲んでいましたよね。聞いたこともないワインが家の隅に積んであって「自分はこれが一番旨いと思う」と言ってそればっかり飲んでる。

 横山 流行り廃りどうこうよりも、個人の自我や自分のこだわりがきちんと確立されているのはすごいですよね。日本は未だに流行っているものにワーっと群がって、1年ぐらい経つと誰もそんなのを覚えていなかったりするところがありますね。今のフランスもそういう傾向が多少は出てきたと思うけど、それでも例えば食べ物や飲み物は「自分はもうこれだけ」みたいなスタイルが未だに基本ですよね。

 玉木 今、年金支給開始年齢の62歳から64歳への引き上げをめぐってフランス中で激しい抵抗運動が起きています。彼らの生活を見ていなければ、なぜあれほど強い抵抗があるのかピンと来ないですよね。彼らは早く退職してこれをしたいという生活があるんですよね。フランス人のそういう暮らし方の背景の一つには、1930年代の人民戦線内閣で確立したバカンスがあると思います。彼らには「自分の田舎」があって、そこで毎年夏の1カ月半を暮らして、その土地のワインを毎日飲み続けるわけです。その間に「退職したらこういう生活をしたい」というイメージがはっきりしてくるわけです。だから「あと2年だと思っていたのにあと3年も働くとは何事だ」と反発する。この反発への理解は他のヨーロッパの国でも乏しくて、「フランス人はなんで大騒ぎしているんだ」という感じですね。

 横山 フランス人はそういう流れができると、みんなで抵抗するのがまた好きですからね。

 玉木 抵抗は好きですよね。ストライキはしょっちゅうだし、デモ行進は国民的スポーツみたいなものですからね。

生ける伝統ペルルミュテールに学ぶ

 玉木 横山さんはコンセルヴァトワールでは、ヴラド・ペルルミュテール (1904年2002年)とジャック・ルビエ(1947年)に師事されています。ペルルミュテールは相当なお歳だったんじゃないですか。

 横山 ペルルミュテール先生には個人的なレッスンとして通っていたのですが、もう80代でした。ジャック・ルビエ先生の師匠でもあるくらいですからね。

 玉木 ペルルミュテールは、モーリス・ラヴェル(1875年1937年)から直接ピアノの指導を受けた経験がありますから、横山さんも丁寧に教わったのはラヴェルですか?

 横山 ラヴェルとショパンですね。

 玉木 ペルルミュテールと言えば、ラヴェルを思い浮かべますが、ショパンの先生でもあったわけですね。昔「コンサート・ホール・ソサエティ」というユニークなレコードレーベルがあって、そこから出ていたペルルミュテールの『ショパン集』をよく聴きました。

 横山 そうですね。半分はポーランド人というのもあったし、ショパンを得意とされていました。それにショパンを得意としていたアルフレッド・コルトー(1877年1962年)の弟子でもあった影響もありますよね。先生は80代でしたし、こちらも外国人ですから、なかなか意思の疎通も難しい部分はありました。ただ先生がそこにいて、ちょっと弾いてくれただけでも、どういう息遣いでどのように音楽を感じているのかを学ぶことができた。生きる見本という感じですよね。

 玉木 ペルルミュテールのラヴェルはもちろんレコードでしか聴いたことがありませんが、技術が前面に出てくるとか、いろいろな音がたくさん出てくるという感じではない。今はラヴェルのピアノはとても精緻に弾かれていますが。

 横山 先生の演奏はコンセルヴァトワール時代と教授を引退してからとで、大きく分かれる印象を持っています。ラヴェルにしてもショパンにしても引退後に録音されたものは、かなり一筆書きに近い感じの演奏ですよね。若いときはもうちょっと緻密ですが、コンセルヴァトワールの時代はどこか生真面目で、先生臭さがある演奏なんですよね。録音のせいかもしれませんが、若いときの演奏はラヴェルの音楽が持っている、ある種の耽美な美しさはありますが、そこに隠れた艶やかさはあまり見えてこない。

 それはご本人の当時の生活のあり方や環境が影響しているように思います。僕も先生の時間を邪魔してレッスンを受けていましたが、いつも生徒たちに囲まれていました。その生徒たちをどう指導するのかといったことが生活のサイクルになっていました。ですから自分が本当に音楽に向かい合ったときの演奏とは音楽のあり方にも違いがあると思います。

 教授を引退して自由に演奏活動をできるようになってからのほうが演奏にもずっと華があります。でも、その頃にはもうだいぶ高齢でしたから、技術的には衰えを隠せないところもありました。

 玉木 もう一人の師匠ジャック・ルビエ先生の印象は?

