『公研』2023年12月号「めいん・すとりいと」
「10月7日」は、中東国際政治の方向を、大きく変えた。2023年のこの日の朝まで、パレスチナ問題はかつてのように「中東問題」の中心ではなく、数多くある中東の紛争の「一つ」に過ぎないものとなった、という見方が支配的になりつつあった。
1993年の「オスロ合意」によって動き始めたイスラエル・パレスチナ和平の試みは、2000年を境に停滞し、停止した。ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区は、多くの面積がイスラエルの占領下に置かれたまま分離壁で囲まれ、ユダヤ人用の直通道路が入り組み、ユダヤ人入植地によって埋め尽くされる過程にあった。ガザ地区はイスラエル軍に封鎖され、実効支配するハマースが時折ロケット弾等をイスラエルに撃ち込んで来るものの、イスラエルの開発・配備したアイアン・ドームによって大半が撃ち落とされ、市民生活の平穏を乱すことはほとんどなくなっていた。
1973年10月6日に勃発した第4次中東戦争でエジプトやシリアがイスラエルに奇襲攻撃を行い、ここに湾岸産油国が呼応してイスラエルの友好国への石油禁輸をちらつかせ、「オイル・ショック」を引き起こしてから50年が経った。2020年に「アブラハム合意」でアラブ首長国連邦(UAE)がイスラエルと国交正常化を行い、次はサウジアラビアがこれに続く、と見られていた。
ここでもしサウジアラビアまでもがイスラエルと国交を結べば、イスラエルとパレスチナの紛争に際してアラブ諸国側が「オイル・ショック」に類する事象を引き起こして対抗する可能性はほぼなくなる。パレスチナ国家樹立に向けてイスラエルから譲歩を引き出すカードがアラブ諸国側になくなれば、イスラエルはパレスチナ問題で譲歩することはまずない。パレスチナ人は歴史の中に忘れ去られ、消え去る運命にあるかと思われた。
10月7日のハマースによるイスラエル領内への越境攻撃は、この見通しを激しく揺さぶった。イスラエル・パレスチナ問題を専門的に見ていたものであれば、イスラエルの報復がどれだけ大きく苛烈なものとなるかは即座に予想できた。その報復の規模は、各国の社会の圧倒的多数の強い反発・憤激を招くものであることは確実だった。イスラエルによる報復攻撃による一般市民の広範な犠牲は、各国の対イスラエル国交樹立を当面不可能なものとし、イスラエルと和平・国交を結んだ国々との関係すら揺るがし、今後のイスラエルとの協力・協調を不可能とする規模のものであると予期された。そのような見通しのもとで、イスラエルとの友好関係を維持することは、周辺諸国にとって大きなリスクとなる。
イスラエルに接近していたサウジアラビアは大きく「手のひら返し」を行い、イスラエルの占領政策と、第6次ネタニヤフ政権内の極右勢力による数々の挑発を列挙して非難した。パレスチナ問題の解決なくしてイスラエルの平和はなく、イスラエルがパレスチナを軍事的に占領し攻撃している間は、周辺諸国はイスラエルとの関係を改善しようがない、という基本ラインに、多くが立ち戻った。
イスラエルは、異なる意味で「10月7日の前と後で世界は変わった」と主張する。10月7日のハマースのテロは、イスラエルのほとんど無制限の自衛権を正当化する、イスラエルは文明世界のためにグローバルな対テロ戦争を戦っているのだと。しかしこれはテロ撲滅を口実にパレスチナ問題の存在そのものを消滅させようとする動きともとらえられかねない。しかし2001年9月11日に始まる米国の「対テロ戦争」は、2020年2月29日にカタールの仲介によって米国がターリバーンと合意し、アフガニスタンから撤退していったことで、すでに終結している。対テロ戦争を口実に地域紛争を自らに有利に戦うことはできなくなっている。
東京大学教授