鈴木 一人 『公研』2016年9月号「めいん・すとりいと」

 米共和党の大統領候補となったトランプが「核を持っているのに、なぜ核を使えないのか」と専門家に聞いたという噂が流れたことで、もしトランプが当選すればアメリカが本当に武力紛争で核を使う可能性が出てきたと大騒ぎになった。さらに、時を置かずしてオバマ大統領が、「核なき世界」を実現する手段として「核の先制不使用」を宣言することを検討しているという報道があり、さらには国連の作業部会で核兵器禁止条約の議論も始まったことで、核廃絶の運動家から核戦略の専門家まで百家争鳴状態となった。

 核廃絶の運動家は、核が存在する限り、トランプのような人物が大統領になれば熱核戦争が起こり、人類は破滅すると警鐘を鳴らす。もし核兵器をなくすことが出来ないのならば、最低でも核の先制使用を放棄し、核兵器の使用を核抑止に限定すべきであると主張する。現在のようにアメリカが核の先制不使用を明言しない限り、通常の紛争で核兵器が使われる恐れがあるが、先制不使用を宣言すれば、核兵器によって攻撃された時のみ核兵器が使えるという限定をつけるべきとの議論だ。

 他方、核戦略の専門家はトランプの議論もオバマの議論も危険であり、現状維持が最適解であると主張する。いかに邪悪な敵を相手にしても、核兵器を使う誘惑に抗い、敵の核攻撃に対する報復手段としてのみ使うと自制することで核抑止は機能する。しかし、核の先制使用の可能性をあいまいなまま残しておくことで、敵の通常兵器による攻撃に対しても核を使うかもしれないという恐れを抱かせ、紛争そのものを抑止する効果もあると主張している。

 元々、核抑止は米ソ冷戦構造の中で発達し、両陣営が地球を何度も破壊できるほどの核兵器を保有するという恐怖の中で成立したものである。その冷戦構造が崩壊した後も核兵器は残り、それらを抑止するための核抑止論は継続されている。しかし、中国は南シナ海や尖閣諸島周辺で力による現状変更を試みており、北朝鮮は核不拡散条約(NPT)体制に背を向けて独自の核・ミサイル開発に邁進している。そんな中でトランプのような核兵器を安易に使いかねないリーダーが出現するとなれば、核戦争の可能性を著しく高めることになる。

 逆に核の先制不使用を宣言することで、かつてのキューバ危機のような状況を生み出す恐れもある。ケネディ大統領が核の先制不使用を宣言したことを「弱さ」と見て、ソ連はキューバにミサイルを配備し、人類は核戦争の一歩手前の状況を経験した。もしアメリカが核の先制不使用を宣言すれば、中国や北朝鮮がかつてのソ連のような行動をする可能性も否定することはできない。

 結局、オバマ大統領は「核の先制不使用」を宣言することは諦めたと見られ、またトランプが大統領になる可能性は小さい。しかし、ここで議論されたことは、これからの世界秩序や安全保障のあり方が大きく変わりうる可能性を示唆している。

 その中で唯一の被爆国である日本は、アメリカによる核の先制不使用宣言に反対する旨を伝えたと報じられている(安倍首相は否定)。目の前に中国や北朝鮮の脅威が存在する状況で、現状の核抑止状態を変更することは日本にとっても大きな戦略的変更となる。原爆を投下したアメリカの現職大統領が初めて広島を訪問するという歴史的な出来事は、日本にとって核兵器とは何か、アメリカの核の傘とは何かを改めて問い直すことでもある。「核なき世界」に向かうのか、その際、中国や北朝鮮とどう対峙するのか、我々の判断が試されている。 北海道大学教授

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