 横山 僕が16歳で、先生はちょうど40歳でした。僕も今では40歳なんてとっくに過ぎちゃっていますが、ちょっと年の離れたお兄さんというイメージでしたね。先生も「ピアノはいいから、とりあえず飯食いに行こう。若いのに一人暮らしで大変だろうから」といった感じでしたね。

ショパンが生きた時代

 玉木 横山さんは、ショパンが生涯で作曲した240曲全ての作品やベートーヴェンのピアノソナタ32曲を弾き通すなどのチャレンジを行ってきました。ラヴェルの全作品も演奏していますね。ラヴェルはそんなすごい量ではないかもしれませんが、凄まじい集中力です。

 横山 ラヴェルは休憩2回入れるとできます。

 玉木 同じ作曲家の作品をずっと弾いていくと、その作家が辿った人生や歴史的な背景が年代を追って見えてくるようなことはあるのでしょうか? ベートーヴェンのソナタはその良い例でしょうが、ショパンの作品を順番に弾いていくと、我々が伝記などで知っている彼の人生と楽曲がうまく重なるように見えてくるものですか?

 横山 そうですね。人間がつくっている以上、作品には生活や歴史的な背景が投影されてくるものだと思います。特にショパンは激動の時代を生きた人ですからね。ショパンには自分はポーランド人であるという強い自負がありましたが、祖国があってないようなものでした。ワルシャワはロシアに占領されていた時代だし、ポーランドはロシア、ドイツ、オーストリア三国に分割所有されていた時代でした。ショパンはお父さんがフランス人ですからパリに出てきて活躍しようとしますが、パリはフランス革命後の混乱の時代でした。

 玉木 ショパンが21歳でパリに来たのは1831年ですから、七月革命が起きてすぐの頃ですね。復古王政の反動でパリ中が政治で沸き立っていた時代です。

 横山 そんなパリに青年ショパンがやってくるわけですが、すぐに頭角を現してみんなを制圧するような感じだったわけではなかったのだと思います。そうではなくて、ちょっと弱々しいショパンをみんなが助けるといった立ち位置だったのではないか。

 玉木 そうですね。みんなが援助の手を差し伸べるという人生ですよね。

 横山 羨ましいですね。

 玉木 ショパンの主な活躍の場は貴族や大ブルジョアジーのサロンで、一般的なコンサートをあまり開いていないですよね。

 横山 記録に残っているところでは生涯20数回しかコンサートをやってないんですよ。僕の半年分の回数です(笑)。

 玉木 それも一人のリサイタルではなくて、歌があったりオーケストラがあったりして、いろいろな人が登場するなかにショパンの出番が時々あるようなコンサートですよね。

 横山 当時はそれが当たり前のやり方でした。すべて一人で演奏するコンサートを初めて開いたのは、歴史的にはフランツ・リスト(1811年1886年)だったと言われています。彼はショパンの1歳年下ですが、パリにはリストのほうが早く出てきていて、ショパンにいろいろな有力者を紹介したりしている。ショパンが世に出るのに一役買っています。

 玉木 ショパンが作家のジョルジュ・サンド(1804年1876年)に出会ったのは、リストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人(1805年1876年)のサロンですね。ショパンは夕方になると着替えて、白い手袋をはめてサロンに繰り出したんでしょ。

 横山 高級馬車に乗って。だからショパンの生活はものすごいお金がかかるんですよね。

 玉木 援助がないとやっていけないですよね。

 横山 そうしたサロンに行くのにきちんと着こなして、馬車を雇って、立派なところに住むということのすべてをショパンはやろうとした人でした。別にサロンに行くのにそんなところに住んでいなくても良かったのかもしれませんが、そういう人たちの中に自然と溶け込んでいって、やがてはロスチャイルド家をはじめとした実力者からの援助を受けられるようになりました。

