『公研』2020年5月号「めいん・すとりいと」

大木 毅

 コロナ禍の蔓延により、世情は騒然としている。むろん、根本的な解決はワクチンの開発を待つほかなく、それまでは、いわゆる三密を避けての外出自粛等で感染爆発を防ぎながら、しのいでいくしかないのだろう。さりながら、そうした対応は社会・経済的なカタストロフィをもたらしかねない。「国難」という表現もけっして大仰であるとは思われぬ状況だ。政治家をはじめとする各界の識者がさまざまな提言をなすのも当然であるけれども、ある種の傾向が目立つことが気になる。

 その傾向とは、軍事アナロジーの多用だといえば、説明の必要もあるまい。緊急事態宣言発布や給付金交付の遅れをみては「戦力の逐次投入は愚策」と批判し、さらにはコロナ対策はウィルス相手の「戦争」であり、「戦略」を以て対さなければならぬと唱える。平和な日本のどこに、これほど多くの軍師が隠れていたのかと驚くばかりである。もっとも、そのほとんどは「床屋政談」ならぬ「床屋軍談」のようだ。

 かかる戦争・軍事のアナロジーの危うさは、さらに比喩を進めて、ウィルスの戦争目的は何か、あるいは、ウィルス側の「重心」はどこにあるかと、おそらくは突飛に聞こえるであろうが、軍事の論理からすれば当然である設問を加えてみれば、たちまちあきらかになるだろう。しかし、これらのアナロジーが濫用され、誤ったイメージを広めていくとあれば、嗤ってばかりもいられない。

 右に挙げた「戦力の逐次投入は愚策」というようなアナロジーは、兵力の集中運用によって決戦に勝ち、戦争終結をもたらすといった十九世紀までのモデルにもとづくものであろう。だが、ウィルス相手の「決戦」など在るはずもない。どこかに持てる医療リソースのすべてを投入し、そこで感染を止めて終わりなどということは夢想でしかないのだ。余談ながら付言しておくと、用兵思想の研究においても、そうした「決戦」により戦争を終結させることは十九世紀後半以降困難になったという認識は、大方の一致するところである。

 にもかかわらず、本来ならば、公衆衛生や医療のみならず、社会・経済的、あるいは国家財政の問題までも勘案し、それぞれのメリットとデメリットを計算しつくした上で、より適切な策を決めなければならぬウィルス対策に、軍事理論の一部を切り取って持ち込む。それは、実のところ、不適切なレトリックにすぎない。ウィルス対策とは、畢竟「戦略」の上位にある「政治」の領分なのだ。

 もちろん、軍事の思考方法や軍隊組織の運用といったことに、他の分野、社会政策や企業の経営に応用できる部分があることは否定しない。たとえば、COIN(counter-insurgencyの略)と呼ばれる対ゲリラ・テロリスト作戦の理論や経験則は、ウィルス対策を考える上で有益であろう。しかし、軍事理論を恣意的に引いてきて、一見もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きいと危惧するものである。

 とはいえ──現実には、そのような「床屋軍談」的な「戦略」論が頭をもたげている。これもまた、戦後の日本人に顕著な「教養としての軍事知識」の欠如がなせるわざかと嘆くのは、戦史・軍事史を研究している筆者の僻目か。現代史家

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