 玉木 最後はパリのトロカデロ(16区)地区に住んでいましたが、ほとんどの期間でオペラ座界隈のグラン・ブールヴァールに居を構えていました。でもサロンに行くのにそこからトコトコ歩いていくわけにいかないのですよね

 横山 今では猥雑な地域ですが、当時はあのあたりがパリの一番の高級住宅地の一つだったんじゃないかな。あの辺で何度も家を買っています。

 玉木 ショパンが住んでいた家は何カ所もありますね。

 横山 どこも似たような場所にあるんです。サンドと出会ってからも決して同じ部屋には住んでいないんですよね。サンドはサンド、ショパンはショパンで住んでいるという感じの家の構え方でした。

 玉木 私はショパンが度々滞在したサンドのノアンの館を見に行ったことがあります。フランス中部のベリー地方ですが、平原の中にポツンとサンドの館があるんです。何が楽しくて270キロメートルも離れたところまでパリから馬車で通ったのかなと思いました。それもショパンだけじゃなくて、ギュスターヴ・フローベールなど当時の文人たちが足しげく通っていますよね。確かバルザックも行っていた。

 横山 ドラクロワもサロンのメンバーです。

 玉木 夏も全く涼しそうなところではないですよ。サンドの館の前の売店では彼女の本がたくさん売られていましたが、ギュスターヴ・フローベールとの書簡集なんて厚い本です。日本でもこの20年くらいジョルジュ・サンドに注目が集まっていて選集も出ていてフローベールとの書簡集の翻訳も出ています。書簡集でこんなに面白いものはないでしょう。それだけノアンのサンドは当時の文化の結節点の一つだったんでしょうね。

ショパンは『舟歌』と『幻想ポロネーズ』を同じ年に書いている

 玉木 先ほどの作曲家の人生と作品の話ですが、私が若い頃ショパンで最も好きだった『舟歌』と『幻想ポロネーズ』は同じ年の作品ですよね。

 横山 そうですね。ショパンが35歳のときの作品です。

 玉木 『舟歌』と『幻想ポロネーズ』とではすごく違いますよね。どうして同じ作曲家が同じ歳にこれだけ異なった作風の楽曲をつくったのだろうかと以前から疑問に感じていたんです。その点ベートーヴェンのほうが、若い頃から晩年の境地に至っていくまでの成長軌道が綺麗で安定している印象がある。ショパンの場合は、そこがずいぶん振幅があるような気がしています。

 横山 僕は『バルカローレ(舟歌)』はちょっと異色の作品だと考えています。ポロネーズは7歳から書いていて、最後のポロネーズが人生の終盤に書いた『幻想ポロネーズ』ですから、そこに至るというのはとてもわかりやすいと思います。

 『舟歌』は1曲だけで、その曲しかないスタイルです。曲の長さ的にはポロネーズやスケルツォなどと同じくらいですが、それらと一緒にはしなかった。スタイルとしてはバラードに近いところがありますが、バラードにもしなかった。

 もちろんショパン本人に聞いてみないとわかりませんが、『舟歌』は人生が少し明るい方向に向かっていた、ヴェネツィア旅行を計画されていた時期の作品だとされています。二人の関係が上手くいかなくなっていたときでしたが、サンドは関係修復のためにヴェネツィア旅行を提案します。ショパンも行くつもりでしたが、結局は実現しなかった。だから『舟歌』を書いているときは、ヴェネツィアに一緒に行くことであの楽しかった時期が戻ってくるかもしれないという期待があったのではないかと思うんです。

 玉木 いかにも若い男女が舟遊びをしている雰囲気がありますよね。

 横山 そういう雰囲気もありますが、僕はショパンが本当に若いときの作品とはやっぱりちょっと違うものを感じています。我々は、『舟歌』と『幻想ポロネーズ』が最後の二つの大作であることを知っていますが、ショパンが書いているときには、その先に自分が結核で死ぬことがわかっていたわけではない。だけど、体調も悪いしショパン自身も死というものを感じながら生活していたのだと思います。

 今の日本でも予期せぬ事故によって若くして命を落とすケースはいくらでもあり得ますが、当時は現代よりもずっと死というものが人間の近くにあったはずなんです。時代的にも独立運動で友人たちが命を落としているし、疫病の蔓延もあったわけです。『舟歌』にはどこか、死を連想させる雰囲気を持っていると感じています。けれども、人間としてはまだ35歳ですからね。若々しい気分の楽曲の要素もまだ出てくる。もうちょっと明るいマインドの作品もあるんです。だって『小犬のワルツ』は『幻想ポロネーズ』の後に書いているんですよね。

 玉木 『小犬のワルツ』は『幻想ポロネーズ』の後なんですか。それは意外な気もします。

 横山 『小犬のワルツ』は最後に出版したピアノ曲なんですよ。

 玉木 そうなんだ。でもショパンの作品を並べたリストを見ると、最後ではないですよね。

 横山 それは遺作が後にあるからです。『小犬のワルツ』が含まれている作品64がショパンの最後に出版したピアノ曲です。作品65が『チェロソナタ』で作品66が『幻想即興曲』ですが、これはショパンが20代のときに書いた曲です。

 玉木 あれは出版されたのですか?

 横山 生前は出版されなかった作品です。ショパンは出版しなかった作品は破棄してくれという遺言を残していますが、それは勿体ないと思っていた友人たちやお姉さんたちが真っ先に出版したのが『幻想即興曲』です。なので、それ以降は全部遺作です。遺作は作品75ぐらいまでは番号が付いていますが、あとはもう番号も付いていない。

 玉木 全曲を弾かれるときは、作曲年代順に弾かれるのですか?

 横山 基本的には作曲年代順に弾きますね。遺作であっても、若い頃に書かれた作品は最初のほうに演奏するので、作品番号とは合わないことがあります。

ポーランド人の天国、ユダヤ人の楽園、ウクライナ人の地獄

 玉木 横山さんは、ポーランドを代表するピアニストであり、政治家として首相も務めたイグナツィ・パデレフスキ(1860年1941年)を紹介する日本パデレフスキ協会の会長をされていますね。どういう経緯があったのですか?

 横山 日本パデレフスキ協会は、ポーランドとの繋がりが深かった中村紘子さんが主に若手の音楽家の育成と日本とポーランドの文化交流を目的に開始されました。けれども、始められた途端に中村さんが亡くなられてしまったので、僕がその遺志を引き継ぐことになったんです。

 玉木 中村紘子さんは、ワルシャワに住んで勉強されていましたが、横山さんご自身はポーランドに特別なご縁があるのですか?

 横山 僕はポーランドに住んでいたことはありませんが、毎年のように訪れて勉強していました。特にショパン国際ピアノ・コンクールに出場したときなどは3週間くらい滞在して、コンクール後は演奏会にも行っています。そうしたお付き合いがありました。

 玉木 ショパンコンクールと言えば、横山さんは1990年の第12回大会に出場されて、第1位なし(優勝者なし)の第3位を受賞されています。その前の1985年の第11回大会ではロシアのスタニスラフ・ブーニンが優勝して、日本でもたいへんな注目を集めました。

 ブーニンは東京に来て国技館で演奏会をするほどの大騒ぎになった。ブーニンはロシアピアニズムのエリートの中のエリートですから彼の才能を否定することはないにしても、クラシックのピアニストにあんなに人々が関心を寄せることはめったにない現象でしたよね。

 横山 ブーニンは、ゲンリヒ・ネイガウス(1888年1964年)という昔の大師匠の孫ですからね。もちろん優れたピアニストですが、あのときはNHKがショパンコンクールのドキュメンタリーを放送したことに端を発したフィーバーだったところもありますね。それにソビエト崩壊の予兆があった時代の空気感とブーニンの演奏がリンクしていた感じもある。

 玉木 昨年NHKの『天才ピアニスト ブーニン 9年の空白を超えて』というドキュメンタリーを観ました。彼の人生にはその後いろいろな困難が待ち受けているのですが、それを支えている夫人は日本の方なんですね。

 横山 そうですね。

 玉木 横山さんが出場された1990年は、日本でもショパンコンクールへの関心が最高潮になっていた時期でしょう。

 横山 それこそ中村紘子さんも審査員でいましたからね。1980年のときは安川加壽子さんも審査員をされていました。

 玉木 あの頃の『音楽の友』などの音楽雑誌には、ショパン国際ピアノ・コンクールに行くツアーの広告がずいぶん出ていましたね。

 横山 今でもそうしたツアーに入らないと、ショパンコンクールのチケットはなかなか入手できないんですよ。僕が出場した後の頃ですが、観客の半分くらいが日本人じゃないかというときもあったようです。今は中国人がすごく多かったりして、地元のポーランド人が入れなくなったりしている。今のショパンコンクールは、ピアノの伝統があるヨーロッパの国から受けにくる人も減ってきていて、コンクールのあり方もだいぶ変わってきていますよね。

 玉木 話題をパデレフスキに戻します。彼の自伝を翻訳で読んだことがありますが、冒頭に「私は1860年に〝ポーランド共和国〟のクリロフカで生まれた」と書いてあるんです。ポーランドは最終的に1795年にロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割されて消滅し、独立を回復するのは1918年ですから、1860年にポーランド共和国なんていうことはあり得ないですよね。だから、そのくらいポーランド人、なかんずくパデレフスキには、独立したポーランドへの意識が強かったんでしょうね。

 横山 ものすごく強かったんでしょうね。

 玉木 パデレフスキの生地は今ではウクライナです。今のポーランドとウクライナの国境地帯からずっと南に下がったところで、当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったと思います。野村真理さんという歴史家の『ガリツィアのユダヤ人』で読んだのですが、当時のガリツィアから南の今のウクライナ西部地域はずっとポーランド人貴族の大土地所有のもとにあったそうです。ポーランド人貴族と言っても、ポーランドという国自体がないのでそれぞれの領土を治めていた君主のもとにいた貴族ということになりますが。例えばロシア領だとツァーリ、ドイツ領だとカイザーのもとにいたわけです。ちなみに、バルザックが最後に結婚したハンスカ夫人もこのあたりの領主だったはずです。結婚の許可をロシアのツァーリに求めに行っています。

 ポーランド人貴族は地主ではありましたが、実際に農地を管理していたのはほとんどユダヤ人で、そしてウクライナ人の農民はそこで悲惨な生活をしていたそうです。「ポーランド人の天国、ユダヤ人の楽園、ウクライナ人の地獄」という構図が続き、ウクライナ人の恨みは代官のように管理する立場にいたユダヤ人に向かっていたということはあるようです。それがその後の様々なポグロム(ユダヤ人迫害)、あるいは第二次世界大戦中の出来事に繋がっていった背景にもなっている。パデレフスキの家もおそらくそうしたポーランド系の地主の家で、今のウクライナの西部に暮らしていたのだと思います。

 ウクライナは現代でも数え切れないほどのユダヤ系の音楽家を出しています。ピアニストで言えば、ホロヴィッツやギレリスもそうです。ヴァイオリニストのオイストラフやミルシテインもウクライナ出身のユダヤ人です。ゼレンスキー大統領もユダヤ系の人ですが、今の戦争を理解するのにはあの地域の複雑な歴史、その中でも入り乱れた民族の在り方も知る必要がある。けれども、それを理解するのはすごくたいへんなことですね。

 横山 むずかしいですね。歴史的な背景もあるし、個々人がどのように感じていたのかはまた様々ですからね。

ポーランドの首相になったピアニスト〝パデレフスキ〟

 玉木 パデレフスキは、ピアニストでありながら政治家でもありました。第一次世界大戦が終わったときはポーランドの首相兼外務大臣になって、ヴェルサイユ条約に署名しています。これが大幅な譲歩だとして国内で猛烈な批判を浴びてしまい失脚します。ただそれで終わらずに、第二次世界大戦中にポーランドが1939年にナチス・ドイツに占領されると、臨時政府を立ち上げようと尽力している。最期まで政治活動を懸命にやっていますね。

 横山 そうですね。演奏会を開いて自分で稼いだお金を祖国の独立運動に使っていたそうです。それこそアメリカでもだいぶ活躍していました。アメリカのすべてのエンターテインメントの括りのなかで史上最も稼いだのは、パデレフスキだったのではないかという説もあります。マイケル・ジャクソンではないんです。国家がつくれてしまうくらいの規模の金額を稼ぐことがどうして可能だったのかは、僕にはわからないんですけどね。

 玉木 パデレフスキは若くしてアメリカに演奏旅行へ行っていましたが、その当時アメリカはヨーロッパよりギャランティーが良かったってことですかね。ラフマニノフも1943年に死ぬまでのかなりの期間をアメリカで演奏活動していました。

 横山 たまにスイスにもいましたね。

 玉木 革命後の困窮したロシア人の音楽家などをずいぶん支援していますよね。

 横山 個人でできるのは、そのくらいが精一杯ですよね。パデレフスキの場合は、イギリス政府はパデレフスキの資産を担保にして、ポーランドの借金を肩代わりしたという伝説めいた話も聞いたことがあります。

 玉木 今ピアニストでそんなに儲けている人はいるんですか。

 横山 いないでしょう。今の大谷翔平が何十年もかけて稼ぐレベル感の話ですね(笑)。

 玉木 パデレフスキの伝記を読んでいると、途中でピアノを弾くのが嫌になった時期もあるようです。ポーランドの首相になる直前はもう演奏活動してないですよね。今で言うスランプに陥っている。

 横山 僕が得た知識での印象ですが、パデレフスキはおそらく天才少年ではなかったのだと思います。割と晩学で努力をしてあそこまでいった人ではないか。そういうタイプの人はずっと努力し続けないと、質を維持できないことがあって、それで嫌になっちゃうときがあるという感じは受けますね。

「もっとシャンパーニュを飲んでおけばよかったな」

 玉木 パデレフスキは、カリフォルニア州のナパ・ヴァレーに2000エーカーのブドウ畑を持っていたそうです。パデレフスキはニューヨークで亡くなるのですが、「シャンパーニュが飲みたい」と言って一杯飲んで、それが最期になったそうです。

 経済学者のジョン・メイナード・ケインズは実に多彩な活動をした人です。学者・官僚としてはもちろんですが、保険会社の経営もして、投機にも手を出しているし、若い頃は同性愛だったけど、ディアギレフのロシア・バレエ団の踊り子と結婚しともに芸術を愛した人生を送りました。戦後すぐ亡くなるのですが、友人が病床のケインズを訪れて「これだけいろいろやったらもう思い残すことはないだろう」と言ったら、ケインズは「もっとシャンパーニュを飲んでおけばよかったな」と答えそれが最期の言葉になったという伝説があります。こうした偉大な先達にあやかりたいものです。

 横山 飲んでも、飲んでもそういう気持ちになるんじゃないですか。

 玉木 そうかもしれません(笑)。シャンパーニュもお好きですか?

 横山 普通のワインからシャンパーニュまで何でも飲みます。

 玉木 ワインを飲む愉しみと、音楽の愉しみには共通性がないわけではない。

 横山 共通性はいっぱいあると思います。ただ、共通性があるから飲んでいるわけではなくて、好きだから飲んでいるんです。けれども、それでは話が終わってしまうので、もう少し話を続けます。

 実は僕の趣味は、分析なんですよ。音楽、ワイン、シャンパーニュ、食事それから人間も分析の対象です。例えば、良い音楽や良い作品があるとするならば、なぜそれが人の心を捉えるのか。そこには理由があるのか、そこを分析するのがおもしろいんです。素晴らしい作品があったとしても、ある人が演奏すれば感動を与えるのに、ある人が演奏するとイマイチだったりします。その違いはどこにあるのか、それを分析するわけです。だから、僕のなかでは音楽は分析対象ですね。

 玉木 演奏自体も分析の対象なんですね。

 横山 演奏も分析対象だし、作品そのものも対象になります。自分がある作品を好きになったとすると、「この作品はこうありたいのだな」という感覚をまずはかっちりと掴む。それから、そもそもなぜ良い曲だと思えるのか、それを分析します。それが好きなんですね。

 それを演奏するとなると、僕はこういうふうに弾きたいとイメージが定まってきます。けれども100人のピアニストがいれば、当然そこには100通りの弾き方があるわけです。なぜこの人はこういうふうに弾いているのか、それを考える。その発想はどこから出てきたのか、意識的なのか、たまたまなのか。あるいはそれを良いとする理論的な裏づけはあるのか、といった分析をするわけです。

 ワインを愉しむときも似たところがあります。「美味しいから飲んでいる」と言えばそれまでだけど、なぜ美味しいと感じるのかなと、それを分析するのが好きなんですね。だから、よく生産者に会いに行って話を聞いていました。その土地の空気感がこういう味になるのかということを知ることが興味の対象なんです。それに僕は基本的にまず酔っ払いたくなくて、いつも神経を研ぎ澄ませていたいですね。

音楽の聴こえ方とワインの味わい

 玉木 私の場合は音楽もワインも自分の記憶と結び付いていることが多くて、それを思い出すことが心地良いですね。例えば、シューベルトのソナタをあそこであの人の演奏で聴いたなとか、ワイナリーを訪れたときの風景や匂いとか。音楽を聴いたりワインを飲んだりしていると、プルーストの『失われた時を求めて』ではないですがさまざまな情景が想起され、それが最大の愉しみかもしれません。

 横山 体験した記憶と結び付いているんですね。

 玉木 ワーッとその思い出が蘇ってくるようなワインはいいけど、行ったことのない土地のワインを飲んでもそうはいかないです。飲んでみると旨いけどそれだけ、ということはあります。だから、そういう思い出のリコレクションがない酒は、酔っ払うために飲んでしまっているような後ろめたさがありますね。

 横山 僕は知らない土地の知らない人がつくっているワインがあれば、どういう土地でどんな人がどんな思いでつくっているのかを想像するのも好きですね。

 玉木 ワインは食事の進行とともに、音楽会のように時間の経過とともに2時間ぐらい楽しむ喜びと似ているのかもしれません。

 横山 確かにワインの味わいはシチュエーションによって変わってきますよね。誰と何を食べながら飲んだのか、どんな雰囲気のときにどんな会話をしたのか。それによってずいぶん違ったものになります。音楽も似たところがありますよね。一人で本当にその曲だけを聴きたくて真剣に神経を研ぎ澄ませて聴くのか、それとも誰かと一緒に聴くのか。聴く場所や時間帯によってもまったく違ってきますよね。家なのか、ホールなのか、何となくバックミュージックで感じ良くなって流しているのか、朝の目覚めに聴いているのか。それぞれ聴こえ方は違ってくる。

 CDなんてデジタル情報ですから入っている中身は一緒ですが、受け取る側が人間である以上は、そのときの感覚でいろいろなことが変わってくる。そういう意味では、食事、ワイン、音楽というのは、時間の経過や感覚で変わってきますよね。

 玉木 酒としては最も官能に訴えるところが強いのがワインなのかもしれません。私は実は蒸留酒を飲まないようにしているんです。

 横山 やめられたのですか?

 玉木 1986年に2回目のパリ生活から帰る飛行機の中で、酒好きの私がこれからの大蔵省の厳しい生活を生き抜くためにはアルコールを少し減らさなければいけない、どうしようかと考えて蒸留酒を飲むことをやめようと決めました。

 それに蒸留酒を飲むと議論したくなる人が多くてそれもよくない。昔の役所ではよくウイスキーを飲んでいましたが、飲み進めるに連れて、ああでもないこうでもないと議論が終わらない(笑)。ワインや日本酒のような醸造酒のほうは、飲むとぼんやりしてきて理屈なんかどうでもいい気分になってそのうち眠くなる。日本酒よりもワインのほうが、茎だの皮だの種だのが入っていて不純物が多いでしょうから、面倒くさい現実世界から逃げ出すという意味では、ワインは一番効き目があるように思います。ワイン飲みのこじつけですけどね。

酩酊しながらピアノを弾くことにファンタジーはあるのか?

 横山 玉木さんはどういうときに音楽を聴きたくなるんですか。

 玉木 寝ているとき以外はずっと聴いています。職場でも自分のオフィスでは何か鳴らしています。パリのオフィスは昔ながらのシャトーの2階で入り組んだ廊下を上がり下がりするのですが、「音楽の聞こえるほうへ辿って行けばリンタロウの部屋に着く」と言われてました。音楽抜きなのはエレベーターの中だけだなと思ったこともありましたが、今はイヤホンでも聴けるので、寝ている時間以外は聴いていることができますね。

 横山 今もイヤホンか何か入っているんですか(笑)?

 玉木 いや、さすがに今は入っていません(笑)。音楽なしで何かをすることができなくなっています。台所で洗い物をする10分の間も何か鳴っていないと落ち着かないです。

 横山 僕はもちろん音楽が鳴っている状態は好きだし、もちろん自分で弾いているときは鳴らしている音楽を聴いているわけです。けれども、例えば文章を書くときや、人に何か指示をするときに音楽が鳴っているとそっちに意識がいっちゃうんですよ。

 玉木 それはプロフェッショナルだから。

 横山 音楽があると聴いてしまって、考えるのを忘れてしまうようなことはないのですか?

 玉木 それはないですね。職場でワーワー議論している最中も後ろで鳴っているけど、議論が疎かになっちゃうってことはない。むしろ何か考えるときには、音楽がかかって周りの環境が安定している状態のほうがいい。

 横山 仕事中に鳴っているときに使っている脳は違うのでしょうか?

 玉木 使っている脳は違うんでしょうね。脳の中の音楽に反応している部分を空白のままにさせておくことができないというだけで、別の場所は回転している。かえってつまらない役所の議論に集中できるのかもしれない(笑)。

 横山 人間の脳って面白いですね。

──ピアニストのなかには酩酊しながら演奏していたのではないか、と言われる人もいます。「飲酒と演奏」と聞くと悪魔的な魅力があるのではないかとも連想します。

 横山 イマジネーションの問題として、例えば時代によっては薬物やアルコールによって何か普段の精神とは違う、それこそ悪魔的な魅力というものがあるのかもしれません。けれども、演奏家のレベルで考えると、アルコールは必ず神経を麻痺させるので、演奏のコントロールは100%の状態から絶対に下がってしまう。それを上回るファンタジーがあるかどうかと言われると、バランスだと思いますが、そこにもしファンタジーがあるのだとすれば、それは酒を飲まなくても生まれてくるはずだ、と僕は思っています。それがそうではないものが見えてきてしまうのは、ほぼ麻薬の世界で、そちらはやばい世界ではないかなと考えています。

 玉木 サンソン・フランソワ(1924年1970年)は酔って演奏していたんですかね。

 横山 酒もそうだけど、あれは薬ですね。薬は行きすぎると精神に異常をきたしてしまいますね。 (終)

横山 幸雄・ピアニスト
よこやま ゆきお:ショパン国際ピアノコンクールで歴代の日本人最年少での入賞を果たし、演奏活動を開始。2010年ショパン生誕200年を記念して行われた14時間に及ぶ演奏会「入魂のショパン」はギネス世界記録に認定され、翌年には自らの記録を更新。またショパンが生涯で作曲した240曲のすべての作品を3日間で演奏し、DVDとしてリリース。ベートーヴェン生誕250周年の2020年には、2日間でソナタ全曲を演奏し、DVDを発表。最新CDはデビュー30周年記念公演のライヴ録音『横山幸雄 ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番他』。数々の音楽大学で客員教授を歴任。日本パデレフスキ協会会長。
玉木 林太郎・国際金融情報センター理事長
たまき りんたろう:東京大学法学部卒、大蔵省入省。国際局開発政策課長、駐米公使、官房審議官(国際局、主税局、大臣官房担当)、国際局長、財務官、経済協力開発機構(OECD)事務次長などを歴任し、2017年より現職。

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